2020年01月21日

忘れられない一言(ひとこと)


人生を長年過ごしてきてこれまで色々な人にお世話になってきた。その中にはご迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせた人もいる。お叱りをうけたこともあり、貴重なアドバイスの言葉をいただいたこともある。また思いがけない有り難い言葉をいただいて生きる勇気をもらったこともある。
そういった言葉をいただいたお陰で、その後の人生で大きな過ちをしなくてすみ、考えの甘さを反省することができて、少しは大人になることができた。
短い言葉であるが私の脳裏に今でも鮮やかに残っている忘れられない一言(ひとこと)のいくつかを挙げてみる。
一つ目の忘れられない一言は「今井さんにだまされたと思えばあきらめがつく」という言葉である。
この言葉は今から約30年前、当時三重県伊賀上野市でホームセンターを経営していた平井和夫(仮名)さんに言われたものである。
平井さんとは私が研修講師として独立する前、三重県商工労働課が主催した問題解決法(EM法)の研修にご参加いただいたのがきっかけでお付き合いさせてもらうようになった。平井さんには私が研修講師として独立して仕事を始めた時に品川高輪にあった平井さん所有のマンションを事務所として無償で貸していただき、さらに平井さんの会社の顧問ということで数年間、毎月25万円という破格の顧問料をいただいた。私にとっては本当に有り難い友人であり、何かの形でご恩返しをしなければいけないと思っていた。
ある時、私の長年の友人であった京都在住のMさんから「私の知り合いに面白いビジネスを考えている男がいる。Aという名前の男だが一度会ってみないか?」という話があった。Mさんは京大を出て、大手都銀に勤めた後、独立して経営コンサルタントをされている。Mさんにはこれまでもいくつかの顧客を紹介してもらったこともあり、信頼出来る人であった。
Mさんの紹介なら安心ということでA氏に会ってみた。当時NTTの回線を使ってダイヤルQ2という新しいビジネスが流行っており、A氏は「これは絶対儲かる話です。ただビジネスを軌道に乗せるにはお金が数千万必要だが自分にはお金がない。出資してもらえないか」と言う。私だって「そんなお金はない」と言うと、「誰かお金を持っていて、スポンサーになってくれる人はいないですか?」と言う。そこで平井さんを思い出して、平井さんを儲けさせることができるかもしれないと考えて、この話を平井さんにつないだ。
平井さんの住んでいる伊賀上野にA氏と一緒に行き、事業の概要を説明すると、平井さんは「分かった。今井さんの紹介でもあるし、話に乗りましょう」ということでまずは5000万円出資することになった。その後もA氏は何かとお金が必要だということで言われるままに平井さんが出資した金額がなんと2億円に達した。事業は目論見どおり展開せず店仕舞いした方が良さそうだということで清算した結果、1億7000万円の損失が出た。
清算作業が終わった後、平井さんに「私があなたにA氏を紹介したばかりにこのような迷惑をかけることになった。申し訳ないことをした。許してほしい」と頭を下げたところ、平井さんは「今井さん、頭を上げて下さい。大損したが、今井さんにだまされたと思えばあきらめがつきます。あまり気にしないで結構です」と苦笑いを浮かべながら言う。
私がA氏の紹介者であったMさんを信頼していたように平井さんは私を信頼してくれていた。もし、私が紹介者でなかったらこの話には乗らなかっただろう。平井さんはA氏を信頼していたわけではなく、私を信頼していたからこそ多額のお金を出資することになったのである。
「今井さんにだまされたと思えばあきらめがつく」という言葉は、「何であんな男を俺に紹介したのだ」と責められるより、私にとってはつらい言葉だった。ただ、私をこのように信頼してくれる人がいることを大変嬉しく感じた。そして私をここまで信頼してくれていた平井さんに多大な迷惑をかけるような結果になった私の軽はずみな行動を心から反省した。
このことが教訓になって、自分がよく知らない人を紹介する時は十分相手を見極めてから紹介するようになった。それと濡れ手で粟のような話は絶対、友人・知人に紹介することのないようにしようと心掛けて今日まで生きてきた。
平井さんはその後本来の事業で失敗して、伊賀上野を離れて、私とは音信不通となっているがひょっとしたら私の紹介したビジネスの話が何らかの悪影響を与えたのではないかという思いがあり、あれから30数年経った今でも申し訳なく思っている。

二つ目の忘れられない一言は「お金は貸さない。でも、どうしても必要なら上げる」である。
これは埼玉県川口市で独自製品を開発・製造・販売している会社を経営している小山 栄(仮名)さんに私が「お金を用立ててほしい」とお願いした時に言われた一言である。
小山さんとは私が独立する前の昭和61年頃、EM法の公開セミナーの講師を務めた時に知り合い、同郷ということもあり、親しく交際するようになった友人である。
私は自分が始めた会社、シンキングマネジメント研究所を有限会社でスタートさせたが、有限会社より株式会社の方が世間一般の方の印象がよさそうに思えて、株式会社にしようと考えた。当時は株式会社の最低の資本金は1000万円であった。悲しいことに私には600万円しか持ち合わせがなく、そこで小山さんに「不足するお金400万円ほどを出資してもらえないか」と話した時、「出資するといってもお金を貸すようなものだ。友人間でお金の貸し、借りをすると、後で『返せ、返せない』というもめごとに発展して、長年の友情が壊れてしまうことがある。私は友人とは金の貸し借りはしないことにしている。今井さんがどうしても必要ならばお金は用立てる。そのお金は出資ではなく今井さんに上げることにする」と言う。
さらに「今井さんが声をかければ出資してくれる人がいるかと思うが、そういった人は最初は『配当なんて期待していない』と言うが、人には欲があり、配当がなければ必ず文句を言ってくる。だから他人に出資を仰がない方が賢明だと思う。株式会社にすることが本当に得策なのかをもう一度考えた方がいいのではないか。その結果、どうしても株式会社にしたい、しかしお金がないということであればいつでも言ってくれ。400万だったらすぐ振り込む」と言われた。
「分かりました。考えてみます」と言って、その時は別れた。どうしたものか考えていたところ、以前からの友人のOさんと会う機会があり、株式会社化の話をしたら、「ぜひ私に出資させてほしい。配当なんてまったく期待していない。ただ、びっくりするような利益が出て処分に困るようなことになったら配当してくれ」と言われる。
そのようなことで小山さんには相談することなく、Oさんに出資を仰ぎ、株式会社にした。
沢山の利益が出たらよかったが、いつも赤字すれすれの決算であった。
Oさんに配当することはできないまま、数年過ぎた。ある日、Oさんから「出資させておきながらなぜ、無配当なのか、何かおかしなことをしているのではないか」といった意味の抗議の電話が来た。その時、Oさんはどうもお酒を飲まれているようであり、だから本音をさらけ出したのかもしれないが、電話で私を口汚なく罵倒?する。なぜ、ここまでこの人に言われなければならないのかと悔しい思いをした。配当こそしてなかったがそれなりに礼を尽くしてきたつもりだった。しかし、それは私の勝手な思い込みであったようである。
この時になって小山さんの忠告を聞いておけばよかったと心から悔やんだ。その後、Oさんの持ち株は買い取ることにして、全株自分が所有することにしたので、無配当でも誰からも文句を言われることはなくなった。そしてOさんとは絶交することにした。
お金の貸し、借りは長年の友人関係をダメにしてしまうというのは小山さんの言う通りであろう。
小山さんの「今井さんにはお金は貸さない。どうしても必要なら上げる」という言葉は私を信頼してくれているからであり、私のことを真に考えてくれたからであると思う。
決してお金を出し惜しみしたわけではなくて、私がどうしてもと言ったら本当に400万円という大金を振り込んでくれたと思う。
小山さんが私に言いたかったことは研修専門の会社が借金してまで株式会社にする必要はないということであったと思う。それでもどうしてもそうしたかったらお金が溜まったところで、自己資金で株式会社にすればよいのであって何も背伸びをすることはないということであった。
「友情ある説得」というタイトルの映画があったような気がするが、正しく小山さんは私に友情ある説得をしてくれた。
小山さんのアドバイスに耳を傾けなかったために苦い思いを味わった以降は、他人からお金を融通してもらうことは絶対しないようにしてきた。どうしても必要な時は割り切って処理できる銀行から借りるようにしてきたので、その後はお金の貸し借りで友情にひびが入るようなことはまったく起きていない。

三つ目の忘れられない一言は「一緒に仕事ができて幸せでした」という言葉である。
この言葉は私が13年間勤めていた木更津にあったソニーの子会社(現ソニーイーエムエスシー木更津テック)を去ってソニー本社に勤務するようになった際、職場の皆さんが催してくれた送別会の席で私の部下であった東貞夫(仮名)さんが私に言ってくれた言葉である。
部下といったが彼は私にとってかけがいのない仕事上のパートナーであった。私は総務部長を務めていたが、彼には施設管理関係の仕事の責任者をしてもらっていた。
彼は私とまったく同年齢であり、私は全幅の信頼をおいていた。寡黙な男で、必要なこと以外はほとんど喋らず、上司に対してもおもねるような態度をとることは一切しない男であった。
その彼が送別会もそろそろお開きにしようという時間に私の席に来て、私の手を強く握って、「今井さんと一緒に仕事ができて幸せでした。心から感謝しております。本当にありがとうございました」と涙をにじませながら言ってくれる。
「いや、私の方こそ東さんに感謝している。ありがとう」と彼の手を彼以上に強い力で握り返した。
本当に彼がいたから仕事はスムーズに運んだ。どんなことがあっても泣き言を言う男でなかった。
いくつも思い出に残る事柄があるが、そのうちの一つに門扉の製作がある。
「不用心だから門扉を作れ」と鳥山社長の指示があり、その製作を彼に依頼した。
「どこかに発注してよろしいのですか?」
「いや、予算はゼロなんだ。何とかならないか」
「それは無理ですよ」
「無理を言って悪いと思うが、そこを何とか頼む」
「分かりました。何とか考えてみます」
一週間後、見事な門扉ができた。
鳥山社長に呼ばれて「えらい立派な門扉ができているが、いったいいくら掛かったんだ」と言われた。
東さんに確認すると「ゼロです。材料は生産技術部から分けてもらい、それを加工しました。溶接材料は前からのストックがあったのでそれで使いました。でも、これが出来たのはN君のお陰です。すべて彼がやったようなものです」と言う。
N君は東さんの部下であり、いつでも手柄は部下に譲るといういつもの東さんらしい答えがこの時も返ってきた。
鳥山さんに報告すると「お前はいい部下を持って幸せだなぁ」と言われた。
本当に東さんは文句の一つも言わず私の期待に応えて何でも厭わずやってくれた。感謝しても感謝しきれないほどの仕事をこなしてくれた。
私は東さんに感謝の言葉を贈ってもらえるような上司ではなかったことを自分が一番承知している。
私は人を使う立場のマネジャーとしては不向きな男であり、部下に過酷なことを要求するくせにそれに感謝するような労いの言葉をかけることは少なく、私を怨む人はいても私に感謝する人はほとんどいないと自分では思っていた。
私は東さんの手を握りながら「東さんには色々な場面で助けてもらった。それに対して何もしてあげられなかった。ふがいない上司であったことを謝りたい」と話した。
「とんでもない、今井さんが自分達の味方だったということはここにいる連中は皆、知っていますよ。皆、今井さんがいなくなってしまうことを心から悲しんでいます」と言ってくれる。彼が追従を言うような男でないことは私が一番知っており、このようなありがたい言葉を言っていただいて私の目からも涙が出てきた。
組織の一員として複数の人達と協同して仕事をする上で、一番幸せなことは自分をよく理解し、正当に評価してくれる上司に恵まれることであると言われるが、私はそれ以上に上司の立場をよく理解して、汗を惜しまず協力してくれる部下、同僚に恵まれることではないかと思う。
自分が部下から敬愛されるような上司でなかったと思っていただけに、東さんの「今井さんと一緒に仕事ができて幸せでした」という言葉は、こんな私を信頼してついてきてくれた人がいてくれたということで本当に嬉しかった。
この思いもかけない感謝の言葉を私に贈ってくれた東さんは数年前、ガンで亡くなってしまったが、彼のこの時の言葉はその後の私の人生にどれだけ自信を与えてくれたか計り知れない。

四つ目の忘れられない一言(ひとこと)は「人を責める前に己の無知を責めなさい」という言葉である。
この言葉は私が30代の後半、ヒューマンアセスメントのアセッサー養成コースという社外研修に参加した時、一緒に参加していた高橋さんという方に言われた一言である。
講師がやたらと横文字を使うのに閉口した私が、このコース終了後の懇親会の席で隣り合わせた私よりはるか年配、50代の後半と見受けた高橋さんに「いやぁ、あの講師の横文字の乱発には参りましたねぇ。横文字をわざわざ使わないで日本語でお願いしたいものですねぇ」と話しかけた。私より年配者だからこの人も講師の横文字の多さに閉口して 「まったくその通りですねぇ」という返事が返ってくると思ったら、高橋さんは「あなたは私よりはるかに若い。そのあなたが横文字が多いといって講師を責めるのはおかしいよ。その横文字の意味を知らない自分の無知を責めなければいけません。分からなかったら辞書で確認すればよいではないですか」と言う。その言い方に一瞬、反発を感じたが、確かに高橋さんの言われる通りである。
高橋さんは「分からない言葉が出てきたら書き留めておいて、後で辞書で引けばよいのです」と言う。そう言われる高橋さんの傍らに国語辞典と英和辞典があった。
後日、高橋さんからこの時の立派な講義録が送られてきた。そこには私が分からなかった横文字に日本語の意味が付してあった。素晴らしい講義録を前にして私は恥ずかしくなった。
「己が無知であることを恥ずかしいことだと思いなさい」という高橋さんの言葉は私のその後の生き方に大きな影響を与えた。
自分が理解できない言葉を使われたからといって、使った相手を責めるのではなく、分からないのは己がよくないのであると自分に言い聞かせて、何らかの手段を講じて自分で分かろうとする努力を惜しまないようになった。辞書を必ず持ち歩くようになった。
分からないことの大半は辞書を引けばどこかに出ているものである。
高橋さんが言われた「分からないことがあったら分かるように自ら努力しなさい」という教えがなかったら、私は自分の勉強不足を棚に上げて他人を非難していただろうから私にとっては大変有り難い忠告であった。
知らなかったことを知る、分からなかったことが分かるようになることは楽しいことである。それも他人から教わるのではなく自分の力でそれができるとより楽しい。
高橋さんからいただいた名刺の肩書きはNTT、当時は電々公社であったかと思うが都内にある支店長というものであった。
講義録をいただいた時はお電話でお礼を申し上げたが、その後は疎遠にしており、今現在、どこにおられて、そもそも存命かどうかも分からないので、お会いして「高橋さんの教えのお陰で少しは利口になることができました。ありがとうございました」とご挨拶できないのは大変残念である。

五つ目の忘れられない一言は「ケンカする時は対等ではなく一段上から相手を見なさい」という言葉である。
この言葉は前述した東さんの時にも登場した私がソニーの子会社に勤務している時、その会社の社長であった鳥山さんに言われた言葉である。
この会社に斉藤さんという個性豊かな人がいた。彼は自尊心の高い男で周囲とあつれきを頻繁に起こしており、私が彼より年下であるにも関わらず、職位上は上位者であったのが気に食わなかったのだろうが、私にも何かと反抗的な言辞を弄していた。
詳しいことは忘れてしまったが、社内の会議の際、彼の主張があまりにも一方的であったので、それをたしなめるようなことをやんわりと言ったところ、彼は大変立腹して、私に食ってかかる。その態度に腹を立てた私は、「あなたの主張には同意できない。どう考えても間違っていると思う」とはっきりと言った。
私が満座で「あなたは間違っている」と言ったので彼は顔を真っ赤にして私に「今の発言は撤回しろ!謝れ!。謝らなかったら侮辱罪で訴える」と言う。売り言葉に買い言葉で「訴えたかったら訴えてもかまわない。これ以上あなたと話したくない」と言って取り合わなかった。
剣呑な雰囲気のまま会議は終了して、私は自席に戻って仕事をしていたら、鳥山さんから「社長室にすぐ来なさい」という電話があった。
急ぎ社長室に行くと、鳥山さんが「今、ここに斉藤君が来ていて「今井に恥をかかされた。今井を訴えるといって大変怒っていた。斉藤君をここに呼ぶから『申し訳ないことをした』と言って謝りなさい」と言う。「なんで私が謝らなければいけないのですか。非は斉藤さんにあります。誰かがガチンと言ってあげなければいけなかったんです」と言うと、鳥山さんは「お前は自分自身と斉藤君を比べてどっちが上等な人間だと思っているのか?」と聞く。「それは私の方が上等だと思っています」と言うと、「そうだろう。自分が上等な人間だと思えばあいつは可哀相な奴だと思えるはずだ。ケンカする時は対等ではなく一段上から相手を見なさい。自分を一段高い立場に置くと、この人はどうしてこんな物言いしかできないのか、哀れな奴だなあと思えて怒る気持ちはなくなるはずだ。これから不愉快な思いをして怒りたい気持ちになったとしても、相手と対等になるのではなく、自分を相手より一段高い立場に置いて相手を見なさい」と言われる。
そう言われるとそんな気がして、斉藤さんに対してムキになって反論したのが恥ずかしくなってきた。
鳥山さんは「これから斉藤君をここに呼ぶから、お前は一言『失礼なことを言って申し訳ありませんでした』と言いなさい。斉藤君には私からお説教するから」と言われる。
社長室に呼ばれた斉藤さんに私は鳥山さんに言われたとおり素直に謝まった。本人は分かればいいのだという顔をしているが、こんな男と張り合うのは愚かなことだという気持ちになってその場を去った。その後、鳥山さんは斉藤さんに諄々とお説教されたようである。
このことがあってから仕事の上で意見が対立するようなことがあっても怒るということはほとんどなくなった。もちろん、怒りたいという気持ちになることはあっても、一段高い立場に自分を置いて、冷静に考えるようになった。そうすると、まあ目をむいて怒ることもない、まあ許してやろうという気持ちになってきた。
鳥山さんの教えはその後のサラリーマン生活の中で大変役に立ったが、この教えは家庭生活でも多いに役に立った。妻や子供が夫であり父親である私をないがしろにする?度重なる発言にも、(女・子供相手にムキになってはいけない、この人達は私の真の価値が分からない可哀相な衆生である)と言い聞かせて怒りを抑えてきたおかげで今日までなんとか無事に来れたので大変貴重な教えである。
もっとも妻や子供は私とは逆のことを思っているかもしれないが…………。
私は自分が実にいい加減な男であることを自認しており、そのような私にここに紹介したような言葉を語っていただけたことは本当にありがたいと思っている。

作家の伊集院 静さんがある雑誌に次のようなことを言っている。
「運命が人の行く末を決めるのではなく、人との出会い、己以外の人の情愛が、その人に何かを与えるのだと思う。人一人の力などたかが知れていると思う」
まったくその通りで、私が今日まで人様に後ろ指を指されることのないまともな人生を歩んで来れたのも、これまでの人生の様々な場面で巡り合った人達からの教えの賜物であり、そのような人達に心から感謝している
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仕事の結果=脳力×意欲


私は以前、千葉県木更津にあるソニーの子会社で人事・労務部門の責任者として働いていたことがある。 私は自分自身が頭の出来はよくないくせに、つい人を評価する時にどこの大学を出ているのか、偏差値の高い学校出身なのかということで頭脳を基準にするきらいがあった。
しかし、人は頭脳だけではない、頭脳は優れていなくても意欲があれば仕事の上で立派な結果を残すことができるということをこの会社で思い知らされた。
私のこの子会社勤務は二度目であり、元々この子会社に長いこと勤務していたが、ソニー本社の幹部からのお誘いもあって本社で研修講師を勤めた後、再びこの会社勤務を命じられて昔の仲間と一緒に仕事をするようになった。
私がこの会社にカムバックして一番最初に目についたのは、受付をしていた女性であった。セクハラの謗りを受けるかもしれないが、彼女はなかなかの美人でスタイルもよく、愛嬌もあり、何より元気だった。
 1 0 メートル離れていても、お客様の姿が見えると大きな声で「おはようございます。お待ちしておりました」と深々と頭を下げて歓迎の挨拶をする。お帰りになるときには、「お疲れ様でした。お気をつけてお帰り下さい」と元気かつ丁寧に挨拶をし、姿が見えなくなるまでお客様を見送っている。実に気持ちのいい受付
嬢だった。
 実際に、何人ものお客様から、「おたくの受付の女性はいいねぇ。明るい元気な声で、私たちを本当に待っていてくれたと思わせる心の行き届いた応対をしてくれる。どんな教育をしているのか一度是非教えてほしい」と言われた。
「お褒めにあずかって恐縮です。でも特別な教育はやっていません」と答えたが、本当に何の指導もしたことはない。指導するもしないも、この女性はウチの社員ではなく、派遣会社から派遣されてきた女性であった
あまり多くの人に褒められるので、私の部下に彼女のことを話すと、彼は「今井さん、あの子は今井さんが不採用にした子ですよ」と言う。私は彼女をどうして不採用にしたのか覚えていないので「本当? なぜ私が不採用にしたの? 」と聞くと 「2 年前、今井さんがこの会社におられた時、大々的に社員を募集しましたが、その時、彼女は事務職志望で応募して来ました。しかし、ペーパーテストの結果が合格基準に達していなかったんです。確か今井さんは『見た目は良いが、テストの結果が悪いのでは困る。残念ながら不採用にしよう』と言われたのでN G にしたのです」言う。
そう言われると、確かに数年前、この彼女に会ったような気がしてきた。この彼女は当方の事務職の採用試験に落ちたにもかかわらず、どうしてもソニーで働きたいということで、この会社の警備・受付業務を請け負っていた警備会社の受付嬢募集に応募し、合格して、そこから派遣という形で私どもの会社の受付嬢を務めることになったという。
お客様へのはつらつとした応対を見るにつけ、京セラの名誉会長をされている稲盛和夫氏が以前テレビに出演したときに、「仕事は頭がよいからといって成功するとは限らない、なんとしてもやり遂げようという意欲がなければ成功しない、つまり『仕事の結果= 脳力×意欲』である。頭がよい= 脳力が高いからといって努力しなければいい結果は得られない。 仕事の結果は脳力×意欲の掛け算である」と言われたことを思い出した。
 訪れるお客様の評判が大変よいことを彼女に話したら「私は部長さん(私のこと)もご存じのように頭が悪いので、私の取り柄である『愛嬌』と『元気』で受付のお仕事を務めさせていただいております」と話してくれた。
彼女はペーパーテストの結果は悪かったという理由だけでNGにしてしまったが、彼女は『脳力』の不足を補って余りある「意欲」でカバーしたので、お客様から高い評価を受けることになったというわけである。

この受付嬢に関しては後日談がある。
私がこの会社にカムバックして1年ぐらい経ったとき、この人から「結婚するので受付の仕事を今月一杯で辞めることになりました。」という申し出でがあった。
このことを当時この会社の社長であった田村さんに伝えると、
「今井さん、何とかならないか。私のところに来るお客さんが一様に彼女のことを褒める。君の代わりはいくらでもいるが、彼女は余人をもって代えがたい人材だと思う。結婚して子供さんが生まれるまでは勤務してくれるように説得してくれないか」と言う
そうはいってもウチの人間ではないので当方の自由にはならない。
彼女の雇用主である警備会社の責任者に当方の希望を伝えると、「彼女の結婚相手は遠方に住んでおり結婚を機にこの地を離れてしまうので引き止めるのは困難です」と言う。
田村さんにその旨を伝えると大変がっかりされて肩を落として考え込んでいた。そして、「今井さん、表彰状と金一封を用意してほしい。異例のことだが、彼女を表彰したい。そうしないと私の気がすまない」と言われる。田村さんは東大卒で、普段は冷静沈着な人だったが、この時はこの人らしくなく上気した顔付きであった。私も田村さんの気持ちがよく理解できたので、さっそく表彰状と金一封を用意して、彼女を社長室に呼んだ
彼女にしてみれば、なぜ自分が社長室などに呼ばれるのかが分からず、何か失態でもしてお叱りを受けるのではないかと思ったようで恐る恐る入ってきた。私が呼び出した理由を伝え、謹厳実直を絵に書いたような田村さんが顔を真っ赤にして表彰状を読み上げ、金一封5万円を添えて手渡した。彼女は思いがけないことにびっくりし、そして感激のあまり泣き出してしまった。その場に居合わせた私を含めて全員が力一杯拍手をして彼女に感謝の意を表した。
彼女の頬を伝う涙は、受付の仕事を一所懸命している自分を認めてくれる人がいたことの喜び・感激であったと思う。
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風に向かって立つライオン


私の大好きな歌に、さだまさしさんが作詞・作曲した「風に立つライオン」がある。
ご存じの方も多いかと思うが、日本の青年医師がアフリカの医療施設も完備していない地域に赴いて医療活動に従事するという姿を描いたもので、詞も曲も編曲も素晴らしく、さださんの歌唱力と相俟って感動を与える楽曲となっている。
歌の一部を紹介すると次のような詞がある。
(中略)
診療所に集まる人々は病気だけど
少なくとも心は僕より健康なのですよ
僕はやはり来てよかったと思っています
辛くないといえば嘘になるけど しあわせです
あなたや日本を捨てた訳ではなく
僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです
空を切り開いて落下する滝のように
僕はよどみない生命を生きたい
キリマンジェロの白い雪 それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい

アフリカの恵まれない人達を対象に医療活動に従事するという姿を風に向かって立つライオンに例えているが、私は5,6年前、この歌を最初に聞いた時、感銘を受けた。
この歌に触発されて恵まれない地域の医療活動に従事する人が現れたという話を聞いたことがあるが、そういう気持ちにさせるのに十分な歌である。
この歌に触発されたわけではないと思うが、実在の人物で実際にそういう活動をしている人の話が、私が購読している新聞の「日曜版」で紹介されていた。
その人とはパキスタン北西部やアフガン東部で医療活動を続け、干ばつや水不足対策のために、1600の井戸を掘り、灌漑用水路を引き、何十万人もの命を救ってきた日本人医師中村 哲さんであり、作家の澤地久枝さんが『人は愛するに足り、真心は信ずるに足るーアフガンとの約束』(岩波書店)というタイトルの本でその中村医師の活躍を紹介している。
澤地さんは執筆の動機について、「用水路を造るために16億円かかっているのですが、それは日本のペシャワール会(中村医師を支援するNGO)の会費や寄付によっています。
遠く離れたアフガンに心を寄せ、国境を越えて支えた日本人が、こんなにもいること。それは、今の日本が誇れることだと思いました。まだ日本人に絶望することはない、自分なりに中村先生のお役に立ちたい、と思ったのです」と語っている。
中村医師は1946年、福岡市に生まれ、ハンセン病の治療を出発点に、アフガン難民の治療、診療所造りを進め、歳月を重ねるなかで、水路建設の土木工事の指揮をするまでになった。
澤地さんは「求められていながら、誰も行く医師のいない場所があれば、そこに行く。なすべきことを誰もなさなければそれを(自分が)やる」というのが中村医師の流儀であると語っている。
この中村さんの「なすべきことを誰もなさなければそれを(自分が)やる」という流儀には頭が下がる。すごい人がいるものだと心から感心した。
私は早速購入して読ませていただいた。
読み終えて、中村医師のようなピュアな人がいるのだと思うと、この世の中も捨てたものでないという感慨を覚えた。
医療活動に従事する、しないはともかくとして、こういった金も栄誉も求めず、ひたすら自分を求めている人達のために役立つ行動をするという人がこれからも沢山輩出したら、世の中も少しは良くなるのではないかと思う。
私も若い頃、地球上のどこかで世の中のお役に立つようなことをしてみようかなということをほんの少しだけ夢見たことはあった。それは当時、フィデル・カストロやチェ・ゲバラに率いられた82名の兵士がキューバの独裁政権を破ったというニュースに刺激されたこともある。だが、そうかといって海を渡って国造りに参加するなんてことは夢のまた夢で終わった。
社会人になってからは、現実に流されて、いつの間にか自分の生活を維持することに追いかけ回されて、地球上のどこかでお役に立とうなんて夢を思い浮かべることもなかった。冒頭に紹介した「風に立つライオン」を聞いて身が震えたのは私の心の片隅に私自身も風に向かって立つライオンのようでありたいという思いがほんのわずか残っていたからではないかと思う。
齢70歳を越えて、今さら「風に向かって立つライオン」になろうなんてだいそれたことを考えないが、さだまさしさんがこの歌に託した精神を体して、自分のできる範囲で、お金にはならないが誰かがやらなければならないこと、世の中を少しは良い方向に向かわせることにささやかでもいいから役立ちたいと思う。
私の友人で建設関係の会社の人事部長をされていたMさんは手品が大変上手で現役の頃から休日には老人ホームを訪問して、その腕前を披露していた。勿論ボランティアである。
現役を退いた今は以前に増してそのボランティア活動に力を入れて多くの人を楽しませている。
私にはそのような芸はないので、何をするかはこれから考えなければならないが、一つ考えられることは、自分が天職と心得ている研修講師の仕事をボランティアで務めることである。
研修の機会に恵まれない中小企業、それも地方の中小企業の人達を対象に研修会を行ってもよいし、さらに財政難で苦しんでいる地方自治体、それも市町村の職員を対象に研修を行ってもよいかもしれないと思う。
中村医師の活動と比較したら大変次元が低くて恐縮だが、少しは世の中のためになるのではないかと密かに思っている。
果たしてどうなるかは分からないが、「人間はこの世に生を受けたのは何のためかというと人の世の何かのお役に立つためである」という話を聞いたことがあるが、世の人が皆、そのような考え方で行動したら素晴らしい世の中になるのではないかと思う。

最後になるが、「風に向かって立つライオン」という名曲を作り、多くの人の耳に届けた、さだまさしさんは素晴らしいアーチストであると思う。この歌に限らず感動を与えてくれる作品を生み出すさださんの活動に心から敬服する。
「風に立つライオン」を多くの方が聴いて、そして自分の身に置き換えて、自分は何ができるかを考えるきっかけにしてくれたらと願っている。
そしてこの歌の主人公と同じような素晴らしい活動をしている中村医師の後を継ぐ日本人が続々と輩出してくれたら日本も世界から畏敬される存在になれるのではないかと思う。

追記
本文中に登場するアフガニスタンで活動中であった中村 哲さんは2019年12月4日、現地の武装グループに襲われ、命を奪われました。
大変残念です。でも誰よりも残念な思いをしているのは中村 哲さんだと思います。
アフガニスタンの人々のため、医療で人の命を救うだけでなく、独学で学んだ井戸掘りの技術で1600個所の井戸を掘り、さらに用水路を作って、黄土色の大地を緑にして、日々の食糧を生産できるようにしたのに、このような形で命を奪われて、大変口惜しい思いで亡くなられたことと思います。
でも、中村さんはかってスタッフの伊藤和也さんが殺害された時、「日本人にだっていろんな人がいる。アフガンだって同じです。私達を守ってくれる人もいる。事件によってアフガン全体を断罪しないで欲しい」と言われたが、今回、ご自身が命を奪われたが、口を開く力があったら、きっと同じような言葉を私達に語られたと思う。
中村 哲さんのような日本人がいたことを誇りに思い、いつまでも忘れないようにしたいと思っています。
中村 哲さんのご冥福をお祈りします。
posted by 今井繁之 at 10:10| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする