2019年06月18日

相手を戸惑わせない名乗り

 

 最近はメールで用件を伝えることが増えたが、メールアドレスが分からなければこれまでと同様、電話で用件を伝えることになる。                     
 用件を伝える際、先ず、自分がどこの誰であるかを相手に伝えるかと思うが、その名乗りがうまくいかないことが時にはある。         
 以前、作家の故城山三郎さんが書かれた作品「打たれ強く生きる」の中に元内閣総理大臣の故福田赳夫さんからお電話をいただいた時のエピソードが紹介されていた。     福田さんは大変気さくな方だと思うが、ご自宅から家人を通さず、直接、城山さんに電話を入れたようで「福田ですが」と話し始めると、電話に出た城山さんの奥さんにとって聞き覚えのない声だったので「どちらの福田さんでしょうか」と聞いた。福田さんは「ソーリの福田です」と名乗ったという。城山さんの奥さんは「ソーリの福田さんというひとからですが・・・」と訝しげな表情で城山さんに受話器を渡した。城山さんはソーリの福田さんとは誰かな?と思いながら受話器を取った。一瞬、内閣総理大臣の福田さんの顔を思い浮かべたが、福田さんとは以前、ある会合でお会いしたことが一度だけあったきりであり、まるで付き合いがない。
 いくらなんでも現職の総理大臣から電話があるなんてと思わず電話に出ると、なんと、その総理大臣の福田さんだった。城山さんは「大変失礼いたしました」と謝ったという。
 福田さんの用件は、城山さんが「黄金の日々」というタイトルの作品を書くために、堺の古い歴史を調べていることを知り、堺に旧知のお寺さんがあり、そこを紹介しましょうかという電話であったということである。
 福田さんは「自分は現在、内閣総理大臣をしている福田です」と名乗ると相手に威圧感を与えるかもしれないと考えて、そこで遠慮気味に「ソーリの福田です」と名乗ったものと思われる。
 社会的に地位のある人であっても、どこどこのだれそれとフルに言っていただけるとお互いに助かるかと思う。

 有名人であると、姓を名乗っただけで相手に分かっていただけると思う人がいる。
 以前、何かの雑誌に出ていたが、世界のホームラン王の王貞治さん(現福岡ソフトバンクホークス取締役会長)がプロ野球ダイエーホークスの監督をされていた時に、ヤクルトスワローズの投手コーチを辞めて浪人中の尾花高夫さんという方に投手コーチをお願いしようということで電話を直接されたという。
 王さんは電話口に出た尾花さんの奥さんに「王と言いますがご主人はおられますか?」と聞いたと言う。奥さんは、どちらの王さんですか?とは聞かないで、ご主人の尾花さんに「あなたに電話です」と言って、受話器を渡したという。王さんは「王ですがお願いがあります」と話し始めたが、尾花さんは警戒?して「どちらの王さんですか?」と聞いたということである。王さんは「これは失礼いたしました。ダイエーホークスで監督をしている王です」と名乗った。名乗られたところで尾花さんは相手が「世界のホームラン王」の王さんということが分かり、「大変失礼いたしました」と平謝りに謝られたということである。
 王さんは人格的に優れていると定評のある人なので、同じ業界(プロ野球界)の人間ということで、分かってくれるだろうと考えて、姓だけを名乗ったと思うが、所属とフルネームを語った方がよかったかもしれない。

 ただ、勤務先名あるいは所属先をストレートに名乗った場合、先方が戸惑われる、あるいは不安に思われる場合があるので注意した方がよい。
 以前、私のところに「こちら京都地検です」と名乗る電話が入った。
 私は一瞬、京都で何か悪いことをしたかなぁと思ってしまった。
 不安を感じながら電話に出ると、「私は大津地検の知り合いから紹介されたのですが、『ホウレンソウ』の講演をお願いできないかと思い、お電話を差し上げました」と言われて一安心した。
 大津地検の名前が出たところで、1年ぐらい前に大津地検から講演を依頼されたことがあり、その時、「他の地検にも紹介したいと思いますのでその節はよろしくお願いします」と言われたことを思い出した。

 地検だけではなく、「警察です」と言われても不安を感じる人もいるかもしれないので、「○○警察ですが」と名乗るのは止むを得ないが、「○○警察ですが、××の件でお知らせしたいことがあります」という具合に名乗りの後に用件名をすかさず添えると、用件名にもよるが相手の不安はなくなるかと思う。

 とにかく連絡相手の心情にも心を配って、名前、勤務先名・所属先、及び用向きを簡潔に伝えれば相手に要らざる心配をさせなくて「あの人は気が利く人だ」ということになるかと思う。  
posted by 今井繁之 at 11:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

行蔵は我にあり

  
 日本維新の会に所属なのか、大阪維新の会に所属なのか、どちらでも同じようなものだが、「北方領土を戦争で取り戻す」発言で物議を醸した丸山穂高という衆議院議員に対して国会で議員を辞めるようにという勧告決議が出されたのに対して、丸山議員は「行藏は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与(あずか)らず」という幕末に活躍した勝 海舟氏の言葉で勧告を拒否したということである。
 丸山議員のようなお粗末な人間に自分が述べた言葉が使われて、地下に眠る勝 海舟氏も苦笑しているかと思う。
 「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず」は平易な言葉でいえば、「行いは自分のもの、批評は他人のもの、私が知ったことではない」ということであり、換言すれば「何かを実行しようとする者は、雑音に耳を貸すことなく己を信じて歩むのみ」ということである。「行蔵は我に存す」を「行蔵は我にあり」ともいうようだ。

 私はこの言葉は大変好きで、成人になってから、何かあった時に、自分にこの言葉を言い聞かせて、これまでの人生を生きて来た。
 私は自分ではそれほど意固地な人間ではないと思っているものの、時には節を曲げてまで膝を屈することを潔(いさぎよ)しとしないで、「行蔵は我にあり」を実践したことがある。
 その一つだが、今から40年近く前、私はソニーの子会社である桜電気という会社に勤めていたが、この会社の責任者であった社長の鳥山さんが親会社のソニーの役員が乗って来たヘリコプターの着陸時のトラブルに巻き込まれて命を失ったことがある。
 社長が亡くなったので社葬を行うことになり、木更津市民会館を借りて盛大な社葬を行ったが、社葬終了後、取締役のY氏が私に「管理職一同でソニー本社にお礼の挨拶に行きたい」と言う。「何故?」と聞くと、「これだけ立派な社葬ができたのはすべての費用を出してくれた本社のお陰だから、お礼の挨拶に行くのだ」と言う。私は「そもそもこのような社葬を行わなければならなくなった原因はヘリコプターの不時着事故にあり、本社がその責任を負って、費用を負担するのは当然の行為だ。お礼の挨拶は社葬終了後に本社から来た岩間社長以下の皆さんにしており、あえて行くことはないと思う」と話した。
 Y氏は「そんなことはない、こういったことはお礼の挨拶をするのは世の中の習いだ」と言う。私は「今回はそのようなお礼の挨拶に行く必要はないと思う。私は行きたくない」と反論した。私は総務部長ではあったが、Y氏は取締役で私の上位者であり、本来ならば上位者の指示に素直に従わなければいけないのだが、この時の私は素直でなかった。Y氏は「今井さんが行かないなら我々だけでも行きますよ」と言うから「どうぞ行ってください。私は自分が納得できないことはしたくないので行きません」と言い張って、私は行かなかった。組織の論理からいったら間違っているかもしれないが自分の気持ちを優先した。
 後になり、冷静になって考えてみたら、このようなかたくなな対応を取らなくてもよかったかもしれないと思ったが、この時は「行蔵は我にあり」という言葉を自分に言い聞かせていた。

 私の「行蔵は我にあり」の傾向は中学生時代からあったような気がする。中学1年生の時から私は家庭の事情で新聞配達をしたり豆腐売りをして家計を助けていた。当時は「行蔵は我にあり」という言葉は知らなかったが、新聞配達をしたり、豆腐売りをしている姿を同級生に見られても、自分は何ら恥じることはしていない、堂々と顔を上げて生きていこうという思いを持っていた。
 中学を卒業して、町工場で働くようになり、汚れた作業服のままで、工場で作った製品を自転車の荷台に括りつけて納品先まで走るという仕事をしていた。作業服だけでなく、鋳物製品を扱っていた関係で鋳物の煤(すす)が顔にも付いていたが、それでも人に自分の姿がどのように写ろうとも構わない、自分は今、こうせざるを得ないからしているのだ、恥じる必要はまったくないと自分に言い聞かせていた。
 額に汗して真面目に働いているのであればどんな姿かたちをしていても何ら恥じる必要はない、人がどのように見ようとも気にすることはまったくないという考えは、私のその後の人生においても終始変わらず、今日までその考えは変わらない。

 悪いこと、人に迷惑をかけるようなことをしていないのなら、何ら恥じることなく顔を上げて歩むべきだという考えを自分の子供に語ったことはないが、私の子供には伝承されているようで嬉しく思ったことがある。
 私の体験とはまったく種類の違う話であるが共通点があるので語らせていただく。
 私の次男坊がT大の学生であった時、授業が終わって帰ろうとして「下足入れ」に寄ったら、先刻、脱いだ自分の靴がどこにも見当たらなかったという。
 靴を脱いでいたということは体育系の授業に出ていたのではないかと思うが、靴は盗まれたのか、誰かのイタズラでどこかに隠されてしまったのか、とにかく、いくら探しても見つからなかったという。 彼は探すのをあきらめて靴を履かずに帰ることにした。友人と一緒だったかどうか確認していないが、彼の通っている校舎の近くには靴を売っているお店がなかったのだろう、渋谷に出て、そこで靴を求めることにして、彼は靴下姿で歩き始めた。駒場駅から渋谷駅までの車中も靴下姿であったので不思議に思った乗客もいたに違いない。彼の言い分は履物はないのは確かであるから履物なしで道中するしかない。履物を履いていなくて素足だからといって誰かに迷惑をかけるわけではない。靴下だけの姿を変に思う人がいたところで、履物がなくなってしまったのだから仕方無い。自分には履物なしで歩くのは理由があり、その姿を他人にどのように見られても何も恥ずかしがることはないということで、渋谷駅まで行き、靴屋さんで手頃な靴を求めて我が家に帰って来た。
 靴屋さんもびっくりしたと思うが、電車の中でも、息子の靴下だけの姿に「あの人はおかしいのではないか?」と囁いた人達もいたかもしれないが、彼にとってはそんなのはどうということはなかったようである。
 親バカと言われてしまうかもしれないが、私の息子は「行蔵は我にあり」を貫いたといってもよいかと思う。

 親バカついでにお話すると、この息子は大学生の時もそうだったが、社会人になってからも母親を連れて海外旅行に出かけたり、クラシックのコンサートに出かけるという親孝行をしてくれる。亭主である私がそのようなカミさん孝行をしないので、不憫になって母親を連れて行ってくれるのかもしれないと思う。
 母親は息子からそのような誘いがあると随喜の涙?を流している。そして帰宅するといかに楽しかったかを私に語る。
 普通、子供は大きくなると、それも男の子であると、母親と一緒に出かけるのは恥ずかしがるものだが、彼には全くそのようなことはない。お陰で私は大変助かっており、彼の行為は父親孝行でもある。
 彼の心には「行蔵は我にあり、毀誉は他人の主張」が刻み込まれているのではないかと思う。

 姿かたち、行動はもちろんだが、主義主張だって、自分が正しいと思ったら大いに主張するべきであり、生き方だって、人に迷惑をかけないのであれば、「行蔵我にあり、毀誉は他人の主張、我に与からず」と自分に言い聞かせて正々堂々と歩むべきである。
 ただし、冒頭の丸山氏のように世間の顰蹙を買うような言動をして、「行蔵は我にあり」とのたまうのだけは勘弁してもらいたいものである。








posted by 今井繁之 at 11:36| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年05月28日

許しがたい読み間違い


 あまり大騒ぎになっていないが、平成最後の日の4月30日に行なわれた“退位礼 正殿の儀”で安倍内閣総理大臣が述べた『国民代表の辞』で「天皇皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願っていません」と言ったということである。
 私はその記事をネットで見た時は、安倍晋三氏は日頃から、平和を希求し、災害の被災者に真摯に寄り添う天皇陛下・美智子様のことを疎ましく思っているという噂があるので、一瞬、本音でそのようなことを言ったのではないかと思ったが、いくら何でもそれはないだろうと否定した。
 しかし、「願っていません」と言ったのは事実であり、安倍晋三氏がなぜそのようなことを言ってしまったのかというと、手元の原稿には「末永くお健やかであらせられますことを願って已(や)みません」とあったが、「已みません」の「已」には振り仮名が付いていなかったため、「願って已(や)みません」と読めなくて、「願っていません」と読んでしまったということである。
 事務方は森羅万象、何でも知っていると豪語する安倍氏なら振り仮名をつけなくても正しく読めると思ったのではないかと思う。
 安倍氏は『国民代表の辞』を途中まですらすらと読み進んで来たが、「願って已みません」のところで、「已」を「や」と読めずしばし詰まってしまった。「已」は「い」とも読めるので、(何か変だなぁ)と思いながら、「願っていみません」と読むのもおかしいと思って、思わず「願っていません」と言ってしまったようである。
 でもこの言葉を耳にした天皇陛下、美智子皇后はびっくりされたことだろう。
 「願って已(や)みません」と「願っていません」では180度違う。
 今回のことは「已」(や)は自己の「己」(おのれ)と、12支の巳年の「巳」(み=へび)と大変似ており、間違いやすい漢字といえばその通りであるが、事前に読み合わせをしていて、安倍氏が「俺はこの字を読めないが、已は何と読むのか?」と確認しておけば、事務方から「それは『や』です」と教えてもらえたと思う。
 已(や)の字を何と読んでよいか戸惑ったら、前後の文章から、当意即妙にあっさり「願います」と言えばよかったのにと思う。でも、そのような当意即妙はやさしそうで難しい。

 不思議なことに今回の誤読の件は主要新聞やテレビで取り上げられることはまったくない。
 安倍氏が直接、官邸HPから映像を削除しろとかマスコミ対策をしろと命令したわけではないと思うが、いつものようにお付きの人達が安倍氏に忖度して大急ぎで証拠湮滅をはかり、NHKを始めマスコミに対してもニュースとして報道することを固く禁じたものと思われる。
 日本国には報道の自由があると思っていたが、現在の安倍内閣の下ではそのようなものは存在しなくなっているのかもしれない。

 今回の読み間違いは戦前だったら切腹ものだと思う。
 安倍氏は「願っていません」の部分は声を落として言ったので誤読は露見しないと思ったのかもしれないが、やはり悪事?は露見してしまった。
 私だって怒るが、右翼の皆さんは大変なお怒りになったようである。右翼団体の一水会は公式ツイッターに「安倍氏が願っていませんとやってしまったことは仕方ないが、それを糊塗しようとして、官邸HPから映像削除したことはよくない、潔く字を間違えたことを認め不見識を謝罪せよ」と投稿した。
 一水会の主張はもっともであるが、その後、公式に謝った様子もなく、首相官邸の前で大音響で「切腹しろ」と責めているという話もないので、どうなったのかはまったく不明である。
 ネット上では「字が読めないことより、こんな人生最大の舞台で間違えないよう、読み合わせぐらいはきちんとしてくるべきだ」、「極めて厳粛な場で、自身で原稿を作成せず、読む練習すらしていないのはけしからない」と批判されている。

 重要な文書を読むような時はきちんと読み合わせをして間違いのないようにしなければいけない。
 森友問題にしても加計学園問題にしてもウソのオンパレードで乗り切ったが、この読み間違いで天皇陛下・美智子様に不快な思いをさせたことも、なかったことにして乗り切るつもりなのだろう。
 安倍氏の仲良しの麻生元総理大臣も未曾有を「みぞうゆう」と読んだり、怪我を「かいが」と読んで失笑を買ったが、安倍氏も漢字の読み書きは得意ではないようである。
 これまでも云々を「でんでん」と読んだり、背後を「せご」と読んだということである。 やはり子供の頃、読書に親しむとか漢字の読み書きをしっかり勉強することを怠った付けが出てきたということだろう。
 安倍氏はこの先、まだまだ日本国の最高権力者として君臨するつもりだろうから、読み書きが不得意であれば、重要な挨拶文には振り仮名をつけてもらうか、事前の読み合わせをきちんとして、恥をかかないように準備をおさおさ怠らないようにするべきである。

 それとまだ若いのだから読み書きの勉強をするべきである。
 戦前から戦後にかけて学習院の院長を勤めた元海軍大将の山梨勝之進さんは、米寿(88歳)を迎えた時、お祝いの贈り物に何がいいかと聞かれて、「ブリタニカの百科事典がいい」と答えたそうである。
 実に向学心の旺盛な方であった。
 安倍氏に限らず私達も山梨さんを見習って、分からないことが出来るだけ少ない大人になるために絶えることなく勉強をしなければいけないと思う。


posted by 今井繁之 at 15:42| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする