2019年03月01日

ところを得る


 「ところを得る」という言葉がある。意味は自分に相応しい地位や職場に就くということであるが、これがなかなか難しい。本人の力量が存分に発揮できるところを得て、そこで活躍できるのが理想であるが、そうはさせてもらえないことがあり、そのうちに本人が腐ってしまい、力量も落ちてきて、こと志と違う方向に行かざるを得なくなってしまう。
 同一のところにいてもなかなかうまくいかなかったが、職場環境が変わることによって本人の本来持っている力量が発揮されるようになったという例が結構ある。
 私はプロ野球が好きなので、その辺りのことを野球選手を通じて紹介したい。
 2019年現在、日本ハムファイターズ球団に太田泰示という選手がいる。この選手は2008年、ドラフト1位で読売巨人軍に入団した。東海大相模高校時代からバッティングも脚力も素晴らしいという評価を受けており、メジャーに行った松井秀喜選手の後釜という期待から松井選手のつけていた背番号55をもらった。
 ところが彼は周囲の期待に応えられず、なかなか一軍に定着できなかった。2009年から2016年の7年間のホームランは通算9本、打点は通算40点であった。未完の大器と言われたこの選手が2016年末、日本ハム球団にトレードされた。そうしたら、2017年から2018年の2年間でホームランは29本を放ち、打点は105点を挙げるという大活躍をした。
 太田泰示選手は日本ハムファイターズで「ところを得た」ということである。
 なぜそうなったかというと、彼は「(日本ハム)球団から結果でなく、思い切ってやってくれと言われた。目先の結果が気になるとどうしてもスィングが小さくなってしまう。以前はプレッシャーとの戦いであったし、試行錯誤があった。今は野球を心から楽しめるし、素直に取り組める環境が整っている。ファンも暖かくて一体感がある」と語っている。
 日本ハムファイターズの監督の栗山英樹氏は太田選手に最初に会った時に「俺はお前にお願いしたいのは思い切りやってくれということだ。3回フルスイングして三振してくれ、中途半端はやめてくれ」と言ったということである。
 彼が潜在能力は高いにもかかわらず巨人軍でその力を発揮できなかったことをよく見抜いてこのようなことを言ったものと思われる。
 太田選手は巨人軍で思い切り振って三振してベンチに戻ってくると、コーチから「なぜあんな球を振ったんだ、もう少し考えろ!」と毎度お説教されたということである。
 ところが日本ハムに来て、迷いなく振れる環境になり、思い切り振って三振してベンチに戻って来たところ、ベンチにいるコーチやチームメイトから「スィングの音が凄かった。今度当たったら絶対ホームランになる」と褒められたという。
 太田選手も馬鹿ではない。どうしたらホームランを打てるかを考えて必死に練習に励んだ。その結果が規定打席に達し、今やチームの中心選手に成長した。
 どこに行っても大丈夫な人もいるがそうでない人もいる。その人がどんな人かということを見抜いて、その人の力量を引っ張り出す上位者がいてこそ「ところを得る」ということになる。

 「ところを得る」にはただ漫然と待っていても救いの神は現れない。そこには本人の努力も必要だろうと思う。
 また読売巨人軍から日本ハムファイターズに行った選手で恐縮だが、前述の太田泰示選手と歩んだ道は少し異なるが、2019年現在、見事に「ところを得た」村田 透という選手がいる。
 村田 透選手は大阪体育大学で投手として活躍、2007年ドラフト1位で読売巨人軍に入団したが、1軍で投げることは一度もなく、3年目に戦力外になった。シーズンオフにトライアウトを受けたものの、日本の球団のどこからも声はかからなかった。ところがメジャー球団のインディアンスのスカウトの目にとまり、6年のマイナー契約を結んだ。 村田選手は「トライアウトの後、唯一、声をかけてくれたのがインディアンスでした。すぐに覚悟を決めました。乗っていた車も処分しました。日本に残すものは何もなし。ここから這い上がるしかない。腹をくくって、米国に渡りました」と語っている。
 渡米して1年目は1A、2年目以降は2Aと3Aを行ったり来たりしたがそこそこの成績を挙げた。シーズンオフにはパナマやベネゼエラのウインターリーグに参加して力をつける努力を惜しまなかった。村田投手は「巨人をクビになったことで自分の甘さが分かった。あるコーチからお前はいいときと悪いときの差が激しすぎると言われ、確かに自分にはそのような部分があることを自覚してそういったことのないように努めて来た」と語っている。
 プロたるもの調子の良し悪しにかかわらず常に一定レベルの結果を出さなければいけない。それをアメリカでは「コンスタンシー」と言うが、村田投手はそれを心掛けて、キャリアを積み上げていった。さらにメジャーで動くストレートを身に付け、ベネズエラでツーシームを習得するといった具合に新しい投球術を身に付けていった。
 一度だけメジャーのマウンドに立ったことがあるが思ったような結果は出せなかった。 しかし、2015年は3Aで15勝を挙げて最多勝投手になった。2016年は9勝4敗1セーブであったが、シーズンオフに自由契約選手になった。
 メジャーという未知の世界に飛び込み、通訳もなしに6年間頑張ったのは大変だったと思うが、彼の姿を注視している人はいた。彼が自由契約選手になったところでかねてより関心を示していた日本ハムファイターズは年俸3500万円で、契約を結んだ。
彼は2017年6月11日、古巣の巨人軍相手に投げ5回1失点、堂々たる投球でプロ入り10年目にして初勝利を挙げた。このシーズンはこの1勝だけだったが、2018年は6勝3敗の成績を挙げ、交流戦で古巣の巨人軍相手に先発、7回途中まで投げて4安打2失点で巨人時代一度も投げさせてもらえなかった東京ドームで勝利を挙げた。今やチームを担う堂々たる中堅投手になった。
 村田投手の獲得には古巣の巨人および阪神も乗り出したという話があったが、そのような球団に入っていたらこのような結果を残せたかは疑問である。
 太田泰示選手に伸び伸びとプレイさせた日本ハムファイターズという球団の雰囲気、メジャーを経験した吉井理人コーチの存在という「ところ」を得たので、村田投手のこれまでの努力が報われたものと思われる。
 努力したからといって「ところを得る」とは限らないが、不断に努力していれば「ところを得る」確率は高くなると私は思っている。                   
 「ところ」を得て、結果を出せるのは太田選手や村田選手のようにここでやるしかないという覚悟と自助努力が相俟ってということになるかと思う。

 サラリーマンでも以前の職場ではパッとしなかったが、新たな職場に異動になったら生まれ変わったように好結果を出す場合がある。また転職したことによって前の会社では考えられないような活躍をする場合もある。そうなるのは本人が異動、あるいは転職によって今までのようなことではダメだと気合いを入れるのも要因の一つだが、それ以上に異動先・転職先の職場環境によるものが大きいと思われる。
 登場する人物がまったく変わって恐縮だが、NHKのお天気ニュースを担当している福岡良子さんという女性がいる。
彼女は小柄で愛くるしい表情の女性だが、彼女も「ところを得た」人の一人である。
 彼女は現在、「シブ5時」という番組で関東圏向けの天気予報を担当している気象予報士である。以前は夕方の7時のニュースで武田真一アナウンサーがニュースを伝えた後の7時26分か27分頃から7時30分までの数分間、全国の天気予報を伝えていた。
 その数分間の間、武田アナウンサーが常に彼女の傍らについている。天気予報を伝えている最中に、時々彼女に質問をする。質問があると、彼女は伝えようと用意してきたことを大変急ぎ足の口調で伝えざるを得なくなってしまう。武田アナウンサーは職務上、質問することを義務付けられているのかもしれないが、彼がいなければ彼女は自分のぺースで喋れるだろうと同情していた。
 ところが福岡さんは幸運なことに2年ぐらい前から7時のニュースの天気予報の担当から「シブ5時」という番組の天気予報担当に異動になり、5時57分から6時までの3分間、誰にも邪魔されることなく、天気予報を伝えられる環境になった。
 そうなった今は7時のニュースの時と様変わりして実にイキイキとしている。にこやかにほほ笑みを浮かべながら落ち着いた口調で予報を伝えてくれる。「シブ5時」異動にともない、彼女なりに変身への自助努力を多少はしたかもしれない。
 私は用事がない日は急いで我が家に帰り、5時57分からの天気予報を見る。大好きな彼女が楽しそうに、笑顔で天気予報を伝える姿を見ていると明日はきっといいお天気になるのではないかと思ってしまう。
 彼女は周りの配慮もあって、今、正しく「ところを得た」と思う。

 「ところを得る」は仕事が合う、会わないではなく、本人の力量を十二分に発揮できる職場環境が非常に大事であることを今回紹介した人達の例は物語っている。
 意欲を持って働く多くの人が太田選手、村田選手、福岡予報士と同様にイキイキと働ける職場環境が与えられて欲しいと願ってやまない。



posted by 今井繁之 at 16:44| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

まつりたい人がまつれない記念碑 

       
 2019年の1月18日に週刊誌の『週刊現代』のH記者の取材を受けて、ソニー本社の敷地内に通称ソニー神社と呼ばれる一角があることを知った。知る人ぞ知るという神社ということであるが、その神社はソニーの創業者の一人である盛田昭夫氏の希望で1993年に建立されたという。
 なぜそのような神社が敷地内に密かに建立されたかというと、私がかつて勤務していたソニーの子会社桜電気株式会社(現ソニーイーエムシーエス木更津サイト)の創業者社長の鳥山寛恕さんが今から40年前の1979年3月16日、工場見学に来たソニーの役員が乗っていたヘリコプターに接触して無念にも命を失ったことを慰霊する目的であったということである。
 鳥山さんが命を失うきっかけになったのは同機に乗っていた当時のソニー本社の副社長の大賀典雄氏が密接に関係しており、鳥山さんの無念を晴らさなければ不幸が連鎖するかもしれないということで作ったということである。
 現在のソニー本社の経営陣は盛田氏、大賀氏から神社建立の真の事情を聞かされていなかったようであり、それと盛田氏、大賀氏は過去の人になったのだからいつまでもこのようなものを社内にあるのはどうかということで2018年4月に撤去してしまったということである。
 私自身、その神社があったとしてもお参りに行く気もないし、撤去されても何の感想もない。

 ただ、そのソニー神社の話を聞いて思い出したことがある。それは神社ではないが、事故のあった地である千葉県木更津市内に40年前に建立した鳥山さんの記念碑である。
 事故の後始末が一段落してしばらくしたら、社内のあちこちから創業者である鳥山さんがこの地で亡くなったことを記念するものを設置して、それに手を合わせたいという声が聞かれた。
 確かにそうだと思い、私は記念碑を作ろうと考えて、桜電気の当時の役員連中に相談した。
 筆頭取締役のT氏は「記念碑を作るとソニー本社の不興を買い、発注量を減らすという報復行為があるかもしれない」と真面目な顔で言われる。
 私は「鳥山さんの命を奪った責任はソニー本社にあることは確かであり、仕事を出さないなんてけちなことを言ってくるはずはない。創業者を記念する碑を作るのになぜソニー本社に遠慮しなければならないのだ。馬鹿なことを言わないでください」と怒った。
 怒った私は役員でなく、役員連中は私の上司であるが、この時もいつもと同じで生意気な態度を取った。
経理部長をしているY取締役は「記念碑の作るには相当な費用がかかるだろうからソニー本社の許可を取る必要がある」と言う。私は「だったら、会社のお金は一銭も出さないで作ることにしましょう。従業員に呼び掛けて浄財を募るから任せてください」と言うと「仕方がないなぁ」ということで記念碑を作ることに渋々同意していただいた。
 実際に従業員に呼び掛けたら、500円出す人、1000円出す人、1万円出す人、様々だったが必要とする費用は全額寄付金で賄なうことができた。
 記念碑にはソニーの創業者である故井深 大さんが書かれた『創造』という文字を彫ってもらうことにした。なぜ井深さんの文字を使ったかというと、戦前から鳥山さんは井深さんと個人的な親交があり、事故の起こる1年前に井深さんが来社された際に色紙に書いていただいたが、その文字が『創造』であった。
 井深さんの文字を使った記念碑であればソニー本社から面と向かってクレームを付けてくることはないだろうと思ったが、まったくそのとおりクレームはなかった。
 記念碑といってもお参りすることもあるので、近くの神社から宮司を呼んでおはらいをしてもらおうという意見もあった。そうなると宮司さんにお支払いするお金を心配しなければならない。あえて本物の宮司さんを呼ばなくても形だけのおはらいをやっておけばよいだろうと考えて、私の上司であった大木弘士さんという方に宮司役を務めてもらった。斎戒沐浴して下着も新品で臨むようにとお願いしておはらいをしてもらったがよく考えてみれば神をも恐れぬ所行であった。
 鳥山さんの奥さん、息子さんにも参加していただいて、身内(社員)だけの慎ましやかであるが心温まる記念碑の披露式典を行った。
 記念碑には次のような記述がある。
    創造
  創立者鳥山寛恕社長の会社発展に                         
尽力された功績を称えて此の地に                         
記念碑を建立する                                

昭和五十四年十一月三日
  桜電気株式会社 従業員一同

 この地に記念碑があった間は社員が命日には祈りをささげていた
 この記念碑は今から10年前の2009年5月に事故のあった岩根地区からもう一つの工場のある潮見地区の敷地に移すということになった。
 ソニー神社の解体とは異なり、この木更津の工場にソニー本社から赴任して来ていた幹部の皆さんは信心深い人が多かったようで、記念碑といえども移設するには神社関係者のお世話にならなければいけないだろうと考えた。
 1979年の記念碑建立のいきさつを知っている人は社内に誰もいないということで、私の元に「あの時はどこの神社にお願いしたのか?」という問い合わせが来た。私は宮司の手を煩わせていないと言おうと思ったが、それも何か故人に申し訳ないような気分になり、どこにお願いしたか忘れてしまったと話しておいた。
 仕方がないということでどこか近くの神社の宮司にお願いして所定の方法で行ったものと思う。

 私は記念碑にまつられている鳥山さんには本当にお世話になった。勤務先の社長という関係をはるかに超えて私の父親のような存在であり、私にとっては人間としての目標でもあった。これは私だけでなく桜電気に勤めていた多くの従業員の思いであった。
 「亡くなった人を忘れないことが本当の供養である」という言葉があるが、私は1年にI度は鎌倉霊園にあるお墓にお参りしているが、鎌倉に行くのが難しい人達にとっては身近に記念碑があれば命日に手を会わせることは容易にできる。
 記念碑は会社の敷地内にあるといっても、当時の従業員の浄財で作ったものなので元有従業員であることを名乗れば、命日には参って気軽に手を合わせられると思っていたが、それが簡単にいかなくなってしまったようである。
 数年前、木更津に用事があり、工場の近くに行ったので記念碑に手を合わせていこうと思って工場に伺ったことがある。
 私は「以前、この会社にいた者ですが、記念碑に手を合わせるだけだから中に入れてもらえませんか」と守衛所でお願いした。守衛に「しばらくお待ちください」と言われて待つこと数刻、私のことなどまったく知らない総務の社員が出てきて「関係者以外の出入りは禁じています」と言う。私は「私はこの会社にいた者です。あの記念碑の関係者といえば関係者です。あの記念碑は何のためにあるのか。記念碑はこの会社の創業者である鳥山寛恕氏に感謝の念から作ったものであり、その創業者を慕って来た者を拒絶するのなら設置しておく必要性はないのではないですか?」と強く抗議した。彼は「鳥山さんがどんな人か知りませんが、ここはソニー株式会社ですからダメです」と言われる。
いったんあきらめて去ろうと思ったが、たまたま、私の部下であったS君という男が取締役になっていたことを思い出して、S君に会わせてほしいとお願いした。S君が私を案内してくれたので記念碑に手を合わせることができたが、そのS君も今は取締役を退任して、私がこの会社にいた頃のメンバーはほとんどがいなくなってしまった。私に限らず記念碑に浄財を供出した人は手を合わせることはできなくなってしまった。

 鳥山さんはまつられているが、まつりたい人がまつることのできない記念碑となってしまった。
 ソニー神社は解体されても一向に構わないが、木更津にある記念碑はまつらせて欲しい。 ソニー本社から誰か心ある人がこの事業所の責任者に着任したら、記念碑にまつりたい人には快く開放しようということになってくれることを期待している。
 この一文がそのきっかけになったら幸いである。

posted by 今井繁之 at 16:30| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年02月11日

40年前の話がよみがえって来た

            
 2019年1月18日、自分の事務所でのんびりしていたところに、「講談社の週刊現代の記者をしているHと申しますが、今井さんがご存じの鳥山寛恕さんのことで取材させていただきたいが、ご都合はいかがでしょうか?」という電話が突然入った。
 鳥山寛恕さんは私が今日の研修講師をする前に勤務していたソニーの子会社である桜電気株式会社(現ソニーイーエムシーエス株式会社木更津サイト)の創業者社長であった方で、私にとっては大恩人の一人である。ただ、鳥山さんは今から丸40年前の1979年に亡くなっており、その方をなぜ、今、週刊誌が取り上げるのか首を捻った。そもそも鳥山さんと私が上司と部下の関係ということを記者がなぜ知っているのかと疑問を感じた。 
 そこでHさんに問うと、「今井さんの書かれたブログを読ませていただき、今井さんが鳥山さんのことを色々とご存じのことを知ったからです」と言う。
 確かに私は鳥山さんのことを敬愛する上司としてこのブログに複数回書いている。
 それなら取材に応じてもよいかもしれないと考えて、H記者に会うことにした。
 翌週、お会いしてお話を聞くと、取材目的は、世間にあまり知られていないが、ソニーの本社内の敷地に神社があり、その神社のことを記事にしたいので話を聞かせてもらいたいのだと言う。「その神社と鳥山さんがどんな関係があるのか?」と問うと、私はまったく知らなかったが、社内のごくわずかな人はそこを「ソニー神社」と呼んでおり、その神社には在社中に亡くなった人(物故者)を慰霊してあるが、その神社を作るきっかけになったのが私の上司であった鳥山さんの死であったという。初耳であった。
 神社を作ろうと言い出したのはソニーの創業者の一人である盛田昭夫会長で、1993年に神社が出来たが、言い出した盛田会長は1999年に鬼籍の人となった。後継の経営陣の間で、いつまでもこのような神社を社内に設けるのはどうかということになり、2018年4月に神社を取り壊したという。
 それを聞いた神社建立に協力した宮司の高橋正宣氏は激怒して、ソニーを訴えて、裁判沙汰になっており、それを記事にする予定だが、その記事を書くに当たって、その神社の物故者にソニーの社員ではない子会社の社長であった鳥山さんの名前がトップにあり、それに疑問を感じて、なぜそのようになったのか、鳥山さんの死に何があったのかを私に聞きたいということであった。
 事情の分かった私は鳥山さんという立派な経営者のいたことを世に知らしめるよい機会と考えて、鳥山さんが突然亡くなった事故について次のような事柄を話した。

 今から40年前の1979年の3月16日、私が勤務していたソニーの子会社である桜電気株式会社に、ソニー本社から当時、本社の副社長であった大賀典雄氏(後のソニー本社の代表取締役社長)以下幹部がヘリコプターに乗って工場視察に見えた。
 そのヘリコプターが折からの強風に煽られて、不自然な形で会社のグラウンドに着陸した。
 ヘリにはパイロットを含めて4名が乗っており、ヘリの後部席に座っていた大賀氏に同行してきたソニー本社の役員である白倉氏と馬淵氏はヘリから出てきたが、パイロット席にいた大賀氏がなかなか出て来れない。ヘリの後部から煙が出ており、ヘリが爆発するかもしれない、何としても大賀さんをヘリから救出しようと出迎えた鳥山さん以下の3名が救出に向かい、大柄な大賀氏の体をヘリから引きずり出した。大賀氏を外に出した関係で機体が軽くなったので、それまで土に刺さって静止していたローターが動き、救出の先頭にいた鳥山さんの頭を直撃して死に至らしめた。
 鳥山さん以下の3名が命懸けで大賀氏の救出に努めたので、大賀氏は外に出ることができて命は助かり、それと引き換えのように鳥山さんは命を失った。
 ヘリから救出された大賀氏は事の一部始終を上司である盛田会長にすぐ報告しなければいけないということで、墜落現場からよろよろと歩いてきたが、そこに居合わせた私に 「きみ、どこかに電話はないか? 貸してくれ」と言う。メガネも吹っ飛び、乱れた服装だったので、私にはこの人はいったい誰なのかが一瞬分からなかったが、すぐにこの人は大賀副社長だろうと察した。私は電話のある場所に案内して、盛田会長との会話を傍らで聞くともなしに聞いていた。
 「大賀です。大変なことになりました。乗ってきたヘリが強風に煽られて着陸ミスをしてしまいました。出迎えてくれたこちらの社長が亡くなりました」
 この直後に電話の向こうで盛田会長がどのように言っているか推測するしかないが、大賀氏の答えから推測すると、次のような問いを発したのではないかと思う。
 「君が操縦していたのか?」
 「いや、私ではありません。今回は私は操縦していません」
 その後、どのようなやり取りであったかは忘れてしまったが、「いや、私ではありません」と大賀氏が大きな声で答えたのだけは鮮やかに覚えている。
 盛田会長は大賀氏がヘリコプターのパイロットの免許を持っており、これまでもしばしば操縦していた大賀氏が今回も操縦桿を握って、この事故を引き起こしたのではないかと思ってこのような問い掛けをしたものと思われる。
 盛田会長は次期社長として考えていた大賀氏に傷がつくことを懸念したものと思われる。 盛田会長との電話を終えたところで、大賀氏はその場に倒れ込み、私と同僚の一人が肩を貸し、車に乗せ、近くの整骨病院に連れて行き、診察してもらった。
 死亡事故の発生とソニーの次期社長と目されていた大賀氏の操縦ミスではないかということで、マスコミが病院に殺到したので、整骨病院の裏口から脱出させて、急遽、ソニー本社が手配したクルマで都内の済生会中央病院に向かった。

 週刊現代の記者には2時間前後、上記のことを含めてあれこれお話した。
早速、その翌週の2月9日発売の週刊現代に「バチが当たる 盛田昭夫の作った「ソニー神社」が現経営陣に壊されるまで」というタイトル付きで記事が掲載された。
 同誌によると、この事故から12年後の1991年12月に盛田会長は常陸国出雲大社の宮司の高橋氏に「社員の病気や事故が多いので墓や記念碑を作りたい」と相談したという。それもできるだけ早く建立したいという。そこで盛田会長に真意を確認すると、前述したヘリコプター事故で鳥山氏が死亡したことと、その事故から3年半後にソニーの第4代社長を務めた岩間和夫氏が63歳の若さで病死したことから、ヘリコプター事故と岩間氏の死去のあいだには因果関係があるのではないか、ヘリ事故で死亡した鳥山氏の祟りではないかと考えたからだという。
 裁判で明らかになった宮司の訴状には「盛田会長の切望した慰霊碑建立の最大の目的はヘリ事故の被害者である鳥山寛恕氏の御霊(怨霊)を鎮め、さらにその後においても被告(ソニー)を様々な災いから末永く守ることにあった」と記載されている。
 1993年5月に神殿が完成し、同月7日に物故社員招魂慰霊祭が行われ、物故社員の中にソニー社員でなかった鳥山寛恕氏の名前があったという。

 今回の「週刊現代」に大賀氏は日経の『私の履歴書』に「乗っていたヘリコプターが墜落したが、操縦していたのはパイロットであった」と語っており、これについてはそれ以前に発売された雑誌「諸君」にジャーナリストの有沢創司の取材に応じたものと思われるが、「操縦していたのは自分ではない、鳥山氏が墜落したヘリコプターに不用意に近付いてきたので事故が起きたのだ」と語っている。
 今回の「週刊現代」で私が大賀氏を機内から救出するのと引き換えの形で鳥山氏の命は奪われたということを語ったので、真実が明らかになったと思う。
 盛田会長が鳥山氏にこだわったのはヘリの操縦桿を握っていたのは大賀氏であり、死亡事故を起こしたのは大賀氏に責任があったと考えたからではないかという気がして来た。
 事故の直後の警察関係者の追及に、私は「大賀氏は『私ではありません。今回は私は操縦していません』」と大きな声で盛田会長に報告しました。あの興奮した状態でウソをつくことは考えられません」と話したので、警察関係者も納得してくれて、それ以上の追及はなかったが、今回の慰霊碑騒ぎで果たして真実はどうであったかと疑問が沸いてきた。
 慰霊碑に「大願意」と題した漢文が納められているというが、そこにソニー株式会社代表取締役会長 盛田昭夫と共に後継者 大賀典雄という署名があるというから、盛田会長は鳥山氏が亡くなった事故の責任は大賀氏にあったと認識していたのだろうと思った。
 週刊誌に、宮司の高橋さんは「鳥山さんは館山電子という会社の社長である」と告げられ、「館山電子の会社変遷と事故」と記されたメモが渡されたという話が出ていたので、私は奇異に思った。鳥山さんは従業員1200名前後を雇用していた桜電気株式会社の社長であり、館山電子という会社は桜電気全額出資の会社であるが、千葉県館山市に設立した従業員50名前後の会社であり、会社はこのヘリ事故の数年後には消滅している。
 事故のことを追跡調査されることを嫌って桜電気という名前を出さなかったのかなと思うが、大賀氏も故人となったのだから真実が明らかになっても良いのではないかと思う。
 今回の「週刊現代」の記事が出るまでヘリの事故の真実を知らなかった現経営陣の皆さんが、「ソニー神社」を撤去することにそれほど逡巡しなかったのは分かる気がする。

 もう40年前の話であり、鳥山寛恕氏はお名前の通り、寛(ひろ)く恕(ゆる)す人であり、お墓の下で「何を騒いでいるのか?」と苦笑を浮かべているかと思う。
 2019年の年始に鳥山氏の眠っている鎌倉霊園にあるお墓にお参りしたが、命日の3月16日に記事の載っていた『週刊現代』を持参して、下界ではこんな騒ぎがありましたと報告しようと思っている。

posted by 今井繁之 at 16:35| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする