2020年07月27日

ブックカバーチャレンジに 掲載 


 自分の好きな作家の作品をフェイスブックを通じて、自分の知り合いに紹介するというブックカバーチャレンジという企画があり、私の友人の佐賀県在住の黒岩春地さんから今井さんもぜひ登場して欲しいと言われ、私の好きな作家の本を6月から7月にかけて7回に渡って紹介させてもらいました。
 フェイスブックを通じて、それをお読みになった人もいるかと思いますが、そうでない人も多いだろうと考えて、少し長文になりますが、7回に分けて記述した内容を以下に紹介させていただきます。

 第1回目
 私は中学生時代の恩師の山口正三先生から「繁之(私のこと)よ、金持ちになりなさい。それも心の金持ちになりなさい。それには読書が一番だ」と言われて以来、その教えを守って読書に励んで来ました。
 恩師から勧められたということもありますが、私はそもそも本を読むのが好きでした。
 なぜ本を読むかというと、第一の理由は本を読むことによって新しい知識が得られるからです。知らなかったことを知ることができるからです。
 第二の理由は面白いからです。むしろこれが第一の理由かもしれません.ドキドキする、
ワクワクする、時間の経つのを忘れて熱中して、何度降りるべき駅を忘れて乗り越してしまったか分かりません。
 第三の理由は世界が広がるからです。一人の人間が一生に経験できることは高が知れています。しかし、本を読むことによって沢山のことが経験できます。過去にも未来にも行けます。
 その本好きの私が第1回目に紹介するのは私が最も敬愛する映画俳優故高倉健さん(以下健さんと略させていただきます)が書かれたエッセイ『旅の途中で』(新潮文庫)です。
 健さんは若い時、映画監督の内田吐夢さんから「時間があったら活字(本)を読め。活字を読まないと顔が成長しない。顔を見れば、そいつが活字を読んでいるかどうかが分かる」と言われたそうです。健さんは内田監督の言いつけを守って本を読んでいたので徐々に味のある顔に変貌したものだと思います。
 健さんは私達日本人だけでなく中国大陸の人達からも敬愛されていましたが、それは読書によって人の気持ちがよく理解できるような心豊かな人間になったからだと思います。
 エッセイ『旅の途中で』はどこから読んでも結構です。あちらこちらに味わい深い文章が綴られています。次に記す文章が私の心に残っています。
 凍てつく風雪の中で
 木も草も枯れ果てているのに松だけは青々と生きている。
 一生のうち、どんな厳しい中にあっても、
 自分はこの松のように、
 青々と、
 そして活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、
 楽しませるようにありたい。
 

第2回目
 第2回目に紹介する本は中嶋 敦さんの『山月記・李陵』(岩波文庫)です。
『山月記』は発狂して虎になり、山中で友人を襲おうとした人間を描いた作品で、今はどうか分かりませんが、私は中学3年生の時、国語の授業で習った覚えがあります。
 『山月記』の冒頭の「隴西の李徴は博学才頴,天宝の末年、若くして名を虎膀に連ね、ついで江南慰に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ、すこぶる厚く、賤吏に甘んじることを潔しとしなかった」という文章は暗記するほど読みました。
 私は李徴のように博学才頴ではないが、それでも自分に他の人より優れたところがあったとしても、それを自慢したり、他の人を小馬鹿にするようなことは決してしてはならない、そうでないと虎になるかもしれないと自分を戒めて来ました。
 『山月記』と共にある『李陵』は中国の漢の時代の話であり、武人である李陵とその友人である歴史家の司馬遷と李陵のライバルともいうべき蘇武という3人の男の生き様を描いた作品です。苦境に陥った人間がどう生きるべきかを教えてくれる作品です。
 司馬遷が皇帝の怒りを買って処罰を受けた時、司馬遷が己に言い聞かせた『自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受しなければならない』と言葉がありますが、私はサラリーマン時代、この言葉を
自分に言い聞かせて生きて来ました。
 『山月記』も『李陵』も多少難解な部分もありますが、学ぶところが多い読み物です。
 私はこの本を人生の節目、節目で読んできており、私がまっとうな歩みをして来れたのはこの本のお陰だと思っています。


第3回目
 第3回目に紹介する本は柚月裕子さんの『検事の本懐』(角川文庫)です。
この本を執筆された柚月裕子さんは今から10数年前に文壇?にデビューされた作家ですが、次々と傑作を書いています。
 私はそれら作品の中でもデビューした初期の頃に出された、若手検事佐方貞人氏が活躍する『検事の本懐』と『検事の死命』が特に優れた作品であると勝手に思っています。
 『検事の本懐』と『検事の死命』は相互に密接なつながりがありますので、購入される方には2冊の購入をお勧めします。
 『検事の本懐』は五話の中編から成っており、『検事の死命』は四話から成っています。どれから読んでも差し支えないですが、でも『検事の本懐』の第3話の「恩を返す」をまず読んで、次いで『検事の本懐』の第5話の「本懐を知る」を読み、次に『検事の死命』の第2話の「業をおろす」の順で読まれることをお勧めします。
 柚月裕子さんは女性でありながらなんて言い方をすると女性蔑視の謗りを受けるが、実に骨太の作品、それも正しいものは必ず救われるという正義派の作品を書く作家です。
 私は親しくしている友人に「『検事の本懐』と『検事の死命』は絶対、損はしない本です」と言って紹介しましたが、皆さん全員「この本は素晴らしい。完全に柚月裕子ファンになりました」と言われます。
 『検事の本懐』の「恩を返す」の中にある主人公の佐方検事がつぶやく「借りは返せても恩は返せない」という言葉は、恩を蒙ったのにその恩返しをしていない、また恩返しをするべきだったのに相手が故人となってもう恩返しができなくなった私には、正しくその通りだと実感しています。
 最近は検事のことがあれこれ話題になっていますが、ぜひ多くの人に本書を読んでいただき、検事の本来あるべき姿を理解していただけたらと思っています。


第4回目
 第4回目に紹介する本は城山三郎さんの『落日燃ゆ』(新潮文庫)です。
第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本国は破れ、戦後、この戦争を引き起こした政治家や軍人が戦犯として処刑されましたが、文官としてただ一人、絞首刑に処せられた人に広田弘毅さんがいます。広田さんが戦争に積極的に関与したかというと、その反対で戦争の拡大の防止に努めた人でした。
 広田さんの信条は「己を計らわず」ということで、天皇陛下に責任が及ぶことを避けようとして、一切の言い訳をせず絞首刑という判決を受け入れました。東京裁判の検事団の一人であるキーナン首席検事でさえ、この判決はおかしいと言ったぐらいです。
 城山さんは怒りを込めて、この『落日燃ゆ』という作品を1974年(昭和49年)に書いて、世に問うています。
 広田さんの奥様は自分の父親が右翼?の玄洋社の幹部であったことが夫の判決に影響を与えたのではないかと考え、夫が絞首刑に処せられる前に自裁しています。
 私は研修講師をする前に勤めていたソニーの子会社である桜電気の社長の鳥山さんに、「この本は素晴らしい本です」と言ってプレゼントしました。鳥山さんは陸軍士官学校出身の職業軍人でした。鳥山さんは読み終えた後で、「この本はなかなかいい。女房にも読ませたい」と言われて、本当に奥様に読むように勧めたということです。後日、鳥山さんから「女房が『感動した。このような本を勧めてくれた今井さんはなかなかの人ですね。褒めてやってください』と言われたぞ」ということで、この本のお陰で私は面目を施した覚えがあります。


第5回目
 第5回目に紹介するのは藤沢周平さんの『又蔵の火』(文春文庫)です。
 藤沢さんは沢山の時代小説を書いており、『蝉しぐれ』、『三屋清左衛門残日録』、『海鳴り』等、どれをとっても素晴らしい作品です。
 今回紹介する『又蔵の火』は中編5話から成る作品で、藤沢さんが作家として認められて来た初期の作品です。
 『又蔵の火』は家の面汚しと言われて死んだ兄の仇を討つために郷里に帰って来て、兄の無念を晴らし、最後に命を落とすという作品で、決して明るくない、どちらかと言えば暗い作品です。
 この『又蔵の火』の2話目に「帰郷」という作品があります。『又蔵の火』も素晴らしいが、この「帰郷」という作品もそれ以上に素晴らしいという評価を得た作品です。
 この作品は最近、仲代達矢さん主演で映画化され、時代劇専門チャンネルで放送されました。自分の命はもう少しという老いたヤクザに扮した仲代達矢さんが故郷の木曽福島に帰って、自分の娘の苦難を救って、引き留める娘を振り切って旅に出るという物語です。
 藤沢さんの作品は人肌のぬくもりがあると言われます。作品には私達の心にひたひたと食い込んでくるものがあります。
 現代のように経済至上主義の強い者はより強く、弱い者はさらにいじめる政治がまかり通っている時代にあって、藤沢さんの作品は一服の清涼剤の役目を果たしています。
 私が無人島に流されて読みたい本を持って行ってもよいと言われたら、迷わず藤沢さんの本を持って行きます。どの作品も当たりはずれのないのが藤沢さんの作品です。


第6回目
 第6回目に紹介する本は水上 勉さんの『飢餓海峡』(新潮文庫)です。
 先日、NHKBS3で三国連太郎さん主演の映画「飢餓海峡」が放映されたので、ご覧になった方がおられるかもしれませんが、水上さんが原作の飢餓海峡を世に出したのは57年前の1963年(昭和38年)でした。
 この作品は昭和29年に台風の襲来で青函連絡船が遭難して500名を超す死者を出したという事故が実際にありましたが、水上さんはその事故をモチーフにしてこの作品を書き上げました。殺人を犯して大金を奪った男がその後、奪ったお金を元手に事業を興し成功する。ところが、その男が慈善事業にお金を出した関係で顔写真が新聞に載ってしまう。その記事をかつてその殺人犯の男に大金をいただいたお陰で娼婦の身から抜け出すことができた女性が読み、そのお礼を言いたくて実業家になった男を訪ねる。ところが、男は女性がお金の無心に来たものと勘違いしてしまい、その女性の命を奪ってしまうという皮肉なめぐりあわせの物語です。
 水上さんの作品には弱い者、貧しい者、不遇な人に対する思いやりの気持ちが随所にありますが、これは水上さんが幼いころから苦労し、社会の底辺を見て来たからだと思います。
 水上さんは作家として実質的にデビューしたのは40代の半ばであり、ご本人によれば、それまでの人生で様々な職業を体験して、それも挫折の連続であったそうです。
 そのような人生を通じて学んだことを記した水上さんのエッセイ集「働くことと生きること」(集英社文庫)があります。そこには職業人である私たちにとって教訓となる話がいっぱいあります。
 その一つに「天職とは最初からあるものではなく、働きながら育った人格があとから見出すもの。心のありよう次第のもの」とあります。腕のよい大工だった父親が生業として棺桶を丁寧に作って人を送った話などが語られています。
 このエッセイもぜひ読んでいただきたいと思っています。


 第7回目
 第7回目に紹介する本は吉村 昭さんの『漂流』です。
 吉村さんは『戦艦武蔵』、『高熱墜道』、『破獄』等といった数多くの著作があり、徹底的な取材をして、事実を丹念に調べ、得られた事実を単に並べるのではなく、血の通った人間ドラマに仕立て上げた作家です。
 吉村さんのどの作品を紹介してもよいのですが、私の一押しは『漂流』です。この作品は
実際にあった話で、江戸時代、土佐を出て江戸に向かう途中でしけに遭い、黒潮に乗って八丈島よりさらに相当先の海の火山島に漂着します。そこは水も食料も何もないという最悪の無人島ですが、ここで12年間の苦闘の末、自力で船を作って帰還した漁民の話です。
 「意志あるところに道あり」という言葉がありますが、何としても成功させるのだという強い意志を持って頑張れば何とかなるかもしれないという希望を持たせてくれる本です。
 誰も助けに来てくれない、もう駄目だと泣き言を言う仲間に、「愚痴を言って何か良くなるのであればいくらでも愚痴を言えばいい。しかし、愚痴を言っても何もならないのなら愚痴を言うのは止めよう」と仲間を戒めるリーダー格の長平の言葉に私は胸を打たれました。
 私もこれまでの人生で不遇な思いをする時期もありましたが、それを恨んだところでどうにもなるものではない、「「禍福はあざなえる縄の如し」と自分に言い聞かせて生きて来たので、長平の仲間を戒める言葉に同感しました。
 作家になる方は想像力が豊かだから作家になれるのだろうと思いますが、『漂流』に限らず、吉村さんの作品はご自身がほとんどというか、まったく体験していないのにどうしてここまで克明に書けるのか、ただただ感動する作品ばかりです。
 吉村さんの作品はどれをとっても教えられることが非常に多いので、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思います。

番外編の追記
 本は素晴らしいです。特に紙の本は素晴らしいです。ぜひ多くの人に読んで欲しいです。
 街の本屋さんがどんどん姿を消しています。大阪の谷町にある隆祥館書店はわずか13坪の書店ですが、本の文化は絶やしたくない、大手書店に負けてなるものかと店主の二村知子さんは頑張っています。二村さんは私に「この本はぜひ読んで欲しい」と言って『典獄と934人のメロス』を勧めてくれました。読んで感動した私は友人のKさんに差し上げました。私同様、感動したKさんは隆祥館書店に行って、その本を7冊も買って友人に配りました。二村さんから後日電話が入り、「今井さんのお友達は素晴らしい」と褒めていただきました。
 本は素晴らしいです。紙の本も、街の本屋さんもなくならないで欲しいです。
posted by 今井繁之 at 16:55| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年06月25日

生きていて欲しかった人 高倉健さん 



 少々以前の話で恐縮だが、2014年11月10日、多くの人に敬愛された映画俳優、高倉健(以下健さんとさせていただく)は帰らぬ人となってしまった。
 そのお亡くなりになった当時のことであるが、私は敬愛する健さんの最後の手記が文芸春秋2015年新年号に掲載されているというので、発売当日、早々に購入した。
 知らされていなかったようなことが沢山書かれているかと思って読み始めたら、健さんが書いた原稿のページ数はわずか6ページであり、正直言って少々落胆した。でも、健さんは執筆を引き受けた以上、何としても仕上げなければならないという気持ちで渾身の力をふり絞って書いたに違いない。書きたいことは沢山あったのだろうが書き上げるまで神様は待ってくれず、途中で命が尽きてしまったのだろうと考え直した。
 ただ、最近、健さんの養女と名乗る小田貴月さんという方が「高倉健、その愛。」というタイトルの本を文芸春秋社から出している。そこには「人しれず2人で暮らした17年の日々。孤高の映画俳優が最後に愛した女性による初めての手記」と紹介文があり、続けて「高倉からのリクェストはたった一つ、『化粧をしないでください』」とある。
 本当に健さんがこの人を愛していたかどうか分からないが、健さんのこれまでの生き様からしたら、このような形で自分のことが明らかにされることは最も避けたいことだったのではないかと思う。この人は健さんに「書いてくれ」と頼まれたというが、真実は分からない。
 書くのだったら、健さんと50年間、夕食をほぼ共にしていたという俳優仲間の小林稔侍さんに書いていただきたかった。でも、小林さんは健さんから「俺が死んでも俺とのことをあれこれ絶対に語るなよ」ときつく言われていたから書かないし語らないと言う。
だから小田貴月さんが健さんのことをあれこれ語っているのは不思議な気がする。
 私は同書を本屋さんで立ち読みしたが、作者の特別な小田さんには悪いが、特別なことは書いてないので購入するのは止めた。

 2015年の健さん自身の手記の次のページに健さんと親交のあったノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが「深い海の底に 高倉さんの死」と題して49ページに渡って健さんとの思い出を書いている。
 冒頭に、沢木さんは「電話で『高倉健さんが亡くなられましたが一言コメントをいただきたい』と雑誌記者?にコメントを求められたが、『私は電話でコメントするということはしていないので申し訳ありません』と断った」と書いてある。            
 私の勝手な推測だが、健さんへの思いを語るのにわずか数行で語ることはできないと考えて断ったのではないかと思う。          健さんと沢木さんの関係は30数年前、沢木さんがロスアンジェルスで行われたプロボクシング ヘビー級タイトルマッチ、ラリーホームズ対モハメッド・アリ戦を観戦したいと思っていたがチケットが入手できず、観戦を諦めていたところ、友人を介して、健さんから「自分より沢木さんが見た方がいい」ということで、特等席のチケットを譲ってもらって以来のお付き合いということである。              お付き合いがあったといえ、沢木さんがこれだけの追悼文を書いた理由は私の勝手な想像だが、恩義のある健さんが渾身の力で書いた手記が6ページであったことを知って、健さんの書き足りなかった分を補完しようと思って49ページに渡る長文の追悼文を書いたのではないかと思った。
 健さんが書きたかったのではないかと思われる事柄も随所にあり、天国の健さんも「沢木さん、助けてくれてありがとう」と言っているのではないかと思った。

 亡くなられたということもあり、健さん主演の懐かしい映画がテレビで放送されることがしばしばある。繰り返し見ているが、何度見ても、どれも素晴らしい。新たな映画が見ることのできないのは本当に残念である。                     
映画ではないが、健さんが亡くなられた後もしばらく流されていた健さんの登場するテレビCMが一つだけあった。
 それは九州鹿児島に本社のある健康食品を製造・販売している「健康家族」という会社のCMである。
 同社の『にんにく卵黄』のCMに健さんは出演しており、健さんが亡くなられた後も、1年か2年か、流されていた。
常識的に考えれば健康食品のCMに出演していた人が亡くなると中止になる。
 健さんの出演する『にんにく卵黄』のCM第一回分は2014年3月に放送された。第2回分はその年の夏に撮影を済ませて、秋から放送されていた。
 恐らく健さんはこんなに早く自分が亡くなるなんて思っていなかったのだろう。しかし、健さんは自分の死期が近いことを悟った段階で、CMはまだわずかの期間しか放送されていない、自分が亡くなると、せっかくのCMの放映を中止せざるを得なくなり、「健康家族」社に迷惑をかけてしまうのではないかと病床で考えたのではないか? もし、差し支えなければCMをそのまま放送していただいても一向に構わないということを「健康家族」社に伝えるべきだと考えたに違いない。         
 「健康家族」社によると亡くなったという発表が公になる直前に高倉健事務所の社員が健康家族本社に直接訪れ、健さんが亡くなったことを報告したという。その席で健さんの意向を伝えたところ、「健康家族」社でも、健さんのお言葉に甘えさせてもらうことにして、CMのページに「高倉健さん所属事務所の意向もあり、哀悼の意を込めて広告を続けております」と事情を説明する文章をつけて引き続き流すことにしたということである。                                
 「健康家族」社の総務部長の村田悟氏は「筋を通すため、公になる前に伝えたいということで弊社までわざわざ来られた。とても悲しいが、こうした地方企業のCMに出演していただき、感謝の気持ちでいっぱいです」と語っている。              
 「健康家族」の公式サイドのトップページを見ると「高倉健さまのご訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します。弊社広告にご出演いただきましたことに心から感謝してご冥福をお祈り申し上げます」というメッセージを掲載していた。
 「健康家族」社は1993年に徹底したこだわりで手間はかかるものの無農薬のにんにく入りの健康商品を『にんにく卵黄』というブランド名で生産・販売するようになった。 この製品をもっと多くの人に知ってもらいたいということでテレビCMを流すことにした。「健康家族」の企業理念は「不器用でも信頼の置ける会社」ということであり、日頃から「自分は不器用ですから」と自称している健さんと共通点がある。  泥臭く、手間も人手もかけて自社生産する商品や企業イメージと、健さんのイメージと一致するということで、同社の社長の藤裕己さんは健さんに直筆の手紙をしたためて、ダメ元で出演を依頼した。ところが同社の企業理念や商品に共感した健さんから「お引き受けしましょう」という返事が来たという。                      
健さんと打ち合わせしている中で、健さん自身がファンだという井上陽水さんの音楽をBGMに使おうということになり、陽水さんに話すと健さんからのお話であれば喜んで協力しましょうということになり、陽水さんの名曲『少年時代』がバックで流れるという豪華なCMとなった。さらに第1回目のCMに夜汽車に乗っている健さんが出てくるが、この撮影にはJR九州が協力してくれて、未明に列車を臨時に走らせてくれたという。
 CMの中で健さん自身の声で「農薬は使わない、その分 汗を流せばいい、この一年どれだけ頑張ったかは取れたにんにくが教えてくれる」という力強いナレーションがある。 恐らく、この声は私共一般の者が耳にする、生前の健さんの最後の声だと思う。
 健さんはこのCMの撮影前に事前の連絡をすることなくサプライズで「健康家族」社を訪問して、職場やコールセンターの雰囲気を見学したという。事前に伝えると会社に準備の手間を煩わせてしまうので、それを避けたのだということだが、いかにも健さんらしい。

 このCMは健さんに出演していただき、陽水さんに音楽を提供していただき、JR九州さんに列車を運行してもらったので製作費用は相当かかったのではないかと他人事ながら心配になった。
 でも、ひょっとしたらそれほど支出しなくて済んだのかもしれないとも思う。
 そう思うのは、前述した文芸春秋2015年新年号に出ていた沢木耕太郎さんが健さんにラジオ出演を依頼した時のエピソードを読んだからである。
 健さんに世界タイトルマッチのチケットを譲ってもらって以来親交を重ねるようになった沢木さんは東京のFM局から沢木さんの会いたい人に、その人が行きたい場所で会い、お話をするという番組に出演を依頼されて、それを受諾した。沢木さんは第1回目のゲストとして健さんに出てもらいたいと思った。番組のディレクターは「とても無理だろうが、お願いだけでもしてみましょう」ということで、お願いしたら、何と健さんからオーケーの返事が来たという。そして話をするなら北海道の牧場に泊まりがけで行かないかと言ってくれたという。お言葉に甘えて北海道で2日間過ごして、番組は無事できたという。                             

番組が出来てからディレクターは大変なことを忘れていたことに気がついた。健さんの出演料を決めていなかったことを。デイレクターは恐る恐る健さんの事務所に電話して 「今回の出演料はいくらお支払いしたらよろしいでしょうか」と。すると健さんの事務所の女性が「ラジオの予算ではとてもお支払いになることはできない額だと思います」と言う。 ディレクターは蒼くなったが、事務所の女性は続けて次のように言った。「だから、一銭もいただかなくてもよいと(高倉健は)申しております」と。
 この沢木さんの番組には健さんが出たということもあって、この後、吉永小百合さん、中島みゆきさん、井上陽水さん、さらには美空ひばりさんまで出演してくれることになったという。健さんが出演料を辞退したのだから、他の人達も辞退するか、あるいは交通費だけ結構ですということになったのではないかと思う。               

 健さんは本当に多くの人に好かれていたと思う。それは偏に健さんの人間性にあるかと思う。私のブログ「多くの人に好かれる人 高倉健さん」で健さんのエピソードを取り上げてあるが、この人は心から人を思いやる優しい人であった。健さんは「いい出会いがあったから人を思いやることができるようになった」と語っている。
 そして健さんはご自身の書かれた本の中で「誰それがよろしくと言っていましたという人がいるが、僕は違うと思う。本当によろしくと思っているなら、どんな形でも自分で伝えるべきだと思う」と言っているが、正しくその通りだと思い、私もそれを実践しようと心掛けている。

 しかし、その健さんは帰らない人になり、すでに5年が過ぎだ。
 健さんが亡くなった直後、私が健さんを敬愛していることを知っている友人から「お力落としをされたことでしょう」と慰められた。確かに悲しくて、脱力感に襲われたが、そこから立ち直って今日まで来ている。
 時折、健さんが出演された「君よ憤怒の河を渉れ」を始め「幸福の黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」等がテレビで放送されるので、それらをしばしば見る。また健さんが執筆された『旅の途中で』を始めいくつかの本は残っているので、それらの中にあった言葉を書き留めておき、時々それを見て、生きていく糧にしている。
 健さんの年齢に達するまでまだまだ時間はあるので、これまで以上に「いい出会い」を求めて頑張って生きて行こうと思う。        そして、いつの日か、黄泉の世界に行って、もし健さんにお会いすることができたら、健さんに「男の生き方を教示していただきありがとうございました」とお礼を言いたい。   
posted by 今井繁之 at 13:44| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

私の敬愛する作家 藤沢周平さんのこと


私は友人の紹介でフェイスブックの「ブックカバーチャレンジ」というコーナー?に私の好きな作家・作品を紹介しました。2020年の6月初から掲載して、第1回が高倉健さん、第2回目が中嶋 敦さん、第3回目が柚月裕子さん、第4回目に紹介したのが藤沢周平さんの作品『又蔵の火』です。
作品の中身を紹介していると長くなるので、それは割愛しますが、藤沢周平さんという方は奥ゆかしい人柄の人で、その人柄を「ブックカバーチャレンジ」でほんの僅か紹介させてもらいましたが、それでは物足りず、改めてここに載せることにしました。
ご存じの方も多いかと思いますが、藤沢周平さんは映画・テレビドラマ化された「たそがれ清兵衛」、「蝉しぐれ」、「三屋清左衛門残日録」など数々の名作品を書かれています。多くの作品の舞台になっているのは藤沢さんの郷里である山形県鶴岡市であり、藤沢作品に傾倒している私は一度はこの鶴岡市に行きたいと思っていました。
今から数年前、たまたま、東北6県の自治体の課長クラスを集めての研修会があり、その席で私は藤沢さんのファンであり、「一度、鶴岡市に行きたいと思っている」という話をしたら、たまたま参加者の中に鶴岡市の隣町の三川町から参加されていた成田さんという方がおられて、その方は研修会が終わったら、私を鶴岡市まで案内するという嬉しい申し出がありました。そして、藤沢さんが作品を執筆される際に、時々利用した鶴岡市湯田川にある九兵ヱ旅館に宿泊できるように手配したと言われます。それも藤沢さんが執筆する時に使用していた部屋に泊まれると言う。
藤沢さんは作家になる前は中学の先生をしていたが、その当時の教え子の大滝澄子さんが九兵ヱ旅館を経営しており、湯田川温泉の旅館でも格が上の旅館だという。
成田さんの案内でその九兵ヱ旅館に着くと、藤沢さんが執筆時に利用していたという部屋に通された。私は相当立派な部屋に通されると思っていたが、通された部屋は8畳?の普通の部屋であり、日当たりはあまり良くなく、外の景色もあまり見えない。本当にこの部屋を藤沢さんは利用していたのかな?と疑問に思ったが、宿の人が言うのだから信用するしかなく、そこに一泊した。

翌年、今度は庄内振興センターというところから研修を依頼されたので、再び鶴岡市に行くことになった。今度は自分で九兵ヱ旅館に電話して、部屋を確保した。 その際、昨年、藤沢さんゆかりの部屋に泊まったことは話さなかった。
研修会の前日に九兵ヱ旅館に着き、部屋に通された。今度は昨年と違って日当たりもよく、外の景色もよく見える立派な部屋であった。
そこで、案内してくれた宿の人に「実は私は昨年もこちらにお世話になったが、昨年は藤沢先生がご愛用の部屋に通されたが、どうみても今回のこの部屋の方が立派で、昨年の藤沢先生ご愛用の部屋は一段落ちるような気がしますが・・・」と遠慮がちに言うと、「その通りです。藤沢先生は自分はどんな部屋でも構わないと言われてあの部屋を使われたのです。この部屋のようないい部屋は自分にはもったいないと言われて固辞されるので、やむを得ずあの部屋を利用していただいたのです」と言う。
藤沢さんにお目にかかったことはないが、藤沢さんの作品を通じてお人柄に感服していた私はやはりそうだったのかと納得した。
藤沢さんは最初はこの旅館の一番いい部屋に通されたと思う。この旅館の大滝さんに確認したわけではないが、大滝さんは宿代のお支払のところで「先生から頂戴するわけにはいかない」と利用料金の支払いは遠慮したのではないかと思う。「そうはいかない。支払います」と藤沢さんは強く言われたと思う。「分かりました。どうしてもということであればいただきます」ということになったものの、大滝さんの請求金額は非常に低い金額だったのではないかと思う。
そこで、旅館側にご迷惑はかけまいということで二度目からは私が昨年お世話になった粗末な部屋?を選択したのではないかと勝手に想像する。当たらずといえども遠からずで、藤沢さんだったらそういった振る舞いをすると思う。
このエピソードを通じて、藤沢さんへの畏敬の念をさらに深くした。
藤沢さんの作品を読むと、藤沢さんのお人柄をほうふつさせるような主人公が登場して心が温かくなるので、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思う
posted by 今井繁之 at 13:27| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする