2024年07月07日

周りの人をほっとさせる



 世の中がせせこましくなってきて、人間関係も何かとぎくしゃくしてきたような印象を持っているが、このような時だからこそ、周りの人達をほっとさせる「気が利く人」が求められている気がする。
 私は10年前に、教育システムという出版社から依頼されて、同社が発行している月刊誌「BAN」に「気の利く人、気の利かない人」というタイトルで原稿を書いている。
 気の利かない人の代表のような私にそのようなことを書く資格はあるかと自問自答しながら、図々しくも書いており、近々に120回目を迎えるが、編集部から「そろそろ終わりにしましょう」と言われるまで書き続けようかと思っている。

 そもそも「気が利く人」とはどんな人かといえば、その場の空気を読んで、機敏に必要な行動を取るような人であるが、そういった人だけでなく、他者への優しい心配りのできる、周りの人達をほっとさせる人も「気が利く人」といえる。
 
 少し前の話で恐縮だが、以前、大阪府庁の職員研修を行った時に、参加者の一人が、「あの人は本当に気が利く人だった」と言われたことがある。
 それはどういう話かと言うと、大阪府が中心になって進めていた幹線道路工事が終了して、その完成記念式典で、当時の府知事の横山ノックさんが挨拶することになっていたところ、事務方が知事の挨拶の原稿を持ってくるのを忘れてしまったということがあった。
 「原稿を持参するのを忘れました」と言って平謝りに謝る事務方に、横山ノック知事は慌てず騒がず「原稿なんてなくてもいっこうに構わない。私は喋るのが商売だから気にしないでください」と言って、その場で当意即妙の挨拶をしたという。
 横山ノックさんはプロの漫談家を長く務めた後、政治家になったという経緯があり、本人が言うように喋るのがお仕事だった。
とはいうものの、このような場面で部下を叱ることなく、その場を見事に切り抜けるのは大したものだと思う。
 この時のことを語ってくれた府庁職員の「ノックさんが知事でよかった。そうでなかったら大変なことになるところだった。ノックさんは本当に気が利く人でした」と言われたのを私は鮮やかに記憶している。
 横山ノックさんは選挙カーの中で、ウグイス嬢にイタズラしたということで辞めることになったが、惜しい人であった。

 『気が利く人』とは目から鼻に抜けるような人を連想しがちであるが、必ずしもそうではないと思う。「気が利く人」とは一見縁遠いようだが本当に気が利く人がいる。
 意外に思われるかもしれないが、その一人が明治の偉勲である西郷隆盛さんである。
 今日でも読み継がれているが、内村鑑三氏が1904年に書かれた「代表的日本人」(岩波文庫)という本がある。この本は日露戦争後に日本人とはどんな民族なのかを理解してもらうために海外の人向けに書かれたもので、この本の中で取り上げている日本人は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名である。
 トップに取り上げられているのは西郷隆盛さん(以降西郷さん)である。
 内村氏は西郷さんを「新日本の創設者」とタイトルをつけている。私も含めて多くの人はこの西郷さんがいなかったら今日の日本はなかったと思われているだろうから、内村氏に賛同されると思う。
 西郷さんの銅像は東京上野公園にあるが、普段はあの通りの服装で、薩摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけであったという。
 その本で紹介されていた西郷さんのエピソードだが、あるとき宮中の宴会に招かれ、いつもの薩摩がすりで出席した。宴が終わり、退出しようとしたが、入り口で脱いだ下駄が見つからなかったという。そのことで、だれにも迷惑をかけたくなかったので、はだしのまま、しかも小雨の中を歩き出した。城門にさしかかると、門衛に呼び止められ、身分を尋ねられた。いつもの普段着のまま現れたので怪しい人物と見なされてしまった。名前を問われて「西郷大将」と答えたが、門衛はその言葉を信用せず、門の通過を許してくれない。そのため、西郷さんは雨の中をその場に立ち尽くしたまま、自分のことを門衛に証明してくれる誰かが出現するのを待っていた。やがて岩倉具視大臣を乗せた馬車が近付いて来た。ようやく裸足の男性が陸軍大将の西郷さんであることが判明、岩倉大臣の馬車に乗って去ることができたということである。
 西郷さんは恐らく門衛には責任が及ばないように言い足してその場を去ったと思う。
 西郷さんは人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしなかったという。人の家を訪問することはよくあったが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったまま、誰かが偶然出てきて、自分を見つけてくれるまで待っていたという。
 この西郷さんは「気が利かない人」かというとそんなことは決してない。周りの人に迷惑をかけないという気配りをする、本当に「気が利く人」である。

 もう一人、『気が利く人』というより『気配りの人』といったほうが適切かもしれないが、数年前、惜しくも亡くなられた元横綱大鵬さん(以降大鵬関とさせていただく)の話を紹介させてもらう。
 大鵬関が1969年の春場所で平幕の戸田という力士に敗れたことがある。大鵬関はそれまで45連勝しており、その記録が途切れることになった。この相撲は戸田関が立ち会いから大鵬関を一方的に攻めて土俵伝いに体を残そうとする大鵬関は右にはたいた。体が前に落ちた戸田関はそのまま押し込み、体を浴びせるようにして大鵬関を押し出した。行司の軍配は大鵬関に上がったが、物言いがつき、差し違えで戸田関の金星となった。だが、大鵬関のはたき込みの際、戸田関の足が出ていたのを勝負審判が見落としていたことが、後で判明した。「世紀の誤審」と騒がれたが、大鵬関は「横綱である自分がああいう相撲を取ったのが悪い」と言い続けた。戸田関は間接的に大鵬関のその言葉を聞いた。大鵬関が自身への反省としてそのように語り続けたことに対して「そういってくれることで(気持ちは)楽にもなれた」と語っている。  
大鵬関は2008年5月23日発売の週刊朝日の『昭和からの遺言』の中で、ロシア人の父と日本人の母との間に生まれた自分は子供の頃は「アイノコ」といじめられた過去があることを話し、21歳3カ月の史上最年少(当時)で横綱になった時の決意を次のように述べている。
 「21歳で横綱に推されて、口上を述べた時、私はやめることを考えていた。うれしいというよりも、これから先が大変だという思いのほうが強かったんだね。年齢なんて関係ないですよ。21歳の若造だろうが、横綱になった以上は言動に責任を持たないといけない。地位を与えられたなら、それ相応の知識も身に付けなければいけない。もちろん横綱としての成績をあげることができなかったら、やめるしかない」
 大鵬関はその言葉どおり、中曾根総理大臣を始め政財界のトップの方々に可愛がっていただき、その道で苦労された方から大学で学ぶ以上のことを教わったという。
 大相撲に関心のない人には興味が持てないかもしれないお話を長々と記述して申し訳ないが、「横綱にふさわしくない相撲を取った自分がいけない」と言って勝負審判を恨むようなことを一言も言わない大鵬関は本当に「気が利く人」と言える。
                          
 10数年前に出現したかと思うが、「アベノミクス」というよく分からない政治が出現して、経済至上主義になってきて、日本国がどんどんダメになって来ているような感じがするが、どんな時代になっても人間が主役であることは間違いない。
今や、何かあった時、自分の言動が周辺の人にどのような影響を与えるかをもよく考えて、周りに迷惑をかけないような行動を取る人が求められている。
 私の書いた原稿が何かの参考になって、周りの人達をほっとさせる「気配りのできる人」が輩出することを願ってやまない。
posted by 今井繁之 at 17:35| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

相手の主張をじっくり聴いた渋沢栄一さん

    

 私は研修講師という仕事柄、受講生の皆さんに話すことが多い。私の話した内容に不明点・疑問点があれば遠慮なく言っていただく。そのような時、私の説明に対して、自分の意見を主張する受講生がいる。そのような場合、その方の主張をじっくり聴き、主張する内容を確認しながら、私の考えを伝えることにしている。
 受講者の主張に対して、「そういう考えもありますね」といったん受け入れて、その上で「私はこのように考えております」と話すと、気のせいか、納得した表情を浮かべて私の説明を受け入れていただけることが多い。
 私は研修講師を始めた初期の頃は相手の主張にすぐ反論するようなことがあったが、慣れて来るにしたがって、相手の主張を受け止めるようになった。   
 相手の話を十分聞かないうちにすぐ反論というか、自分の主張を話し始めると相手はあまりいい気分はしないはずである。
 人は自分の話に耳を傾けてくれる人に好意を持つものである。

 2024年7月から新たな一万円札が登場したが、肖像は福沢諭吉さんから渋沢栄一さんに変わった。
 渋沢栄一さんはNHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、明治維新以降の日本の近代化の推進者であり、みずほ銀行、東京海上、王子製紙、キリンビール、東洋紡等多くの企業を創業した方であるが、この人は実によく人の話に耳を傾けたという。
 渋沢栄一さんの玄孫である渋沢 健さんという方と、ある会合で同席したことがあるが、その方のお話によると、渋沢栄一さんは晩年に至るまで、いつも自分の目の前にいる人のお話に真摯に耳を傾けて対応したという。どんな時でも、どんな人に対しても同じ態度だったという。
 渋沢栄一さんは日本の元老的な存在になって、総理大臣でも姿勢を低くして会いに行くような人物だった。ところが当の渋沢さんはどんな時でも、会う人に対して、例えば就職を頼みに来た学生、あるいは社会運動の募金を頼みに来た女性、何でもない用事で来た人、どういう人に対しても、心のすべてを傾けて応対するというスタイルを生涯貫いたということである。

 晩年のことだが、アメリカが反日運動を展開した時期がある。移民も制限された。そこで渋沢さんは日本の使節としてアメリカに行くことになった。
 だいたい、現在に至るまで日本の使節は向こうに行ったところで、日本と仲のいい人物にしか会ってこない。渋沢さんはこれでは意味がないと思った。そこで、渋沢さんは、日本を一番嫌っている排日運動のリーダーに会いに行ったという。当然のことながら向こうは最初、まるで相手にしてくれないのですが、再三再四頼んで、やっと排日運動のリーダーが時間を割いて会ってくれることになったということです。
 ところが、会って話しているうちに、向こうのリーダーはすっかり渋沢さんのとりこになってしまったということです。時間も忘れて延々と渋沢さんと話し合い、しかも別れ際には別れを惜しんで、「渋沢さん、あなたの写真を私にください」と言う。そして、「写真にサインしてください」とまで頼むという始末だったということです。つまりもうファンがスターにねだるのと同じ、そういう関係になってしまったということです。
 恐らく渋沢さんは排日運動のリーダーに対して、「あっそう、それでは大変だったですね、どうしたらうまくいくのでしょうか」と言う具合に心のすべてを傾けて相手の言い分に耳を傾けたのだと思う。その上で、日本側の思いも率直に伝えたのだと思います。     
 渋沢さんは何か手土産を持って行ったわけではないし、おいしい話をしに行ったわけではない。しかし、目の前にいる人に心のすべてを傾けて応対するという態度が言葉も違い、立場も違う人の心を溶かしてしまったということです。
 渋沢さんはあらかじめ答えを用意せず、聞き役に徹して相手の言いたいことに耳を傾けて相手の言い分をじっくり聴くという態度に終始したことで相手の理解を得たということです。

 相手の言い分に耳を傾けず、自分の思いを饒舌に喋って相手を閉口させるのは度量の小さい人であり、渋沢さんのように相手の話に耳を傾け、その上で必要なことを簡潔に話す人は度量の大きい、多くの人に畏敬される人ということになるので、私達も渋沢栄一さんを見習わなければいけないと思う。






posted by 今井繁之 at 16:01| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2024年04月18日

NHKの「歌に生きて 淡谷のり子」を見て思ったこと


2024年のNHKの朝のテレビ小説はブギの女王として一世を風靡した笠置シヅ子さんを主人公にした「ブギウギ」である。
私はこの「ブギウギ」を最初は見るともなしに見ていたが、笠置さんと同世代の歌手として淡谷のり子さんが登場して来たので熱心に見ることにした。
私は笠置さんのナマの姿は見たことはないが、淡谷のり子さんにはお会いしたことがある。お会いしたといってもほんのちょっと見て、ひとこと、言葉を交わしただけだが、未だに淡谷さんのお顔はかすかに覚えている。お顔を覚えていると言ったが、顔全体ではなく、覚えているのは赤い唇である。淡谷さんとキスしたわけでは決してない。
淡谷さんの赤い唇を見たのは私が大学2年生の20歳の時である。その当時、アルバイトとして撮影用のカメラや録音装置を劇場に運び込んでセットするような仕事をしていた。
名称は忘れてしまったが、新宿にあった何とかミュージックシアターといったような名前の劇場で淡谷のり子さんのコンサートがあり、そこに放送機器を運び込んで、セットするという仕事をした。劇場の入り口に出演者として淡谷のり子さんという名前が出ていた。
 私は淡谷のり子さんというお名前の歌手がいることは知っていたが、特別な興味もなかったので、放送機器のセットが一段落したので、座りこんで、タバコを吸っていたら、舞台衣装をまとった大柄?な女性が私の目の前に座り「マイクはどこにあるの?」聞かれる。
 その女性は色鮮やかなお化粧をしており、特に唇が真っ赤であり、その唇が大変大きく見えた。私はその唇に飲み込まれるのではないかと恐怖で震えた。そしてこの女性が本日の主役である淡谷のり子さんだろうと察知した。「はい」と返事したものの、マイクはどこにあるか分からず。きょろきょろしていてたら、私の脇にいた先輩が「先生、こちらです」と言って淡谷さんにマイクを渡して、その場は収まった。
 本当にこの時は怖かった。純情だった私は淡谷さんの赤い唇に飲み込まれてしまうのではないかとしばらく震えていた。その後、淡谷さんはステージで歌われたが、美しいソプラノで聴衆の心を惹き付ける素晴らしい歌い方であった。大きな体格の女性に見えた。「別れのブルース」とか「雨のブルース」といったヒット曲を歌われたと思うが、唄そのものより、淡谷さんの赤い大きな唇はしばらくの間は脳裏に残っていた。

 その淡谷さんを取り上げた番組が2024年2月24日、NHKで放送された。タイトルは「発見 あおもり 深世界 歌に生きて 淡谷のり子の素顔」であった。相当以前に録画された箇所もあったが、画面越しであるが、淡谷さんのお姿を久しぶりにじっくり拝見させてもらった。
 淡谷さんは私と同じぐらいの背丈の人かと思っていたが、テレビの画面で拝見するとそれほど大きくはなかった。男性歌手の美川憲一さんと並んで立っている画面があったが、美川さんの肩ぐらいしかなくてびっくりした。美川さんはそれほど大柄ではなく170cmぐらいの背丈かと思うので、美川さんの肩のところに淡谷さんのお顔があったので、淡谷さんは155~160cm前後の背丈ではないかかと思う。しかし、その淡谷さんがテレビ画面で得意の唄を歌っている姿は私が学生時代にお会いした時の印象と同様に大きな姿の女性であった。

 別の歌い手の話になって恐縮だが、淡谷さんと同業の歌手にアイジョージさんという方がいる。この方の生死は不明だが、1933年の生まれだから淡谷さんより若い人である。 
 アイジョージさんは1960年代から80年代にかけて活躍された方で、私は彼の唄が好きで、高いチケット代だったと思うが、劇場で彼の唄声をナマで聴いたことがある。
 彼はコンサートの冒頭に「私は小さい。しかし私は大きい」と語った。彼は身長は160cm前後ではなかったと思うが、「硝子のジョニー」とか「ラ・マラゲーニャ」といった彼が得意にしていた唄を持ち前の豊かな声量で朗々と歌い始めると、彼は大きな男に見えた。 
 彼はその時、「歌のうまさでは誰にも負けない」とも言っていた。そんな風に自信を持って堂々と振る舞うと、人は大きく見えるということを実際に見せてくれた。
 彼は日本人歌手としてカーネギーホールで最初に歌われた人だが、この人がコンサートの冒頭に言った「私は小さい、しかし私は大きい」という言葉は淡谷さんにも共通しているかと思う。
 この言葉は研修講師として人前で講義することの多い私のような人間にも、「自分に自信を持てるようになると、人には大きく見えるようになる」というよき教訓になった。

 淡谷のり子さんは戦前から戦後にかけて、ブルースの女王として一世を風靡した方だが、彼女は青森市の大きな呉服屋さんのお嬢さんとして生まれ、音楽学校に入ったものの、実家が火災で焼けてしまい、経済的に苦しくなった。そして妹さんが栄養失調で目を手術しないと失明するということになり、手術代を捻出する必要に迫られ、死ぬ気になったら何でもできると自分に言い聞かせて、ヌードモデルになって、手術代を稼いだということである。
 東洋音楽大学を首席で卒業したが、卒業後は、稼ぎのいい流行歌手となって、一家を支えたということである。その当時、流行歌手になるのは一段下の職業に従事している人間とみなされたということであるが、そんなことは一切、構わなかったということである。。
 戦争中は戦地で戦っている戦士の慰問に行くことがあり、濃い口紅、高いヒール、派手なドレス姿に軍隊のおえら方から「兵士の前でそのような姿で歌うことはまかりならない」と言われたが、淡谷さんは「これは私の戦闘服です。丸腰では戦えません。兵隊さんが鉄かぶとをかぶるように、歌手の化粧は贅沢ではありません」と堂々と主張したとのことである。
 学生時代の友人が産んだ子供を事情があって育てられないと聞いて引き取って、自分の子供として育てて、そのことを誰にも、実子にしたその子供にも一言も語らなかったと言う。
 
 青森では強情っぱりのことを「からきじ」と呼ぶそうだが、淡谷さんは正しくそうであったようでである。
 今回、テレビで改めて淡谷さんを見て、淡谷さんが大きく見えたのは淡谷さんの生き様にもあったような気がする。
 私が淡谷さんを大きな人と思っていたのは、彼女の履いていたハイヒールの高さとふくよかな体型にあったかもしれないが、それ以上に、一度、聴いたらつかんで離さない素晴らしい歌唱力と、自分は恥じるようなことは何もしていないという堂々とした生き方にあったような気がする。
 私は赤い唇は怖かったが、本物の淡谷のり子さんに会えたことを誇らしく思っている。
 そして自分は人に恥じるようなことはしていないという自信があると、人には大きく見えるという教訓をいただき、感謝している。















posted by 今井繁之 at 09:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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