世の中がせせこましくなってきて、人間関係も何かとぎくしゃくしてきたような印象を持っているが、このような時だからこそ、周りの人達をほっとさせる「気が利く人」が求められている気がする。
私は10年前に、教育システムという出版社から依頼されて、同社が発行している月刊誌「BAN」に「気の利く人、気の利かない人」というタイトルで原稿を書いている。
気の利かない人の代表のような私にそのようなことを書く資格はあるかと自問自答しながら、図々しくも書いており、近々に120回目を迎えるが、編集部から「そろそろ終わりにしましょう」と言われるまで書き続けようかと思っている。
そもそも「気が利く人」とはどんな人かといえば、その場の空気を読んで、機敏に必要な行動を取るような人であるが、そういった人だけでなく、他者への優しい心配りのできる、周りの人達をほっとさせる人も「気が利く人」といえる。
少し前の話で恐縮だが、以前、大阪府庁の職員研修を行った時に、参加者の一人が、「あの人は本当に気が利く人だった」と言われたことがある。
それはどういう話かと言うと、大阪府が中心になって進めていた幹線道路工事が終了して、その完成記念式典で、当時の府知事の横山ノックさんが挨拶することになっていたところ、事務方が知事の挨拶の原稿を持ってくるのを忘れてしまったということがあった。
「原稿を持参するのを忘れました」と言って平謝りに謝る事務方に、横山ノック知事は慌てず騒がず「原稿なんてなくてもいっこうに構わない。私は喋るのが商売だから気にしないでください」と言って、その場で当意即妙の挨拶をしたという。
横山ノックさんはプロの漫談家を長く務めた後、政治家になったという経緯があり、本人が言うように喋るのがお仕事だった。
とはいうものの、このような場面で部下を叱ることなく、その場を見事に切り抜けるのは大したものだと思う。
この時のことを語ってくれた府庁職員の「ノックさんが知事でよかった。そうでなかったら大変なことになるところだった。ノックさんは本当に気が利く人でした」と言われたのを私は鮮やかに記憶している。
横山ノックさんは選挙カーの中で、ウグイス嬢にイタズラしたということで辞めることになったが、惜しい人であった。
『気が利く人』とは目から鼻に抜けるような人を連想しがちであるが、必ずしもそうではないと思う。「気が利く人」とは一見縁遠いようだが本当に気が利く人がいる。
意外に思われるかもしれないが、その一人が明治の偉勲である西郷隆盛さんである。
今日でも読み継がれているが、内村鑑三氏が1904年に書かれた「代表的日本人」(岩波文庫)という本がある。この本は日露戦争後に日本人とはどんな民族なのかを理解してもらうために海外の人向けに書かれたもので、この本の中で取り上げている日本人は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名である。
トップに取り上げられているのは西郷隆盛さん(以降西郷さん)である。
内村氏は西郷さんを「新日本の創設者」とタイトルをつけている。私も含めて多くの人はこの西郷さんがいなかったら今日の日本はなかったと思われているだろうから、内村氏に賛同されると思う。
西郷さんの銅像は東京上野公園にあるが、普段はあの通りの服装で、薩摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけであったという。
その本で紹介されていた西郷さんのエピソードだが、あるとき宮中の宴会に招かれ、いつもの薩摩がすりで出席した。宴が終わり、退出しようとしたが、入り口で脱いだ下駄が見つからなかったという。そのことで、だれにも迷惑をかけたくなかったので、はだしのまま、しかも小雨の中を歩き出した。城門にさしかかると、門衛に呼び止められ、身分を尋ねられた。いつもの普段着のまま現れたので怪しい人物と見なされてしまった。名前を問われて「西郷大将」と答えたが、門衛はその言葉を信用せず、門の通過を許してくれない。そのため、西郷さんは雨の中をその場に立ち尽くしたまま、自分のことを門衛に証明してくれる誰かが出現するのを待っていた。やがて岩倉具視大臣を乗せた馬車が近付いて来た。ようやく裸足の男性が陸軍大将の西郷さんであることが判明、岩倉大臣の馬車に乗って去ることができたということである。
西郷さんは恐らく門衛には責任が及ばないように言い足してその場を去ったと思う。
西郷さんは人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしなかったという。人の家を訪問することはよくあったが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったまま、誰かが偶然出てきて、自分を見つけてくれるまで待っていたという。
この西郷さんは「気が利かない人」かというとそんなことは決してない。周りの人に迷惑をかけないという気配りをする、本当に「気が利く人」である。
もう一人、『気が利く人』というより『気配りの人』といったほうが適切かもしれないが、数年前、惜しくも亡くなられた元横綱大鵬さん(以降大鵬関とさせていただく)の話を紹介させてもらう。
大鵬関が1969年の春場所で平幕の戸田という力士に敗れたことがある。大鵬関はそれまで45連勝しており、その記録が途切れることになった。この相撲は戸田関が立ち会いから大鵬関を一方的に攻めて土俵伝いに体を残そうとする大鵬関は右にはたいた。体が前に落ちた戸田関はそのまま押し込み、体を浴びせるようにして大鵬関を押し出した。行司の軍配は大鵬関に上がったが、物言いがつき、差し違えで戸田関の金星となった。だが、大鵬関のはたき込みの際、戸田関の足が出ていたのを勝負審判が見落としていたことが、後で判明した。「世紀の誤審」と騒がれたが、大鵬関は「横綱である自分がああいう相撲を取ったのが悪い」と言い続けた。戸田関は間接的に大鵬関のその言葉を聞いた。大鵬関が自身への反省としてそのように語り続けたことに対して「そういってくれることで(気持ちは)楽にもなれた」と語っている。
大鵬関は2008年5月23日発売の週刊朝日の『昭和からの遺言』の中で、ロシア人の父と日本人の母との間に生まれた自分は子供の頃は「アイノコ」といじめられた過去があることを話し、21歳3カ月の史上最年少(当時)で横綱になった時の決意を次のように述べている。
「21歳で横綱に推されて、口上を述べた時、私はやめることを考えていた。うれしいというよりも、これから先が大変だという思いのほうが強かったんだね。年齢なんて関係ないですよ。21歳の若造だろうが、横綱になった以上は言動に責任を持たないといけない。地位を与えられたなら、それ相応の知識も身に付けなければいけない。もちろん横綱としての成績をあげることができなかったら、やめるしかない」
大鵬関はその言葉どおり、中曾根総理大臣を始め政財界のトップの方々に可愛がっていただき、その道で苦労された方から大学で学ぶ以上のことを教わったという。
大相撲に関心のない人には興味が持てないかもしれないお話を長々と記述して申し訳ないが、「横綱にふさわしくない相撲を取った自分がいけない」と言って勝負審判を恨むようなことを一言も言わない大鵬関は本当に「気が利く人」と言える。
10数年前に出現したかと思うが、「アベノミクス」というよく分からない政治が出現して、経済至上主義になってきて、日本国がどんどんダメになって来ているような感じがするが、どんな時代になっても人間が主役であることは間違いない。
今や、何かあった時、自分の言動が周辺の人にどのような影響を与えるかをもよく考えて、周りに迷惑をかけないような行動を取る人が求められている。
私の書いた原稿が何かの参考になって、周りの人達をほっとさせる「気配りのできる人」が輩出することを願ってやまない。