2017年06月14日

忘れられない6日間


 そうそうあるものではないが、予期せぬ出来事に遭遇して、必死になって頑張って何とか切り抜けたという体験を持っている方も結構いるのではないかと思う。
 少し前になるが「13デイズ」という映画があった。キューバに核ミサイルが配備されていることを巡って米・ソが対立し、当時のアメリカ大統領であるケネディ及び彼のスタッフの苦悩の日々をドキュメンタリータッチで描いたものであるが、そんなに大袈裟なものでなくても、人には後になって考えてみると、「あの時は大変な思いをしたなぁ、よくがんばったなぁ」と思い出す忘れられない日々が多かれ少なかれあるのではないかと思う。
 記憶が少し薄れた部分もあるものの、私にとってあの時はよく頑張ったなぁと思い起こすのは、今から38年前の昭和54年の3月16日から21日までの6日間である。
 この6日間がどういう日であったかというと、当時、私は千葉県木更津にあるソニーの子会社に勤務しており、その勤務先の社長であった鳥山寛恕さんという方が亡くなられて、社葬を含む葬儀の実質的な責任者を私が務めた日々である。
 3月16日の朝、鳥山さんからいつもの通り「迎えにいくぞ」という電話があって、鳥山さんの運転する社長車の助手席に乗って会社に向かった。鳥山さんは私の勤務先の社長であり、本来ならば私が迎えにいかなければならないが、当時も今も私は車の運転免許は持っていなかった。また、鳥山さんは体裁を気にする人ではなく、私は私で社長に迎えに来てもらうことを遠慮するという普通の神経の持ち主ではなく、ごく当たり前のように社長に迎えに来てもらっていた。
 車中で前日にあったことを報告している間に会社に着いた。
 しばらくしたら社長室にいる鳥山さんから内線電話が入った。「女房から電話があったがウチの犬が今朝から行方不明だと言うんだ。変な話だよ。ところで今日は大丈夫かな?こんな天気だから見合わせてくれたらありがたいなぁ」と言う。
 この日はソニー本社から、当時副社長であった大賀典雄さん他二人の役員がヘリコプターに乗って工場見学に来ることになっていた。鳥山さんがこんな天気と言ったのはこの日は朝から風が非常に強かったことを指している。
 「まあ仕方がないか、俺はヘリの迎えに出るから後はよろしく頼む」と言って電話は切れた。これが鳥山さんと交した最後の会話である。

 自分の席にいて書類に目を通していると、部下の一人であるSさんが私の席に走って来て「今井さん、大変なことになった。社長が死んじゃった」と言う。私は一瞬、社長というのは大賀さんのことかと思った。乗ってきたヘリに事故があって着陸ミスが生じたものだと思っていたら、そうではなく、亡くなったのは迎えに出た鳥山さんであると言う。
 ヘリが折からの強風にあおられて不自然な形で着陸、ヘリの後部から煙が出ているので、中にいる大賀さんを救出しようと迎えに出た鳥山さん以下の人達がヘリに近付いたところ、それまで静止していたヘリのローターが動きだし、先頭の鳥山さんの頭を強打したということである。
 救出作業の先頭の立ったのが部下達ではなく鳥山さんであったというのが常に率先垂範をモットーにする元陸軍士官学校出身の鳥山さんらしい。
 鳥山さんの他に迎えに出た役員と総務部員の3人が負傷して病院に行くことになった。
 ヘリコプターに乗ってきた大賀さんも怪我を負っていたが、命には別条なさそうなので近くの病院に運んだ。私にとっては大賀さんの容体はどうでもよくて問題は鳥山さんが亡くなられたことへの対応であった。鳥山さんが亡くなったという悲しみにひたる間もなく、総務部長である私の元には「木更津警察署の方が見えました」、「消防署の方が見えました」、「監督署の方が見えました」という具合になぜこのような事故が起きたかという事情聴取の来客が押し寄せてきた。さらにマスコミから立て続けに電話が入り事故原因と亡くなった鳥山さんの略歴を教えてほしいという。蜂の巣を突っついた騒ぎというのはこのようなことをいうのだろう。
 最高指揮官はいなくなり、三人いる取締役の内、一人は負傷者で病院に搬送されており、残った取締役もこの場面ではリーダーシップを取るのは難しい、ここでは私が司令塔になるしかないと不遜にも考えた。
 そして、私はこの混乱している状況下で何から着手したらよいかを冷静に考えた。あれこれやらなければならないことを書き出してみた。それらの中で自分がやらなければならないことと他の人にやってもらうことに分けた。自分がやらなければならないことに優先順位をつけた。自分がやらなければならないことの中で最も優先順位が高いことは、鳥山さんが亡くなられたことを東京の自宅にいる奥さんに伝えることである。
 「ご主人は亡くなりました」とストレートに告げたらショックが大きいだろうと考えて、私は「大怪我をしたので大至急来てほしい」と告げた。「本当なの?冗談でしょう」と言って私の言うことを素直に信用してくれない奥さんをなんとか説得して来てもらうことにした。

 司令塔を務める覚悟はできたが、経営トップが突然死去した場合、何をやるべきかについてのノウハウを私はまったく持ち合わせていない。
 危機に際しては「司令塔はむやみに動いてはいけない」ということをものの本で読んでいたので、この時は極力動かず、電話で関係者にやっていただきたいことを依頼した。
 途中で取締役製造部長のMさんが来て「今井さん、社長が亡くなったことが現場に伝わり、泣いている人がいるがどうしょうか? 作業をストップした方がいいかな?」と言う。
「いや、作業はストップしないで下さい。鳥山さんも自分が亡くなったからといって作業がストップするのは望まないはずです」と私は言う。
 後でよく考えてみれば、コンべアを止めて3分でも黙祷をするべきだったと思う。
 次いで、取締役経理部長のYさんが、「今井さん、ソニー本社から社葬はいつになるかという問い合わせが来ているがいつにしますか?」と言う。「そんなこと今、分かるわけがないでしょう。『後でご連絡します』と言っておいて下さい。私に相談する前にもうすこし自分でも考えて下さい」と興奮している私は自分より上位の者にとんでもないことを言う。
 実に生意気な対応であった。日頃から生意気であったが、この時は頭に多少血が上っていたのでより生意気な対応をしてしまった。
 社葬は21日に行うことにして、社葬の具体的なことは鳥山家の葬儀が済んでからゆっくり考えればよいということにした。この日、私がやるべき仕事は鳥山家としての葬儀に全面的に協力することであると考えた。午前中から午後にかけて昼飯も食べないで事故の後片付けに終始し、夕方になって東京の世田谷にあった鳥山さんの自宅にお伺いし、葬儀の打ち合わせをした。
 終わったのは夜の10時過ぎであった。同僚の荒木さんに自宅まで送ってもらったが、家に着いたのは12時を過ぎていた。
 翌17日はソニー本社の会長の故盛田昭夫さんが従業員の動揺を静めたいということでわざわざ工場に来て挨拶されるというので、自宅をいつもより早く出た。
 この盛田さんは当時、相当忙しかったはずだが、その人が翌18日の葬儀の時もずっと式の終わるまで参列されたのにはびっくりすると共にこの人は凄い人だと思った。
 この葬儀についてソニー本社の皆さんと打ち合わせした際、当時、ソニー本社の総務部長であった若尾さんという方が「私共は今井さんの指示に従うから遠慮なく何なりと申し付けて下さい」と言ってくれた。スタッフは絶対的に足りないのでその言葉に甘えることにして、全面的な協力をお願いしたが言葉どおり惜しみない協力をしてくれた。
 18日夕刻に行われた葬儀は九品仏にあるお寺で盛大に行われたが、私は葬儀の司会役を務め、終了後、参列者にお礼の挨拶をして、深夜、千葉にあった自宅に戻った。
 翌19日、出社してすぐ、社葬の準備に取り掛かることにした。
 社葬は木更津市民会館を借りて行うことにしていた。祭壇を飾る菊花の準備、取引先への連絡、読経をしてもらうお坊さんの手配等色々やらなければならないことがあるが、それらは部長クラスにそれぞれ役割を分担してもらい、準備をしてもらうことにした。
 こんなことは初めてのことであり、多少の意見の対立もあってもめる場面もあったが、「亡くなった鳥山社長に恥をかかせることだけはしないようにしよう」と申し合わせてそれぞれに頑張ってもらった。
 社葬当日は前日までの雨天がうそのように晴れて、約2000人の方に参列いただいた。
 式自体は多少のハプニングはあったものの、なんとか滞りなく終えることができた。
 この社葬も自分が司会進行役を務めた。式が一通り終わって鳥山さんの奥さんを始め参列いただいた関係者をお見送りして、ほっとしたところで、鳥山さんは本当に亡くなってしまった、もう二度と謦咳に接することはないという思いから、悲しみの涙が鳥山さんの死亡の報告を受けてから初めて私の頬を伝わって落ちた。
 悲しみの涙はその報に接した時に流れるものではなく、悲しみに関わることが一通り終わってほっとした時に涙は出るものだということをこの時初めて経験した。

 社葬が終わって、会社に戻り、自分の席で女子社員が入れてくれたお茶を飲みながらしばし鳥山さんとの思い出にふけった。
そして、次は何をすべきかを考えていたところ、取締役経理部長のYさんが来て、私に次のようなことを言う。
「ソニー本社に管理職一同でお礼の挨拶に行こうと思うが………」
 「なぜ、お礼の挨拶なの?」
 「あれだけ立派な葬儀ができたのも本社のおかげだ。お忙しいにもかかわらず岩間社長 を始め沢山の方にご参列いただいた。費用も本社がすべて持ってくれるのだからお礼を 申し上げるのは当然だと思うが………」
 「お礼の挨拶だったら葬儀の終わった後に申し上げているし、そもそもこのようなこと になった責任はソニー本社にあるのだから、このくらいの配慮をするのは当然ではない ですか」
 「それは違うよ。お世話になったらお礼の挨拶に行くのが常識だ。今井さんが行きたく ないのなら私達だけでも行くがそれでもいいか…………」
 「どうぞ勝手に行ってください。管理職が一人もいないのも具合が悪いから私は留守番 をします」
 ということで、私を残して管理職全員がソニー本社にお礼の挨拶に出かけた。その人達を見送ることもなく、私は事故現場に向かい、もう言葉を交わすことは永遠に叶わない鳥山さんの霊に問い掛けた。
 「お礼の挨拶に行くのはおかしいと思った私の判断は間違っていますか?」と。
 答えはもちろん返ってこなかったが、想像するのに次のような言葉が返ってきたのではないかと思う。
 「間違っているとは言わないが、お礼の挨拶に行った方が無難だぞ。でもお前が自分の主張が正しいと思うならそれはそれでいいが、しかし、これから先も、この会社でそんなに肩肘張って生きていくのは大変だぞ」と。

 この後、実の息子のように私を叱ってくれた人がもうこの世にいないという寂しさをひしひしと感じながら今は主のいなくなった社長室に入った。
 鳥山さんの机の上にキーホルダーがあった。キーはご家族がすべて抜き取ったものと思われるが、鎖だけのキーホルダーが残っていた。何か一つくらい遺品としていただいても鳥山さんだったら許してくれるだろうと勝手に考えてそれをいただくことにした。
 
 一連の葬儀すべてを終えて我が家に戻り、お風呂にゆっくり入り、上がったところで、体重を測ったら68キロあった体重が63キロと6日間で5キロもやせていた。
 この6日間は周りの人達に頼りにされて、常に自分がしっかりしなければ駄目だと言い聞かせ、寝食を本当に忘れて頑張った日々であった。
 後にも先にもこんなに頑張った日々はこれまでなかった。我ながらよく頑張ったと思う。
 誰も褒めてくれなかったが、ひょっとしたら故人となった鳥山さんは「お前にしてはよくやった。今までお前を褒めたことはなかったが、今回だけはちょっぴり褒めてやろう」と言って最初で最後のお褒めがあったかもしれない。
 私にとって、初めて経験した「危機管理」であったが多くのことを学んだ。
 一つは司令塔はみだりに席を動いてはいけないということである。
 二つ目はあれこれやらなければならないことがあったとしても、どれから着手するかという優先順位をつけてから行動に移ることである。
 三つ目は自分一人で頑張るのではなく、関係者に役を割振り、大まかなところは指示するとしても、細部はその人達に任せることである。
 つらかったが、貴重な経験をさせてくれた6日間であった。

 なお、鳥山さんが亡くなる寸前、心配していた犬はとうとう戻ってこなかった。
 犬は予知能力が優れているそうだが、鳥山さんが可愛がっていた犬も主人の危険を察知して家を飛び出し、世田谷から木更津に向かう途中で行方不明になったものと思われる。
 机の上から勝手にいただいた鳥山さんのキーホルダーはあれから38年経った今でも私はお守り代わりに愛用している。                         
posted by 今井繁之 at 15:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

 秘すことの恥ずかしさ

 

最近、「テロ防止法案」とかいって、戦前の治安維持法を復活させようという動きがあるが、わざわざそのようなことをしなくても、今だって少しでも政府に物申す人には警察の警備課の皆さんが隠れて見張りをしていると思うので、何故強引に法案を通そうとしているかよく分からない。
今度は白昼堂々と見張りができるようにしたいと思っているのかもしれない。しかし、思想・信条の自由を侵す憲法違反のこのような行為は止めるべきではないかと思う。
何故、警察が私達一般人を見張っていると思うかというと、私には次のような経験があるからである。
 私のサラリーマン時代の最後の勤務先は埼玉県坂戸市にあった「ソニーボンソン」という会社であった。この会社はそれ以前に私が勤務していた千葉県木更津市にあった「ソニー木更津」同様、ソニーが100%出資している会社であった。
 「ソニーボンソン」という会社は今は消滅?してしまったが、当時大ヒットしていた「ウォークマン」を生産していた。
 この会社に赴任してしばらくしたら、前任地の木更津市ではなかったことだが、坂戸市のこの会社には近くにあった警察署の警備課の課長や係長が、月に1回ぐらいの割合で、人事・労務の責任者である私のところに「おたくの社員の○○が民青の集会に参加しています。彼は要注意人物です」などと言って来た。
「どうしてそんなことが分かるのですか」と聞くと、自分たちは民青の事務所を四六時中見張っていると言う。
 この話を聞いて、びっくりした。戦後しばらくの期間ならそのような警戒も必要だったかもしれないが、この当時の日本共産党は合法政党として堂々と活動しているのだから、そのように監視する必要性はないのではないかと思ったからである。
 今でもそのような行為は行なわれているのではないかと思う。

 それはともかく、警察の方から「はい、わかりました。わざわざお知らせ下さってありがとうございました」ともっともらしく聞いている自分にも嫌悪感を抱いた。なぜかといえば、この当時、私の弟は警察の敵?である日本共産党の党員、それも長野県委員会の委員長を務めていたからである。
 人間誰しも、隠し事の一つや二つあるものである。しかし、そこに自分のエゴが見えて嫌になることがある。弟が日本共産党の党員であり、幹部として活躍しているという事柄はその一つであった。
 正直言って、サラリーマンをしている間は、弟のことを堂々と公にすることを避けていた。何故かというと、今でこそ共産党をアカ呼ばわりして、あからさまに排除しようとする傾向は少なくなってはいるものの、でもまだ、共産党の党員を危険思想の持ち主として近寄らない方がよいと考える人がいる。
 私自身は共産主義に賛同していないし、日本共産党に対してもそれほど親近感を持っていない。しかし弟については、子供のころから助け合って生きてきた血を分けた兄弟であり、共産主義者であろうとなかろうと、そんなことに関係なく親しくしている。
 弟は自分の信念に従って生きているのだから、彼の人生について批判をする気もない
 彼は彼、私は私である。弟のことを隠す必要などないということは理屈ではわかっていたが、心のどこかに共産主義賛同者と見られて不都合なことが起きるのではないか、自分の会社人生にマイナスに作用するのではないかと危惧をしている自分がいた。
 共産党員や民青加入者を見張っていて、「注意した方がよい」と忠告して来た警備課の方に、「私の弟は共産党に入っていて、県の委員長をしています」と言ったら、びっくりして腰を抜かすまではいかないにしても、すぐにソニー本社に連絡をして、「あのような危険な人物を会社の人事・労務の責任者にしておくのはよろしくありません。しかるべき処置をしてください」と言ったに違いない。
 今思えば、たとえ、どのような処置を受けようと、正々堂々と胸を張って弟のことを語ってもよかったのではないかと胸が痛む。
 なぜ、正々堂々と弟のことを語れなかったのかというと、自分自身に自信がなかったからである。弟のことを正直に語ることによってすでに得ているものを失うかもしれないという姑息な考えがあったからである。

 サラリーマン生活に別れを告げて、誰からもあれこれ言われることのない研修講師の仕事をするようになった今の私には、何も秘する必要はなく、問われれば隠すことなく「私の弟は日本共産党の専従で、日本共産党長野県委員会の委員長をしています」と堂々と言える。これは精神衛生上、非常によい。
 面白いことに、弟のことを正直に言うことによって、私の評価が高くなるようなことがあった。
 私の大学時代の級友であるI君は大学卒業後、郷里の宮崎県に戻り、地元の放送局に勤めていたが、周囲の人に推されて組合の委員長となった。そんな関係もあり、共産党との接点もあったのだと思うが、私が弟のことを話すと「弟さんが共産党員とはびっくりだ。今井君は凄い人間だったのだ。自分は人を見る目がなくて申し訳なかった」と言われて面映ゆく感じたことがある。
 さらに私は大学時代に社会福祉研究会というクラブに所属していたが、その研究会の一年後輩で、大学卒業後、印刷会社に入社したM君と何十年振りかで会った時、彼の会社が共産党の機関紙を印刷しているということから、彼に弟の話をすると、彼は「本当ですか?今井さんも共産党ですか?」と言う。「俺は違う」と言ったが、M君は「今井さんは凄い人だったのですね、いやぁ失礼しました」と言って、私に対する態度が大変丁重なものに変わった。
 もう一人、私を高評価してくれた人に、私が15年間勤務していた「ソニー木更津」という会社で私の直属上司をしていて、同社を退職後、税理士事務所を開設して税理士の仕事をするようになった伊藤さんという方がいる。その伊藤さんに、何のきっかけだったか忘れてしまったが、弟のことを話したことがある。すると伊藤さんは「それは知らなかった。実は私は日本共産党の党員だ。弟さんが共産党の長野県委員会の委員長をしているなんて、君はたいしたものだ。そうだったのか。それは大変お見それいたしました」と感服したように私に頭を下げる。
 弟は自分の思想・信条に忠実に生きており、私は単にその弟の兄であるというだけで「あなたは凄い!」ということになってしまった。
 私が何か凄いことをしたわけではなく、弟が世の中を変えようと必死に頑張っているだけである。
限られた一部の人だけだが、弟の日本共産党長野県委員会の委員長という肩書きはテレビドラマの水戸黄門の印籠のような効果があったというわけである。
                 
 私と弟は貧乏だった少年時代、共に新聞配達をしたり、納豆売りをしたり、鉄クズ拾いをしたりして家計を支えた。
 弟は中学を卒業してオリンパス光学という会社に入社、職場の先輩に勧められて、日本共産党に入党、若くして日本共産党の専従職員となり、それ以来共産党一筋で70歳近くまで長野県委員会の委員長を勤めた。
 功利の世に、名誉も金も求めず、私たちが少年時代に味わったような貧しさを追放するべく、日本共産党がそれを実現してくれると信じて、ドンキホーテのように生きている。
 私は彼の生き方を素晴らしいと思っており、それは私だけでなく、昨年亡くなった兄も私とまったく同じような思いで彼を見守って来た。
弟と私は二つ違いで、弟の下に妹が二人いるが、二人共、弟の純な生き方を誇らしく思っている。
 私は日本共産党の綱領を読んだこともなく、思想的にも共鳴しているわけではないが、弟を全面的に信頼しており、変な言い方かもしれないが彼をこの世で一番尊敬している。
 選挙権を得て以来、衆・参議員の選挙で共産党以外の党に投票したことは一度もない。
 これは私の弟に対するせめてものエールである。
 人を殺めるようなことをしない限り、本人が信念を持って生きているのであれば、それはそれで結構なことであり、その生き方は尊重されるべきである。
 そして、私の弟のように当人が信念に持って生きているのであれば、身内の人間はそれを恥じることもなく、秘する必要など、まったくないことは言うまでもない。
 一時期、そのようなことがあったことを今では大変恥ずかしく思っている。
それと冒頭に触れたように、今、「テロ防止法案」という名称で、個人の思想・信条を監視して、少しでも政府の意向に逆らう人間は逮捕するという戦前の暗い時代に戻そうという動きに歯止めをかけなければならないと強く思っている。
posted by 今井繁之 at 15:18| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする