2017年08月31日

小さいからできる


 私は富山県庁から県庁職員を対象に問題解決・意思決定力強化の研修を行って欲しいと依頼されて、毎年富山市に行っている。
 今年も7月に行ったが、今回は行ったついでに富山市の隣にある舟橋村という小さな自治体にお伺いした。
 なぜ、舟橋村に行ったかというと、この村は全国で一番面積が小さいにも関わらず、人口・世帯数がどんどん増えていることと、年少人口(全人口に占める15歳未満の人口割合)が何と日本で一番高い(21.8%)ということに興味を持ったからである。
 何のアポイントもなしに舟橋村役場を尋ねて、名前と職業を名乗った上で、「この舟橋村はなぜ人口・世帯数が増えているのかが知りたくて来ました」と話すと、「村長がおりますがお会いになりますか」と言われる。それは有り難いということで図々しくもお目にかからせていただいた。
 応接室でお会いした村長の金森勝雄氏は「今、出かけるところで時間は十分取れないが少しだけでよかったらどうぞ」と言われて、大略、次のようなことを話してくれた。
 20年前には当村の人口は1000人を割りそうになったが、今は3000人を超すようになりました。なぜ人口が増えたかというと、舟橋村は市街化調整区域から外れて住宅を建てることができるようになったからです。ここから富山市の中心に車で15分あれば行けるということで富山市のベッドタウンになりました。
 村の面積が3.47㎞なので、小学校・中学校が一つづつ、隣り合わせにあり、舟橋小学校を卒業した子供は当然舟橋中学校に行くことになります。村役場の周辺に消防署、村民会館等、保育園等公的施設が集中してあり、村民の方が用を足すのに何かと便利です。
 富山地方鉄道の越中舟橋駅が近くを通っており、富山駅まで15分と通勤に便利です。
 この駅の二階には村立図書館があり、図書館カードの発行枚数は村の人口の6倍の18,000人です。近郊の方がこの図書館を利用していることになります。住民一人当たりの図書の貸出冊数は32冊(年間)、これは日本一です。
 遠くには富山の山々がありますが、村内には大きな山も川もありません。よって土砂対策費も河川修理費も不必要です。
 毎年、富山市からこの舟橋村に転居してくる人がおり、それ以外にも子育てによい環境ということで人口は年々増える傾向にあります」
 小・中学校がそれぞれ1校しかなく、それも隣接してあるので小・中学校一貫教育ができます。村の面積が狭いから木目の細かい行政サービスができます。公的施設の連携もスムーズに行きます。これはすべて小さい村だからできるのです」と最後に言われた。
 公立学校でも中・高一貫教育をしているところはあるが、小・中学校一貫教育は少ないかと思う。小学校一つ、中学校一つという小さい村だから実現できたのだろうが、だからといって全国には舟橋村と同様の自治体があると思うが、小・中学校一貫教育に取り組んでいるところが果たしてあるだろうか?
 舟橋村の行政担当者が小さいことをマイナス材料と考えず、むしろプラスの材料に変えるべく工夫しているところに人口・世帯数が増えている理由があると私には思えた。

 「小さい村だからできる」という言葉を聞いた数日後、東日本大震災で多大な影響を受けた地域の復興振りを伝えているNHKのテレビ番組の中で三陸岩手の住田町の町長多田欣一氏が同じような言葉を語っているのを見た。
 「住田町」を知っている人はあまり多くはないかと思うが、私は住田町、大船渡市、陸前高田市の二市一町で形成する『気仙広域連合』というところから研修を依頼された関係でそれぞれの市と町にお伺いしている。開催会場は回り持ちということで初年度は大船渡市、二年目は陸前高田市、三年目は住田町だった。大船渡市に最初に行った時、帰りは車で東北新幹線の水沢江刺駅まで送ってもらったが、車に乗っていること約1時間、両サイドは森また森で、人家らしき明かりはまったくなかった。運転してくれている人が「ここが住田町です」と言われた。
 そのようなことで住田町は広大な面積の森林の町であるとのイメージが焼き付いていた。
 テレビ番組の中でその住田町が津波や地震で自宅を失った住民のために木造の仮設住宅を建設したと報じていた。その番組を見ながら海岸に接していない住田町に津波で自宅を流された人が果たしていたのかと疑問に思った。
 津波の直接の被害を受けなかったと思われる住田町がなぜ仮設住宅、それも木造の仮設住宅を作るようになったかというと、大津波の発生によって近隣市の陸前高田市、大船渡市、釜石市に甚大な被害が発生し、親類等を頼って住田町への避難者が600人を超え、町役場の災害対策窓口には住宅に関する問い合わせが数多く寄せられたからだという。
 住田町は森林・林業日本一であり、さらに町の財産である森林を利用した仮設住宅建設はできるという。
 そうはいっても、自然災害等に遭って仮設住宅が必要になった際、仮設住宅を建設する権限?は都道府県知事にあり、県が建物を提供するのが原則であり、市町村が勝手に建設してはいけないという決まりがあるということである。
 仮設住宅を必要とする市町村長が県に申請して、認可されたところで、市町村が県からの発注を受けたという形で、設計や入札、議会の議決など様々な手順を得て、建設に移らなければいけないそうだ。建設までには相当な時間がかかるのが通常であるという。
 しかし、住田町の近田欣一町長は「義を見てせざるは勇無きなり」と考えられたかどうかは定かではないが、近隣の市から住田町に避難してきた人達のために、前述の手順を全て無視して、「専決」という町長の意思で契約できる、議会にかけないやりかたで仮設住宅を建設することにした。だから住宅建設はスピーディに進んだ。
 町長は震災の10日後くらいに町議会議員全員を集めて「専決」でやることにしたと話して了承してもらった。その際、議員から「町長やってくれ。ただしやるからには、『住田町は出し惜しみをした』と言われないように、『よくやった』と言われるようにやってくれ」と言われたと話す。
 予算額は約2億5千万円、町有地に110棟を建設、いずれもプライバシーを守れる一戸建てであり、かつ町産材(主にスギ材)をふんだんに使用した木のぬくもりを感じることのできる建物であった。
 住田町は今回の震災の発生する以前から町の基幹産業である木材を使用した仮設住宅を建設するという構想があり、その準備もできていたという。町長の要請に町内の建設業組合の千田組合長以下の組合員の皆さんが総力を挙げて協力してくれて、独自に工夫した半日で建設が可能な工法でまたたく間に木造の仮設住宅を建設した。それもプレハブの建設費より低価格で建設したという。
 番組の中で近田町長は「小さい町だからできた」と語っていたが、その町長の言葉は人口約6千人の町なので、町議会議員の数も少なく、議員の皆さんとは意思疎通が容易にでき、さらに建設業組合の皆さんとも日頃から大変親しい関係ができていたことを指しているかと思う。
 この住田町の仮設住宅の建設で素晴らしいと思ったことは、仮設住宅の建設は都道府県知事の認可が必要という絶対条件(MUST)をクリアできる方法はないかと必死になって探して、緊急事態の場合は「専決」という抜け道?があるということを見つけたことである。
 住田町の事例は昨年の熊本市や今年の福岡県の朝倉市で活きたと思う。

 「絶対的制約条件(MUST)はあっても、頭を使って必死に考えれば、それをクリアできる方法はあるものです」ということを私の知り合いの自治体の首長から聞いたことがある。
 それを私に語ってくれたのは栃木県宇都宮市の隣にある高根沢町の町長をしていた高橋克法氏である。
 私が「自治体の首長、それも規模の小さい市町村の首長は権限は少なく、絶対守られなければならない制約条件(MUST)が多く、ご苦労されることが多いでしょう」と話した時に高橋町長に言われた言葉が前述の「頭を使って考えればMUSTをクリアできる方法は見つかるものです」というものである。高橋町長は「役人はMUSTをやりたくない言い訳に使っていることが多い。何としてもやろうとしたらMUSTをクリアできる方法は見つかるものです」と言う。
 高根沢町は町を挙げて循環型農業を目指して、分別回収した「生ごみ」を原料として有機肥料を製造販売している。そこに至るまでの間にいくつかの絶対的制約条件(MUST)があったと思うが、それをクリアできる方法はないかと必死に考えて実行に移した。
 ごみの分別回収は町の皆さんに協力してもらわなければ実現できない話であったが、町長自身が反対派のいる町内会の集会に出かけて、「なぜ分別が必要なのか」を説いて回ったという。一度行っても説明に納得いただけなければ再度行き、それでもダメであれば更に行くという熱意が実って最後には町民の大多数の方のご理解を得て分別に成功したということである。
 私は高橋町長からの依頼で、高根沢町には5回ほどお伺いして、町役場の職員約100名に問題解決・意思決定力強化の研修を行わせてもらった。
 高橋氏は町長を3期務めた後、栃木選挙区から自民党公認で参議院議員に立候補、当選して現在は自民党参議院議員である。
 高橋氏に確認していないが、循環型農業が実現できたのは住田町の近田町長と同じく 「小さい町だからできた」と言われるのではないかと思う。

 平成の大合併で、「大きいことはいいことだ」ということで、小さな自治体は大きな市・町と一緒になったケースが多い。でも今回紹介した自治体のように、小さな自治体であっても、首長を始め職員が頭をフルに使うと活路が開けるということを申し上げたい。






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2017年08月19日

「明日を考えて今日を生きる」

  
 以前は家電メーカーの生産拠点は国内に相当な数があったが、今は各社ともコストの安い海外に移転してしまい、国内の生産拠点は激減してしまった。
 私がお世話になったソニーも例外ではなく、エレクトロニクス事業の生産拠点は一頃は確か20数か所あったかと思うが、現在の生産拠点は神奈川県の厚木市以外に愛知県の幸田町、稲沢市、静岡県の湖西市、千葉県の木更津市の5か所である。
 千葉県の木更津市にある生産拠点は私が1967年から1983年の16年間勤務した会社である。
 この会社の前身は「桜電気」という名称の会社で、この会社の創業者であった鳥山寛恕さんがソニーの創業者である井深 大さんと知り合いであった関係で、ソニーのラジオ生産のお手伝いをするようになった。そのうちにソニーが資本参加するようになり、私の入社した当時はソニーが90%の株を所有しており完全な子会社であった。
 前述した厚木市、幸田町、稲沢市、湖西市にある事業所はソニーが設立した会社であり、江戸時代であれば親藩ともいうべき会社であり、私が勤務していた木更津市にあった「桜電気」(その後、「ソニー木更津」という名称となる)だけが外様の会社であった。
 桜電気と同じような経緯でソニーの子会社になった外様の会社は私の知っているだけで10数社あったが、中国を始め東南アジア各国に生産拠点が設立されるにともない、いずれの会社も途中で閉鎖・解散・消滅という運命をたどった。
 なぜ、外様の会社の中で「桜電気」だけが生き残ったのか?
 私の独断かもしれないが、それは経営者の差であったのではないかと思う。

 私が入社した1967年、この会社は社長である鳥山さんの判断で設計開発部門をスタートさせた。それまではソニー本社から設計図を渡されて、この通り作ってくださいと言われたものを生産して売上を上げていた。
 ラジオの受注は右肩上がりで、生産部門の業績は順調だったが、設計開発部門は赤字部門であった。私はこの会社で当初は経理部門に配属になっていたので、赤字であることはよく分かっていた。
 10人近くの技術者が設計開発の業務に従事していたがそう簡単に優れた製品を設計開発することはできなかった。その状態は数年続いた。
 私には「金食い虫」ともいうべき設計開発部門をなぜ抱えているのかが分からなかった。 ある時、社長である鳥山さんと夕食を共にする機会があった。酒の勢いを借りて、私は鳥山さんに「赤字の設計開発部門を抱えているのはなぜですか?」と聞いた。
 すると鳥山さんは「本社から指示されたものを低コストで生産しているだけでは技術力は向上しない。いつ本社から縁切りされるかもしれない。でも設計開発部門があり、独自の製品を開発して本社に提案できるようになれば、そう簡単に切られることはない。今、設計開発部門は赤字だが、そのうちに必ず黒になる。儲かるようになる。今日に満足していたらいつか限界が来る。順調な時こそ、明日のことを考えなければいけない。俺は会社の明日を考えて設計開発部門をスタートさせたのだ」と言う。      
 「明日を考えている」と言われて、なるほどと思った。
 子会社化された外様の会社は、当初はその会社の創業者に経営を委ねていたが、それらの人の多くはソニー本社から要求された生産量を確保することに汲々としているようであった。鳥山さんのように会社の明日の姿を考えて設計開発部門を自社に抱えようと考えた人はいなかった。
 「桜電気」の設計開発部門は徐々に力をつけて来た。自社で設計開発した製品がソニー本社に評価され、ソニーブランドで自社の工場で生産するようになった。
 社長であった鳥山さんは思いがけない事故で1979年に亡くなり、後継者はソニー本社から来るようになった。鳥山さんが亡くなって数年後、木更津市潮見地区に新たな工場を建設し、それを機に社名を「桜電気」から「ソニー木更津」に変更した。
 その「ソニー木更津」の工場敷地の一角に鳥山さんの記念碑が建っている。
 記念碑を建立してあるのはこの会社の創業者である鳥山さんに敬意を表している表れかと思う。
 鳥山さんが亡くなった後も自前で設計開発部隊を持つというこの会社の路線は変わることはなかった。結果的には他社に差をつけることになった。
 鳥山さんが亡くなってすでに38年が経過したが、いまだに木更津市に生産拠点があるのは、この会社に有能な設計開発部隊がいるからだと思う。
 後年になって、色々なことを学んで来て分かったことだが、経営者の役目は今日の課題を処理するだけでなく、明日を考えて組織をその方向に向かわせることであると思うようになった。

 鳥山さんから「俺は会社の明日を考えているのだ」と言われてなるほどと思ったその日の帰り道、(自分は果たして自分自身の明日のことを考えているか?)と自問自答した。 もちろん「ノー」であった。
 鳥山さんははっきり言わなかったが「お前も明日のことを考えて今を生きたほうがいいぞ」と言われたような気がした。
 その日を境に私は自分の明日を真剣に考えるようになった。
 いつかはこの会社を去らなければならない日が必ず来る。その日が来ることを覚悟して今から何か努力しなければいけない。
 大学を出たものの世の中に出て役に立つような勉強はほとんどしてなかった。この桜電気という極めて居心地のいい会社で能天気にここ数年過ごして来た。これではダメだ、自分の資産価値を向上させなければいけないと考えて、まずは公的資格を取ることにした。
 衛生管理者や社会保険労務士の資格を取得した。中小企業診断士の資格を取得しようと思ったが、今一つ乗り気になれなかった。
 そのうちに、私は人前で物怖じすることなくしゃべることはできるので、研修講師の資格を取得するのも悪くないという思いがして来た。
 そんなことを考えていた矢先に鳥山さんが亡くなった。その時、私は38歳になっていた。鳥山さんのお陰で私は総務部長という陽の当たるポジションにいたが、鳥山さんがいなくなった途端、閑職に回されることになった。
 閑職に回されたお陰で自由になる時間が十分取れるようになった。元々、本を読むのは好きだったが、この機会に以前から読みたいと思っていたビジネス書をむさぼるように読むことにした。さらに、外部の研修団体の開催する研修に積極的に参加した。考課者訓練の研修とか、AIAの研修とかといった研修プログラムを受講して、会社に戻ったところで、従業員に研修を行うことにした。

 この研修講師の仕事は自分に向いていると思っていたところに、ソニー本社からこの会社の責任者として来ていた岩城さんという方から「ソニー本社に異動して、論理的思考による問題解決・意思決定の手法(KT法)の講師をやらないか」という話があった。
 岩城さんには、何かの折に、「今井君はよく勉強しているようだね」と褒められたことがある。そのお褒めの言葉があって、しばらくして、研修講師の話が来た。
 子会社の人間が親会社の幹部社員に研修を行うという異例の処遇であった。
 自分の明日を考えて勉強?していたことが、このような結果に繋がった。
 ソニーでKT法の講師をしたことが、その後の私の人生を決めたのだから、若い時に鳥山さんという経営者に薫陶を受け、その人の「俺は会社の明日を考えている」という言葉を「お前も自分の明日を考えなさい」という意味に受け止めたことのお陰だと思う。
 昨年100歳でお亡くなりになった私の畏敬する『むのたけじ』さんの言葉に「より高く、より遠く跳躍しようとする者は、それだけ助走距離を長くする。現在以後をより高く積もうとする者は、現在以前からより深く汲み上げる」があるが、頭の柔らかい若い時から明日のことを考えて努力していれば、高年になってからあたふたすることは少なく、悠々とまでいかなくてもまずまずの人生は送れると思う。

posted by 今井繁之 at 14:18| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

「人生に無駄なことなどない」

  
 先般、私が講師を務めている明治大学の「再就職を目指す女性達のための講座」に参加していた寺井淳子さん(仮名)という方とお話をする機会があり、彼女から「先生のブログを拝見しました。その中でティッシュを配る人に対する息子さんの態度について、先生が息子さんに注意されている文章を読んで感銘を受けました。私は先生が取り上げた消費者金融の会社に勤めていた時に、街頭でティッシュを配っていました」と言う。
 寺井さんの言われる話は、自分の書いたブログの「私の子育て論」の中で、私が中学生であった息子と連れ立って出かけた時、息子がティッシュを差し出す女性の手を乱暴に払いのけようとしたので「真面目に働いている人に対して君の態度はよくない。あの人達はティッシュを配り終えないと事務所に帰れないのだ。受け取りたくなければ『結構です』と言って黙礼するべきだ」とお説教したことを指している。
 寺井さんはそれを読んで、自分がそのようなティッシュ配りをしたこともあって、私に関心を持ったという。
 皆が皆、私の息子のようにティッシュ配りの人の手を払いのけることはないだろうが、受け取る人より、受け取ることを拒否する、あるいは無視する人が多いかと思う。
 寺井さんは「ティッシュの配付には配付手当金が付いており、受け取っていただけなくてもそれほど心配するようなことはありません。私は消費者金融の会社では色々なことを体験しました。仕事自体は大変厳しいものがありましたが、そこでの体験はその後の人生で大いに生きています。私は、今、契約している会社からの派遣で全国展開しているコンビニ店の『F』の開店がある度に呼ばれて、3日間、開店時の粗品渡しと会員登録の受付を担当しています。他の人より2倍、3倍の会員登録数があり、お店には喜ばれています。
 契約している会社からも大変高く評価されて、おかげで日本全国ほとんどに行くことができました。消費者金融の会社でのティッシュ配りの経験のお陰で人に声をかける、粗品を受け取ってもらうといったことは何のてらいもなくできます。
 この世に無駄になる経験はありません」と言われる。
 「無駄になる経験はない」と言い切る寺井さんは素晴らしい人だと思った。

 寺井さんから「無駄になる経験はない」という言葉を聞いて、同じようなことを言われた人を思い出した。その人は数年前、介護士からプロ棋士になった今泉健司さんである。 昨今、14歳の天才将棋棋士藤井聡太少年の登場ですっかり将棋プームになったが、藤井聡太君ほどではないにしてもプロ棋士になる人は若くしてその資格を取得するのが一般的である。
 ところが今泉健司さんは何と41歳という年齢でプロ棋士になった。この41歳は戦後再年長の年齢ということである。今泉さんは2014年にプロ編入試験に合格し、2015年4月1日付けでプロ棋士になった。
 今泉さんがプロ棋士になるまでの間に紆余曲折の半生があった。
 将棋の世界は厳しいみたいで、プロ棋士養成機関である奨励会に入会しても、26歳までの間に一定の成績を上げないと奨励会を退会しなければいけないということである。
 この今泉さんはライバルが多くて年齢制限(26歳)で退会せざるを得なくなった。  退会後、通信制高校で学び、そこを卒業後、レンタルビデオ店のアルバイトを経て日本レストランシステムで調理師として働いた。奨励会は退会したものの棋士になることはあきらめられず、奨励会三段リーグに参加したが、四段に昇格することはできず、規定により奨励会を再度退会し、将棋好きの社長が経営する証券会社でトレーダーの仕事をすることになった。しかし、その仕事には自分は向いていないことが分かり、そこを退社して郷里福山市に帰り、36歳の時、地元の介護福祉施設で介護士の仕事についた。
 福山市で将棋教室を営んでいた竹内茂仁さんという方から「今泉さんが将棋を捨てるのはもったいない。今までの経験は無駄ではありません」と言われ、介護士の仕事の傍ら、将棋教室の講師を務めながら、アマチュア棋士としての活動を続けたという。
 その今泉さんは介護福祉施設の皆さんの励ましもあり、プロ棋士になる努力を続けた結果、前述したように2014年にプロ編入試験に合格し、見事プロ棋士になった。
 介護の現場で働いたことについて、今泉さんは次のように語っている。
 「介護の現場は自分の将棋に足りなかったものを教えてくれました。最も大きかったのが目上の方々に対する感謝の気持ちです。自分を受け入れてくださる方々に素直にありがとうと言えば、同じようにその言葉が返ってくる。仕事の中でそれを繰り返していくと、入居者の方々との間に信頼関係が生まれてくる。僕は36歳までは将棋以外、何も持っていない人間でした。でもこの仕事によって得た多くの人達との出会いが力となり、将棋に幅ができたような気がしているのです。
 将棋というのは盤上での闘いですが、決して一人で戦っているわけではない、そんな思いが、最後の最後まで気持ちを切らさない力となり、終盤の粘りとなったように思います。 (中略)諦めたことも一度や二度ではないですし、嫌になったことも一度や二度ではありません。そんな七転び八起きの人生でした。でもその41年間という歳月は僕にとって、『人生に無駄なことなどない』と気付くための時間だったかもしれません」
 今泉さんにとって、介護士の仕事だけでなく、レンタルビデオ店でのアルバイト体験、調理師の仕事、証券会社のトレーダーの仕事の経験も今泉さんがプロ棋士になる上で役に立ったはずである。 

 私も12歳の時の新聞配達を皮切りにこれまでの人生で色々な経験をして来たが、「無駄な経験はない」ということは自信を持って言える。
 こんなことはつまらない、こんなことをいくらしていても何にもならないとその時は思ったが、自分の将来にその経験が生きたということが沢山あった。 
若い人に申し上げておきたいが、就職先は自分の望んだところであったとしても、自分が必ずしも希望した職場に配属にならず、むしろ望んでいなかった職場に配属になる場合があるが、その時、不満を持ちながら投げやりな態度で仕事をしてもロクなことはない。
たとえ、自分の意に添わない仕事であっても、与えられた仕事に意義を見出だして、それに積極的に取り組むと思いがけないトクをすることがある。
 以前、NHKでニュースキャスターをしていて、今現在はフジテレビでコメンテーターを務めている、木村太郎さんという方がいる。
 NHKに記者として入社した人はたいてい政治や外交や刑事事件などの華々しい舞台に出たがるものだが、木村さんがNHKに入って最初に担当させられたのは気象庁だった
その関係で「お天気ニユース」の原稿を書く仕事に従事した。
 NHKに勤務していた最後の頃の花形ニュースキャスターとして活躍している姿から想像するに、木村さんも海外からレポートしたり、国会の赤じゅうたんを踏んだり、刑事の自宅に夜討ち朝駆けしたりする仕事に従事できる配属先を希望していたのではないかと思う。しかし、木村さんは「お天気ニュース」の仕事を周りの人が感心する位、生き生きとやっていたばかりか、自分で天気図を書く練習をしていたという。
 木村さんは与えられた仕事の内容が未知のものであり、また難しいものであったので、この機会に勉強しておこうと意欲を燃やしたそうです。
 そして、この時の天気図を書く勉強が後年、取材記者として海底火山の爆発の取材に行った時、天候の急変が予測でき、現場から早く脱出して命を失わないですんだという事につながったということです。
 木村さんのように与えられた仕事に前向きに取り組んでいれば、その時の経験がいつかどこかで生きるものである。
 「無駄になる経験はない」は正しく至言である。





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