2017年10月10日

借りは返せても恩は返せない      

 
 私の好きな作家の一人、袖木裕子さんが書いた『検事の本懐』という本の中で現在、検事を務めている主人公が高校時代に起こした同級生との乱闘騒動時に自分にも累が及ぶことを厭わず主人公を救ってくれた級友の天野弥生さんが恐喝されて困っているとの相談を受け、解決してあげた時に「お前には返さなければならない借りがある」と語り、そして「借りを返せば、恩が返せるわけじゃない」と亡くなった父親の口癖を言おうとして、その言葉は飲み込むという場面があった。
 この「借りを返せば、恩が返せるわけじゃない」という言葉は、本当にその通りだと私の心を強く打った。
 金銭はもちろん、借りたもの、お世話になったことに対して、後日、それ相応のお返しをしたら、それですむかというと、それではすまないことがあるかと思う。
 例えば、苦境に陥り、下手すれば奈落の底に落ちたかもしれないといった時に救ってもらった際の恩は返さなければいけないが、それがなかなか難しい。なぜならば救ってもらったその瞬間は過ぎ去っており、その状況をそっくりそのまま再現することはできないからである。

 人には忘れられない恩義というものが多かれ少なかれ、あるのではないかと思う。
 私にもいくつかそのようなことがあるが、その中でも最大のものが大学生の時、私が大変御世話になった家庭教師先の関さんご夫婦への恩義である。
 大学に入学するべく信州から上京して来た私には経済的裏付けはまったくなかった。
 貯金はないし、親からの仕送りはまったく期待できない。東京に行けば何とかなるという実にいい加減な気持ちで大学に入学した。
 一番先にしたことは駿河台にある本校の学生課に行き、奨学金の申請であった。日本育英会の奨学金は月額3000円でちょうど授業料と同額であった。
 持参したお金はほんの少しあったが教科書代と下宿の借り賃で大半は消えてしまった。
 とにかくアルバイトで生活費を稼ぐしかない。
 学生課のボードで「家庭教師を求む」という案内を見て、それに応募した。学生課の職員に「入学したばかりの一年生にはアルバイトを紹介しない」と言われたが、そこは強引にお願いして応募させてもらった。
 10人ほど応募者がいたが、私が最後で、面接に来ていた奥さんはあまりに沢山の人に会ったので最初の人の印象はどこかに行ってしまったということで、「最後の人でいいです」ということで幸運なことに私は採用された。
 奥さんに連れられて浅草橋にあるご自宅にお伺いした。奥さんのご主人である関 守さんは自宅兼工場で従業員10数名と共に製本業を営んでおり、オヤジさんと呼んだほうがふさわしいイガグリ頭のいかにも職人という感じの人だった。私が中学卒業後、町工場で働きながら夜間高校で勉強して大学に入学したと話すと、「それは素晴らしい。息子の指導をぜひお願いしたい」と言われる。そして、「高校1年生の息子は大学に行かせようとは思っていない。学校の授業についていける程度の指導で結構です。私は仕事で忙しいので息子の面倒を見るのは難しいので、息子の兄貴になったような気持ちで接していただけると有り難い」と言う。
 さらに「この人だったら娘の面倒も見てもらってもいいのではないか?」と奥さんに話す。奥さんは「私もそう思う。実は中学2年生の娘がいますが、女の子なので女子大生を家庭教師に迎えようと思っていたが、あなただったら大丈夫みたいなので娘の面倒もお願いしたい」と言われる。私は大変まじめな青年と受け止めてもらったようである。
 最初の条件は息子さん一人、週2回で月額4000円の家庭教師代だったが、二人ということなので、週4回、家庭教師代は倍の8000円をいただけることになった。
 奨学金の3000円と家庭教師代の8000円を合わせると11000円ということになり、何とか生活していける目途がついた。
 関さん宅に家庭教師としてお伺いするのは夕食時の18時、私の夕食は用意されているので、毎週4回、夕食代は不要ということになった。さらに最初のうちは家庭教師が終わると夜食が用意されていたが、2,3時間前に食べたばかりなので、そうは食べれない。 そこで奥さんが夜食用にということで300円の小遣いを毎回くれる。一週で300円×4回=1200円、4週となると合計4800円、結構なお金をいただくことになった。
 さらにオヤジさんが月に一回ぐらい、奥さんがいない時を見計らって、胴巻からお金を出して、「今井さん、たまには遊びに行っているかい? 男は少し遊びに行った方がいいよ」と言って3~4000円くれる。
関さん宅の家庭教師の仕事は途中で息子さんが高校を卒業したので、教えるのは娘さん一人となったが、家庭教師代8000円は変わらなかった。
 家族のように扱ってくれて、「今日はお風呂に入っていきなさい」と言われて、お風呂から上がると新しい下着が用意されている。
 オヤジさんはプロボクシングが大好きな方で、当時はファイテイング原田や海老原博幸という素晴らしい日本人ボクサーがいて、テレビで世界タイトル戦が頻繁に放送されていた。一人で見ていてもつまらないということで、オヤジさんは私が息子さんや娘さんを教えている部屋に来て、「今井さん、何をしているのだ? 試合が始まるぞ!」と言う。「僕は今、教えている最中です」と言うと、「そんなの子供たちに勝手にやらせておけばいい。タイトルマッチの方が大事だ。すぐこっちに来なさい」と言われ、お言葉に甘えて、オヤジさんと一緒にビールを飲みながら世界タイトルマッチ戦を見るということがしばしばあった。そもそも家庭教師として、息子さんや娘さんに教えるだけの技量が私にあったかというと怪しいもので、二人に私の苦手としている数学はまったく頼りにならないということを見抜かれてしまい、数学以外の教科を教えるということになった。
 教えているのか、おしゃべりしているのか分からないような2時間を過ごすのがいつもだった。
 関さんは私には親、いや親以上の存在であった。いくら感謝しても感謝しきれない。
 「ありがとうございました」を何百回繰り返しても罰は当たらない。
 「有難い」という言葉があるが、これはめったに受けることのできない恩恵、好意、配慮に接することから来ているというが、関さん宅の家庭教師は正しく「有難い」であった。 
私は関さんご夫婦にお世話にならなかったら私の大学生活は破綻を来して途中で大学を中退することになったのではないかと思う。

 私にとっては関さんご夫婦は恩人、それも大恩人である。その大恩人に私が恩返しをしたかというとまったくそのようなことをしていない。
 年賀状の一通も出すこともなく、ご無沙汰のまま30年以上が過ぎた。
 少しは生活に余裕ができていた頃に、お世話になったお礼に年末にお歳暮を贈ることを考えてもおかしくないのにそのようなことに気付かなかった。
 ところが、今から20年前の1997年に日本実業出版社から「意思決定の思考法」というタイトルの本を出したが、ある日、突然、この本を関さんに見ていただこうと考えた。 なぜ、そんなことを考えたのか、よく覚えていないが、この本を持参して浅草橋の関さん宅を訪問した。一別以来、30数年が過ぎていた。ご健在だと思っていたオヤジさんは亡くなっていたが、奥様は健在であった。家業を継いだ息子さんもお元気だった。研修講師の仕事をしていることを話して、この本にあるようなことを講義していると話すと、奥様は「やはり今井さんは私達が見込んだとおりの人だった。お父さんは、今井さんはいつかきっと立派な人になると言っていた。仏壇にこの本を供えて、お父さんに『今井さんは私達が思ったとおりの立派な人になりました』と報告しなければいけない」と言われる。「私はそんな立派な人間ではありません」と言うものの、「こんな難しい本を書くのだからたいしたものです」と褒めていただいた。
 奥様が仏壇に本を供えると言われた時に、「お線香を上げさせてください」と言うべきだったのにそういったことを思い付かないまま辞去してしまった。
 それから3年後にも自分史ともいうべき「人生やってみなきゃわからない」を書いた時にも関さんにお世話になったことを書いたこともあり、その本を持参してお伺いしたが、この時も奥様に褒めていただいたが、仏壇にお線香をあげるのを失念してしまった。
 それから7年後、浅草橋に行く用事があり、お家があった近くまで行ったが、懐かしい建物はなくなっており、近所の方に聞くと、製本業は廃業して、奥様は数年前に亡くなられたと言われた。もっと早くお伺いするべきであったと反省したが手遅れであった。

 大恩人である関さん、それも御霊前にお線香をあげることさえしないで今日まで能天気で生きて来た私は、「恩知らず」と謗られても仕方がない。
 借りはまったく返してなく、恩返しだってまったくしていない。
 恩返ししたくても関さんご夫婦はすでにこの世におられないのでその術がない。
 「恩返し」ができない以上「恩送り」をするしかない。「恩送り」は以前、友人から聞いた言葉だが、自分と同じような苦しみ、迷っている人に自分が助けてもらったようなことをしてあげれば、う回して恩返ししたことになるということである。
よって、自分のできる範囲で、私を頼って来た人に関さんご夫婦同様、親切な振る舞いをしてあげれば、関さんご夫婦に恩返しをしたことになると考えて、それを心掛けることにしている。もちろん、経済的にそれほど余裕はないので、関さんご夫婦のような多額な援助はできないが100分の1でもよいから自分のできる範囲でしたいと思っている。








posted by 今井繁之 at 11:19| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする