2017年11月27日

私を救ってくれた恩師の言葉

 
 先般、福井県池田町で中学2年の男子生徒が担任および副担任の先生からの厳しい叱責を苦にして、校舎から身を投げて自殺したことが報じられていた。
 なぜ、この生徒だけが担任および副担任に追い詰められたのか詳しいことは分からないが自殺せざるを得なかったこの子が哀れでならない。
 教育現場で正当な理由があれば、厳しい指導や叱責があってもそれはやむを得ないと思うが、子供が納得できない不当な理由で追い込み、死を選ばせるようなことは絶対あってはならない。

 私はこの自殺した生徒ほど担任から厳しく叱られなかったが、それでも似たようなことを体験している。
 私は中学生時代の大半を長崎市内にあった西浦上中学で過ごした。その中学で、山口正三さんという先生に救っていただいたことがある。
 それはどういうことかというと、中学3年の1学期のある日、私はクラス担任の角川先生から誤解を受けて、職員室の入り口に正座させられた。なぜ正座させられたかというと、自習の時間だったが、級友が廊下で悪ふざけしており、それを注意しようと教室を出て悪ふざけしている級友に近付いたその時、隣の教室で教えていた山崎先生が出てきて、「うるさい、静かにしろ!」と叱られたのがことの発端である。教室に入って静かに自習していたら、角川先生から職員室に来るようにという呼び出しがあった。職員室に行くと、「自習の時間なのに廊下で騒いでいたと山崎先生から聞いた。お前はルーム長のくせに率先して騒いでいるとは何事だ!」と厳しい表情で私を叱る。私は「僕は騒いでいたわけでなく止めに入ったのです」と言うものの、「言い訳は聞きたくない。とにかくお前みたいな男がルーム長でいるのは俺は恥ずかしい。正座して反省しろ!」と言って、首をつかまれて職員室の入り口に連れて行かれて、そこに正座させられた。
 私の学業成績はそれほどよくないのに一学期のルーム長の選挙でルーム長に選出された。
 この結果を教室で見ていた担任の角川さんの表情は強張っていた。「皆、この結果で本当にいいのか?」と問い掛けたところ、いっせいに拍手が返って来たので、首を傾けながら角川さんは教室を出て行った。
 当時は昼間の高校に進学する生徒と卒業と共に就職する生徒の比率は半々で私は就職する側の生徒であった。私の所属していたクラスを除いてどのクラスでもルーム長に選ばれていたのは成績優秀な進学組の生徒だった。角川さんにとっては私のような就職組が選ばれたことが屈辱だったのかもしれない。
 私が報告しなければならないことがあって職員室に行ってもニコリともしなかった。
 私は国語と社会はまずまずの成績だったが数学と物理はまったく駄目であった。数学担当の教師は山崎先生、物理担当の教師は角川さんだった。数学も物理も中間試験の結果は平均点以下の成績で、結果が出た後で、角川さんに「何故こんな成績なのだ?」と聞かれたことがある。その時は「数学も物理も好きでないからです」と愛想のない答えをした。
 角川さんから嫌われていることは分かっているものの、私の言い分に耳を傾けようとしない角川さんに対する怒りと悲しみでいっぱいだった。
 職員室に出入りする先生方はニタニタしながら私を見ていく。正座すること7~8分ぐらい経った時、山口正三先生が通り掛かった。山口先生は国語担当の教師で学年主任でもあった。山口先生には私は日頃から可愛がっていただいていた。
 私が経済的な事情で高校に進学できないことを不憫に思ってくれていたみたいで、何かと声をかけていただいていた。
 「繁之! どうしたのだ? 何でこんなところに座っているのだ?」と聞かれる。事情を説明すると「分かった、角川先生に話してみる」と言って職員室に入って行った。
 しばらくしたら角川さんが出てきて、「山口先生に繁之の言い分をよく聞いて来なさいと言われた。本当にお前は騒ぎを止めようとしたのか?」と言われるので、「その通りです」と話すと、「分かった。教室に戻っていい」と言う。
 私は「先生、あなたはそこに正座して私に謝りなさい!」と言おうと思ったが、それは止めて教室に戻った。

 山口先生のとりなしのお陰で正座は許されたが、もし、あの時、山口先生に助けていただけなかったら、私はどうなっていただろうか?
 ひがみ根性で言うわけではないが、私達就職組は先生方から一段低く見られていた気がする。通常の授業が終わると「就職組の生徒は帰って結構です。進学組は補習があるので残ってください」というアナウンスがあり、就職組には勉強は不要と言われた気がして傷ついていた。角川さんに正座させられたのも自分が就職組のせいだと思っていた。
 もし、山口先生に助けてもらわなかったら、私はひがみ根性のまま中学を卒業し、その後の私の人生は変わったものになったかもしれない。
 正座の一件のあった後、山口先生に改めてお礼を言ったら、「私は繁之がウソをつく子ではないと思っている。これからも色々とあると思うがまっすぐに生きていきなさい」と言われた。
 15歳、中学3年生という人生で一番多感な時期に私を信頼してくれた山口先生に巡り合ったことは幸運以外の何ものでもない。

 山口先生の「繁之はウソをつく子ではない」という私を信頼する言葉はその後の私の人生で何事においてもウソをついてはいけないという戒めになった。
 「まったくウソをついたことがないのか?」と問われたら「絶対ない」とは言わないが、極力ウソをつかない人生を歩もうと言い聞かせて生きてきた。
 人に使われるサラリーマンの身であった時には、自分の心を偽ってウソをつかなければならない場面もあった。
 「ウソをつきたくない。自分の信じることを堂々と主張したい」というのが、私がサラリーマン人生に別れを告げて研修講師として独立するようになった理由の一つである。
 能力を買われて研修の仕事が来るようになったので、自分の心を偽って、心にないようなことを言わなくてもすむようになった。
 間違っていることは間違っていると言い、自分がいさぎよしとしないことは拒否することができるようになった。こびたり、おもねたり、へつらったりしなければならないことはしなくてすみ、自分の心に正直に生きて来れた。
 そんな生き方を貫いて来れたのは、少年時代に山口先生にかけていただいた「繁之はウソをつく子ではない」という言葉の賜物である。

 私は西浦上中学に3年の2学期まで在籍、その後、長野県の中学に転校したが、追いかけるようにして来た山口先生からのお手紙にあった「中学を卒業しても勉強だけは続けなさい、そうでないといつか後悔することになる」という勧めに従って、定時制高校に進み、さらに大学に進学した。
 大学4年生の時、先生のご自宅を訪問して、「先生の言いつけを守って大学に行きました」と報告した時に山口先生が「私が君に何と言ったか忘れてしまったが、君が私の言いつけを守って大学生にまでなったことは講師冥利に尽きる、こんなに嬉しいことはない」と涙交じりに言われた日のことはもう半世紀が過ぎても忘れない。
 山口先生が亡くなられた後も、先生の奥様と年賀状のやり取りをしていたが、ある年の年賀状に「あなたは主人の自慢の息子です。主人はいつもあなたのことを自慢していました」とあった。
 そんなに褒めていただけるような立派な人間になれたわけではないが、先生の信頼に応えようと愚直に生きてきたことは確かであり、まっとうな人生を歩ませてくれたのは、中学3年生の時、不当に扱われた私を救ってくれた「繁之はウソをつく子ではない」という私を信頼してくれた山口先生の一言である。

2017年11月、たまたま、熊本県の八代市の公立小学校・中学校の校長会から勉強会の講師を依頼されて、40名ほどの校長先生方にお話をする機会があった。
当初、お世話になった山口先生のことを話そうと思っていたが、別の話で時間を費やし、山口先生とのことを話す時間がなくなってしまった。残念であったが、このブログを読んでくれる先生方もいるかもしれないので、私のように先生の一言で救われる生徒がいるので、先生方には、ぜひ子供たちの言い分に耳を傾けてほしいと強くお願いする次第である。

posted by 今井繁之 at 12:28| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

戦慄の記録『インパール』を見て


 毎年、夏になると、NHKは『戦争』を特集した番組を放送してくれる。特にここ数年は戦争を体験した人が高齢化によりどんどん少なくなってきているので、今のうちに戦争の実態を知らしめておきたいということで戦争特集番組に力を入れているような気がする。 本年度もいくつかの特集があったが、その中でも8月に放送されたNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」には大変な衝撃を受けた。
 なぜこんな悲惨な戦いを強行したのかという驚きと、さらにこの戦いの指導者が誰1人として責任を問われなかったことに慨嘆した。
 そもそも「インパール作戦」とは何かというと、太平洋戦争で戦況が悪化して来た、1944年3月、イギリス軍が主要拠点としたインドのインパールを攻略するために、ビルマ方面軍・15軍麾下の3個師団(31師団、15師団、33師団)約9万人を進撃させた作戦である。ところが、食料や弾薬の補給は不十分、敵の戦力を軽視した作戦は、数多くの兵士が命を落とし、大失敗に終わった。
今回の放送では太平洋戦争で最も無謀な作戦と言われるインパールでの戦いを関係者の証言で明らかにした。
 山岳地帯の行軍を兵站の専門家である小畑参謀長は「現地で牛を調達し、食料や弾薬、兵器を運ばせた後に食料として利用するという作戦には無理がある。牛は急峻な山道を越えられないのでこの作戦は実施すべきでない」と反対した。この無謀な作戦の最高責任者である牟田口廉也司令官以下の上官は「卑怯者、貴様には大和魂はあるのか」とどなりつけたと言う。大和魂でどうこうなるというものではなく、実際、牛はインパール山中で餌にするべき草がなく次々と倒れていった。
 短期決戦をもくろみ、兵士には3週間分の食料しか持たせなかった。
 戦闘開始2週間目、イギリス軍と遭遇、1000名以上の死傷者を出した。33師団の柳田元三師団長は「インパールを予定の3週間で攻略するのは不可能です」と牟田口廉也最高司令官に作戦変更を強く進言したという。他の師団長からも意見具申があったが、牟田口司令官は「善処しろとは何事か!バカヤロウ!」と言って無視したという。
 補給が途絶し、戦闘以前にマラリアなどの熱帯性伝染病や飢え・激しいスコールで地獄絵図と化し、前線の指揮官、第31師団長佐藤幸徳中将は何度も撤退を進言するも聞き入れてもらえなかったため、独断で部隊を退却させるという前代未聞の事態に発展した。
 イギリス軍は航空機による物資の補給を展開、1日250トンの補給物資を投下、日本軍は補給ゼロで途中のコヒマというところに到着した時は食料はほとんどなかった。突撃すれば死ぬことは分かっていても、イギリス軍の戦車に爆弾を抱えて肉弾攻撃を繰り返して、死亡した兵士は3000人を越えたという。
 牟田口司令官は作戦がうまくいかないのは師団長に責任ありということで、31師団の佐藤師団長以下を更迭し、武器弾薬もなく腹を空かせた兵士に「前へ前へ」と無茶苦茶な指示を出すばかりであった。作戦の中止を決めたのは開始してから4か月後であった。豪雨の中の撤退の途中で兵士は飢えや疫病で倒れた。
 死者の6割は作戦中止後の撤退途中であり、インパールからビルマに帰る道は日本人兵士の白骨死体で埋め尽くされ『白骨街道』と呼ばれたという。
 辛うじて生き残って撤退してきた兵士に向かって牟田口司令官は驚くような説教をしたと言う。
 「食うものがないからといって戦争はできないといって諸君は勝手に退却してきた。これが皇軍か。皇軍は食うものがなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食うものがないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛み付いて行け。日本男子には大和魂があることを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守ってくださる」
 こんな非科学的な説教を聞かされた兵士はたまったものでない。
 インパール作戦の投入兵士は約9万人に対して、帰還時の兵士はわずか1万2千人という悲惨な結果になった。
 「知性なき勇気は蛮勇である」と言われた方がいるが、インパール作戦は正しく蛮勇であった。
 最高責任者である牟田口司令官は戦後、連合国から戦犯として一応は逮捕されたものの、あっさり不起訴処分になり、戦時中の責任は問われることなく、天寿をまっとうしたということである。
 東京裁判は連合国に対する罪を問うものであり、日本国兵士をどんなに死なせようが、そのこと自体の責任は問われなかったということである。
 牟田口司令官は戦後、「作戦は上司の指示」と主張し、大本営の参謀は「現地軍の責任範囲の拡大」と責任を回避した。
 番組の最後に、奇跡的に生き長らえて、現在96歳になっている司令部の動向を克明に記録した斉藤博圀少尉本人が涙ながら次のように語っている。
 「司令部では何千人殺せばどこそこが取れるという会話が飛び交っていました。最初は敵を何千人殺せばと思ったが、そうではなく味方の兵士を何千人犠牲にすればということでした。まるで虫けらでも殺すみたいに部隊の損害を表現していました。兵隊に対する上層部の考えはそんなものです」

 当時の軍人がすべて牟田口司令官のような無能な人達ではないと思うが、それでもひどい話である。
 そもそもは勝てるはずのない無謀な戦争をしたことが大間違いである。
 戦争は絶対するべきではない。犠牲になるのはおおむね第一線の兵士である。もちろん、その兵士を送り出した家族も犠牲者であり、空襲を受けて死傷した人達も犠牲者である。 伊藤忠商事の社長・会長を勤め、中国大使もされた丹羽宇一郎さんがお書きになった 『戦争の大問題』(東洋経済新報社)という本がある。戦争は二度と起こしてはならないという思いからお書きになったということだが、その本の中に、元総理大臣の田中角栄氏の言葉が紹介されている。
 「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢になったときはとても危ない」

 まさに今である。戦争を知らない安倍晋三氏が日本国の最高権力者になり、A級戦犯であった祖父から薫陶を受けたのであろう、「積極的平和主義」と称して再び、日本国を戦争のできる国にしようとしているように私には思えて仕方がない。
 そうではないと思いたいが、ここ数年の安倍氏が推し進めている施策を考えるとそう思わざるを得ない。
 「平和のために戦争をする」と息巻いているのはアメリカのあの暗愚な大統領と日本国の総理大臣ぐらいではないかと思う。
 「戦争で平和を」としきりに唱えたのはナチスのヒットラーであり、その結果がどうなったかを歴史が示している。
 何としても戦争に歯止めをかけなければいつか来た道をたどることになってしまう。
 丹羽さんの本を多くの人に読んでもらいたいと思う。それと共にNHKを始めとするマスコミも日本国の最高権力者が嫌がるような良心的な番組を製作して戦争の悲惨さを多くの国民に知らせて欲しいと願う。
 私が仕事場にしているマンションの目の前に小学校があり、グラウンドでは子供たちが歓声をあげて楽しそうに走り回っている。
 この子供たちが戦争に巻き込まれることのないようにするのは私達大人の責任であり、インパール作戦のような愚かな戦争を二度としない、そういった戦争のできない国にしなければいけないと痛切に思う。










posted by 今井繁之 at 11:18| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする