2018年01月23日

裏切りを許してくれた人 

        
 
 私は長年、問題解決・意思決定力強化の研修の講師の仕事をしているが、時折り、「独立して研修講師として成功された秘訣は何でしょうか?」と聞かれることがある。
果たして、成功したといえるかどうか分からないが、独立して約30年、何とか講師業を続けられた最大の理由はソニーを辞めた後、お世話になったデシジョンシステム社の社長である飯久保広嗣さんの知遇を得たからである。
 飯久保さんはKT法を日本に導入したケプナー・トリゴー・ジャパン社の初代社長で、私がお目にかかった1986年はその会社を辞め、デシジョンシステムという会社を起業して、KT法を少し手直しした「EM法」(Effective Management Method)という問題解決・意思決定の手法を教える仕事をしていた。
 この会社の『KT法の社内講師経験者募集』という新聞広告を見て、応募して、面接の結果、入社を許され、4年間、この人の下で研修講師の仕事をするようになった。
 ソニーで社内講師をしていたという経験はあったが、その経験がプロとして通用するものであったかといったらそんな甘いものではなかった。
 社内講師としては一定の評価をしていただいていたが、プロ講師としてスタートした直後は、失敗・失敗の連続でお客様から厳しい評価をいただき落ち込んだ。
飯久保さんは「そんなことを気にするな。慣れれば大丈夫だ。君には講師としての素質がある。頑張れ!」と言って励ましてくれて、次から次へと私を講師として色々な企業に派遣してくれた。
 最初は日揮、次は日立製作所、次は東芝、次は資生堂といった具合に日本を代表する企業の幹部研修の講師をすることになった。飯久保さんが何か指導してくれたかというと、特にそれはなかった。「習うより慣れよ」ということで、私なりに工夫してやるようにということで、奮闘努力?した結果、何とかお客様の評価をいただけるようになった。
 飯久保さんは人の好き嫌いの激しいところがあり、気に入らない人はすぐ解雇するといった荒っぽいところのある人だった。ところが私には大変優しく、「今井ちゃん」、「今井ちゃん」といって可愛がってくれて、「ネクタイが今一つだ。プレゼントする」と言って高いネクタイまで買っていただいたことがある。
 赤坂エクセルホテル東急の最上階にあるレストランで美味しい食事を何度もご馳走になった。
 デシジョンシステム社の同僚は「飯久保さんはなぜ今井さんを可愛がるのか不思議だ」と言うが、一度たりとも飯久保さんと対立するようなことはなかった。
 飯久保さんに感謝しなければならないのはプロ講師としての心構えを学ばせてもらったこと以上に、多くの優良企業の人事・教育関係者と親しくなる機会を与えていただいたことである。
 度量の狭い人間であれば、講師が独立することを警戒して、お客様との深い関係になる前に担当を替えるといったケチなことをするかと思うが、そのようなことはまったくなかった。お陰で担当させてもらった企業の関係者と良好な人間関係を築くことができた。

 私は最初から独立して仕事をしようと思って入社しており、3年ぐらい勤めたら辞めようと思っていたが、結果的には4年勤めることになった。
 1990年、「親のやっている保険業の仕事を引き継ぎたいので辞めさせていただきたい」と申し出たところ、熱心に引き止められたが最終的には了承していただいた。
 ウソをつくのは良くないが、正直に申し出ることはできず、上記のようなウソをついてしまった。私の親が保険業をしているのは事実だが、飯久保さんは私が研修講師として独立して、自分と競合するようになることは予測していたのではないかと思う。
 でもそんなそぶりはまったく見せず歓送会をして私を快く送り出してくれた。
 飯久保さんには本当にお世話になった。感謝しても感謝しきれない。

 私が独立してスムーズに仕事を展開できたのはデシジョンシステムに勤務していた時に研修講師としてお伺いして親しくなったお客様の存在のおかげである。
NHKを始めシャープ、サッポロビール、大塚商会、クラレといった大手企業から仕事の依頼を受けた。
 このお客様の存在がなければ、何の後ろ盾もない私が、見ず知らずのお客様に「研修講師を始めました」という案内を出しても、けんもほろろで、早晩店仕舞いをする羽目になったと思う。
 これまで自社の顧客だった企業が離反して私の方に仕事を依頼するようになったことを知って、飯久保さんは大変怒ったそうである。私にクレームが来るかもしれないと思っていたが、なぜかそれはなくて、飯久保さんはお客様のところにお伺いして、「今井は当方を辞めた人間です。今井には仕事を出さず私共デシジョンシステム社のEM法を引き続きご愛顧いただきたい」と話したそうである。飯久保さんの要請に対して、NHKで職員研修を担当していたTさんから聞いた話であるが、「私共は御社のEM法を採用していましたが、これは講師である今井さんの人柄に惹かれて継続的にお願いしたのです。今井さんが独立して同種の研修を行うというので、今井さんの方にお願いすることにいたしました。悪しからずご了承ください」と言ったそうである。
 飯久保さんはお客様の訪問を終えて、自社に戻ったところで、社員を集めて、「今井君はたった一人で独立して、自分が担当していたお客様のほとんどを私共から奪った。敵ながらあっぱれである。奪われてしまった方がよくない。お客様はまだいくらでもあるから新規のお客様の開拓に励め!」と檄を飛ばしたということをデシジョンシステムのかつての同僚から聞いた。その後も事ある毎に飯久保さんは「今井君を見習え」と部下を督励したということである。
 恩を仇で返す行為をした私を一切責めることをせず、私を褒めて、「見習え」といった飯久保さんは本当に度量の大きい人だった

 借りを返すどころか恩義のある人を裏切ったので会わせる顔もなく、それでもいつかはご挨拶をしなければならないと内心、思っていた。
 辞めてから20年ぐらい経った2009年のある日、飯久保さんから突然電話が来た。 昔ながらの優しい口調で「今井ちゃん。元気かい。久し振りに会おう」と言う。
 裏切り行為をしたということで頭の一つもぶん殴られるかと思っていたが、そんなことはまったくなく、会うなり握手を求めてきて「今井ちゃんは凄い。たいしたものだ」と言って褒めてくださった。
 飯久保さんの用件は「自分は年齢的にも講師を勤めるのも難しくなった。戻って来て昔と同じように一緒に仕事をやらないか」というお誘いであった。
 裏切り者である私にこの温情あふれる申し出に恐縮するばかりであった。
 諸般の事情で飯久保さんの申し出に応じることはできなかったが、その後のデシジョンシステム社の研修プログラムの売却の話には多少お役に立てたかと思っている。
 しかし、それも飯久保さんから受けた多大な恩義に対してはたいしたお返しにもならず、今でも忸怩たるものがある。
 また、いつかお会いして「今井ちゃん」と呼んでいただき、お食事でも共にして、昔話をしようと思っている。今度は費用は私が負担しようと思っている。ささやかなお返しだが・・・・。
posted by 今井繁之 at 12:52| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

自著に実名を勝手に書いたお詫び

                         
 2017年1月25日、ひょんなこと?で36年前に別れた女性と再会した。別れた女性といっても男女の関係があって別れた人ではない。
 その女性は私が36年前、勤務していた千葉県木更津市にあるソニーの子会社 ソニー木更津㈱(現ソニーイーエムシーエス木更津サイト)で一緒に仕事をした人である。
お名前は鹿島さんという人だが、彼女と久しぶりに再会した場所は木更津市内にある葬儀斎場であった。
何故、葬儀場かというと、私と鹿島さんが一緒に仕事をしていた当時の仲間が亡くなった関係で、お互いが葬儀に参列したからである。
 私は再会した鹿島さんにはどうしても一言お詫びしなければならないことがあった。

 お詫びしなければならないというのは次のような事情があったからである。
 今から38年前の1979年3月、私が私淑していたこの会社の社長である鳥山寛恕さんという方が不慮の事故で亡くなった。もんもんとした日々を1年過ごしたが、この会社にいても仕方がない、この会社を辞めてどこかで働こうと思っていた矢先、鳥山さんの後任の社長に就任した岩城 賢さんという方から、木更津市内に新たな工場を作るので人集めのプロジェクトのリーダーを務めて欲しいと依頼された。
 岩城さんはソニー本社から派遣されて来た人で、後にソニーの代表取締役副社長を務めた実力者であった。
 その岩城さんが「お金は幾らでも出す、人集めの方法は君に任せるから来年の工場の稼働開始前までに500人の作業者を集めて欲しい」と言う。
 断ってもよかったが、全面的に任せてくれると言うし、辞める前に一仕事して有終の美?を飾ろうかと考えて引き受けることにした。
 社内から有能な若い男性を選抜して、人集めの作業に従事してもらった。外部から鹿島さんという若い女性を採用して、私達男性の裏方の仕事を手伝っていただいた。
 このプロジェクトはほぼ目標通りの従業員を集めることに成功し、その功でもないが、私は岩城さんの勧めもあって、子会社勤務からソニー本社の芝浦工場に異動になり、異動先でKT法の社内講師の仕事をすることになった。
 それはともかく、1980年の5月にプロジェクトがスタートして、翌1981年4月までの間、お正月の期間は少しはお休みを取ったかと思うが、その時期以外はほとんど休みを取ることもなく、必死になって人集めをした。
 そこで大いに活躍してくれたのが鹿島さんだった。彼女の応募者への応対は本当に素晴らしいものがあり、私の記憶に残っていた彼女の応募者への応対ぶりを1998年に日本実業出版社から出した拙著「頭を使ったホウ・レン・ソウ」に実名入りで紹介している。
 その本はビジネス書の部類では大変売れてくれて、印税も沢山入り有り難かったが、後日、彼女をフルネームではないにしても、「鹿島さん」という実名入りで登場させたことが果たしてどうだったのかを考えるようになった。
 一度お会いして、了解を取らなければいけないと思っていたが、彼女はプロジェクトが終了した後、会社をお辞めになり、私も木更津を離れたこともあり、お会いすることもないまま月日は過ぎてしまった。
 いつか会って、きちんとお話をして了解をしていただこうという思いが心の片隅に残っていた。

 拙著「頭を使ったホウ・レン・ソウ」に”心を込めて声を出す゛という小見出しをつけて書いた内容は次の様なものである。

  心を込めて声を出す  
 ホウ・レン・ソウの色々な場面で、自分の意思を伝えるのに言葉を選び、声の調子に強弱をつけ、時にはジェスチャーを入れて話す。その際、話す言葉が丁寧語でなく、敬語に多少の誤りがあっても、心がこもっていれば相手の共感を得ることができる。
 手話をしている人に聞いた話であるが、手話は手だけで表現するものではないという。手の動きだけでなく、「ありがとう」なら(あなたに心から感謝します)と、「ごめん
なさい」なら(本当にご迷惑をかけた、申し訳ありません)と心の中でつぶやきながら手
話しないと相手に通じないという。
心を込めて(さようなら)とつぶやくと、目の不自由な相手に「残念だね、また会おうね」
という気持ちまで伝わるという。
手話ではないが、人に対して感謝の気持を伝える、ねぎらいの気持を伝える時は心から
そう思わないと相手には伝わらない。フェイスツーフェイスであれば顔の表情が言葉の足りないところをカバーしてくれるが電話のように相手の顔が見えない時は相手があたかもそこにいると思って応対することが必要である。謝りの電話であれば電話に向かって45度、深々と頭を下げたつもりで「すみません、申し訳ありません」と言う。
そうすれば、以心伝心で真摯な心は伝わるものである。
 かつて私が勤務していた会社であった話であるが、私が採用プロジェクトの責任者をしていた時、新たに私の元に配属になった女性で鹿島さんという方がいた。彼女は元美容師で会社勤めは初めてだった。それだけに私共の言うことを大変素直に聞いてくれ、何ごとにも真剣に取り組んでくれた。彼女に担当してもらった仕事は応募者からの問い合わせの電話に当たることだった。彼女には「今回は新工場をスタートさせる関係で大量に社員を募集しなければならない、いい人は一人も逃がさず採用したい」と話した。
その結果、応募者から問い合わせの電話が入ると、彼女はなんとしても面接に来ていただこうということでそこまでやらなくてもと思う位、必死に電話応対に努めてくれた。
応募してきた何人かの人に「私の問い合わせの電話に応対してくれた方はどなたですか?」と聞かれたことがある。「何か失礼なことがあったのですか」と聞くと、「いや、その逆です。私が電話で問い合わせしたら、その方はぜひ面接に来てほしいといわれたが、その言い方非常に心がこもっていて、それに惹かれて私は面接に来たのです」と言う。
それを聞いて私はなるほどと思った。鹿島さんは応募者から電話が入ると、「お電話、
ありがとうございます」と言って、受話器を持ちながら感謝の気持を込めた言葉と共に頭を下げている。そうして相手があたかも目の前にいるかのように話しかける。
ときには当方にくる道の説明では身振り、手振りをまじえて説明、電話が終わるとその
電話の相手に対して頭を下げている。
 おそらく応募者にはその姿が想像できたのではないか。見えなくとも心を込めて応対すれば相手には通じるものである。口では「ありがとうございます」と言いながら、足を机の上に上げてお礼の言葉を言っていれば、姿は見えなくとも何となく相手に伝わるものである。
ちなみに鹿島さんは手話の訓練を受けていた人であった。

 以上の通りで鹿島さんを貶めるようなことは書いてはないが、それでも、断りもなしに実名入りで自分のことが勝手に書かれているのは気分がよくないだろうから、いつか機会があったらお目にかかって、拙著を渡してお詫びを申し上げようと思っていた。
 前述したように、木更津市内にある葬儀斎場で行われた葬儀が終わり、帰るべく、出口に向かおうとしていたら、妙齢の女性が近付いて来て、「今井さんではありませんか?」言う。「はい、そうですが………」と答えると「私を覚えていますか? 私は以前大変お世話になった鹿島です。今は結婚して○○です」と言われる。
 亡くなったのは人集めのプロジェクトの一員であった男性であり、鹿島さんが参列しても何ら不思議ではないが、私はまったく予測していなかったのでこの思いがけない出会いにはびっくりした。
 以前に比べて少しふっくらとした鹿島さんに、久闊を詫びた後で、私がどういう仕事をしているかを話し、鹿島さんのことを拙著に実名入りで書いたことをお詫びした。
私の話す書籍を見ていないこともあるが、鹿島さんは「そんなこと一向に構いません」と快く了解してくれた。
 鹿島さんの現在の住所を確認して、葬儀が終わった翌日、宅急便で拙著を送った。
 彼女からどのような返事があるか、多少気掛かりではあったが、しばらくは特別な反応はなかった。でも、私は自分の長年の懸案事項が一つ片付いたような気分でほっとしていた。

鹿島さんに会ったことも忘れていた2017年の暮れに、その鹿島さんから房総の名物の海苔が贈られて来た。拙著をいただいたお礼だという。鹿島さんにすぐお電話してお礼を申し上げて色々とお話をすると、今は房総で優しいご主人と3人のお子さんに恵まれて、幸せな生活を送っていると言う。
葬儀場で36年振りに再会したのが2017年1月、海苔のお礼を兼ねて電話で話したのがその年の12月、拙著に実名を勝手に登場させた件は一件落着したという次第である。


posted by 今井繁之 at 11:27| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする