2018年12月20日

過度な『矜持』を持たない


 前回のコラム「ぶれないで生きたい」に書き漏らしたが、私がぶれなかったのは、私の『矜持』が許さなかったからである。
 『矜持』という言葉は、一般的には自信・誇り・プライドという意味になるかと思う。 
念のため、広辞宛を引くと、『矜持』とは「自分の能力を信じていだく誇り、自負」とあるが、私はそれを少し拡大解釈して、[能力]に人はかくあるべきであるという存念(いつも心の中にそうでなければならないと思っていること)も含むことにしている。
誰もが程度の差はあるものの何らかの『矜持』を持っているかと思う。私自身、たいした人間でないにもかかわらず、一人前に『矜持』を持っており、どちらかといえばそれが高い方ではないかと思う。
 私は矜持が高いことは決して悪いことではないと思っている。「なにくそ、負けてたまるか」という頑張り精神と自負心、プライドといったものがあるからこそ前進、向上があると思っている。
 私自身、この『矜持』があったからこそ、これまでの人生で挫折しないで歩んで来れたと思う。
中学を卒業して、町工場で働いていた時、出来上がった製品を得意先に自転車で配達する途中で私と同年輩の女子高校生の集団に遭遇したことがある。自意識過剰であったかもしれないが、彼女達は私の姿を見てくすくす笑っているように思えた。私は作業服のままで、そして顔も洗わないで出てきたので私の服装もさることながら顔も汚れていたのだろう。この時、私は心の中で、(自分はこんな汚れた格好をしているが真面目に働いている。君達に馬鹿にされるいわれはない。自分がこのように働いているのはたまたま家が貧乏だったに過ぎない。頭の中身は君達には決して負けることはない)と自分に言い聞かせて唇をかんでいた。
 このような悔しい思いをしたことが、眠い目をこすりながら大学進学を目指して頑張る原動力になったのだと思う。

 『矜持』を持つことは大切なことであると思うが、それは条件付きである。その矜持に値する能力・力量がなければいけない。もしそのような能力・力量がなければそれ相応のものを身に付ける努力をしなければならない。そうでないと単なる空威張り、虚勢になってしまう。
 以前、私の講師仲間のKさんのところに遊びに行った時、「今度新たに入社してもらったHさんを紹介します」と言われて、私より少し年齢は若いHさんを紹介された。
 Kさんは「Hさんは大変優秀な方でT大の法学部出身です。そこからN製鉄とエリートコースを歩んできた人です。我々とは全然違います」と言う。因みにKさんは私同様明治大学出身である。
 その日、Hさんを交えて一杯飲んだ。少し酔いがまわったところで、Hさんに「なぜN製鉄を辞められたのですか?」と遠慮がちに問うと、Hさんはよくぞ聞いてくれたという感じで、「上司がS大学卒の人になったので頭に来て、定年までまだ少し間があったが、割増退職金が出るこの機会に辞めたのです」と言う。S大は私も住んでいるS県にある国立の地方大学である。「なぜ、S大学卒の人が上司になると頭に来るのですか?」と重ねて聞くと「今井さん、あのS大学ですよ。耐えられませんよ。こんな人事はおかしいです」と強く言う。「いや、S大学は確かにT大に比べたら多少レベルは落ちるかもしれないが、上司になった方は入社後、相当な努力をされたからその地位についたのでしょう。おかしいとは思えませんが………?」と言うと、「いや、絶対おかしいです、私にはこんな不当な人事には承服できません」と憤然とした表情で言う。
 この時はT大卒の人の気持ちはそんなものかなと思ったが、このHさんが格段にレベル差のある明治大学出身のK氏の下で果たしてうまくいくかなと危惧した。
それから約1年後、K氏に会う機会があり、「Hさんは元気でやってますか?」と聞くと「Hさんは使いものにならないので半年で辞めてもらいました」と言う。「なぜ?」と聞くと「彼には講師をやってもらったが、私の指導にはあまり素直に従ってくれない。それでも一応トレーニングした上で研修講師として送り出したが、受講者の反応は芳しくない。受講後のアンケートに話の中身が高尚過ぎてついていけないという声が多かったので、それを指摘すると、『私の話すことが分からないのは受講生のレベルが低いせいです』と言い出す始末。いくら注意しても改めた様子はなく、講師として派遣するところもないので、思い切って『あなたにはこの仕事は向いていないようだから自分に合った仕事を見つけたらどうか』と話すと、『それは心外だ。もし自分を辞めさせるようだったらあらゆる手をつくしてあなたの仕事の邪魔をします』と言って怒り出す始末。弁護士を入れての何度かの話し合いの末、一応気持だけの慰労金を出してお引取り願ったが、ああいうプライドの高い人はもうこりごりです」と話す。
HさんはT大に入学できたのだから頭脳は大変優秀であったと思う。「自分はT大卒だ」という『矜持』を持つことは決して悪いことではないが、T大卒の講師ということで周囲の人が一目おくだけに、それにふさわしい能力を身に付ける相応の努力をしなければいけない。相応の努力もしないで、過去の栄光ともいうべき『矜持』だけでは現実の社会では高い評価は得られない。

 私は『矜持』を持っていると言ったが、幸か不幸かそれほど優秀な大学は出ていないし、Hさんのような出身学校に対する『矜持』はない。
 私の『矜持』は中学卒業以来、人様の助けを当てにせず自分の力で今日まで生きてきたことである。結果的には多くの人に助けてもらったが、ただ、自分の生きる道は自分で決めて、最初から人の助けを当てにせず、あくまでも自分の力を頼りに道を拓いてきた。
 決して恵まれた環境で育ったわけではないが、それを嘆くことなく、思い通りにいかないことがあっても、その責任を他の人に転嫁することなく、己の力を信じて独立独歩で自立した人生を歩んできたという『矜持』がある。
 前回のコラム「ぶれないで生きたい」で上司の要請に素直に従わず、自分の思うところを堂々と主張したのは、この『矜持』の為せるわざであった。
 『矜持』を大切にしつつ、適度な矜持は必要であるが、過度な矜持であってはならないと自分に言い聞かせて、でも自分がそうあるべきだと思ったことは堂々と主張して、胸を張って生きていこうと思っている。




posted by 今井繁之 at 15:53| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

ikigai(生きがい)について考える


 2018年12月2日、NHKの番組で日本語の「ikigai」という言葉が世界各地で注目されていると報じていた。ikigaiは「生きがい」のことである。
 きっかけとなったのは「IKIGAI」という一冊の本である。書いたのは日本在住のスペイン人のエクトル・ガルシア氏である。ガルシア氏はIT企業に勤めるエンジニアとして12年前に来日、朝から晩まで仕事に追われる中で、日々の暮らしに満足感が得られなかった。「自分はなぜここにいるのか、なぜ生きているのか」と考え込んでしまった。
 そんな時、住民の多くが長生きしているという沖縄にある大宜味村の存在を知って、訪ねてみた。そこには笑顔あふれるお年寄りたちの姿があり、80歳を超えてなお、畑仕事をしながら、日々支え合って暮らしている。ガルシア氏はこの大宜味村の人達の笑顔の背景に何があるかを考えるようになった。
 そして、この人達は自分の好きなこと、自分の得意なこと、社会から必要とされていること、さらに収入の得られることをしている、それら4つの要件が重なり合っているから、笑顔で生き生きとした日々を過ごしているのではないかと考えた。
 ガルシア氏はそれらは日本に来て、時折り耳にする「生きがい」という言葉に繋がるように感じられたという。
 ガルシア氏によると、この「生きがい」という言葉は世界各国のどこにもあるかというとそうではなく、「生きがい」は日本独特の価値観ということである。
 ガルシア氏はこの沖縄での体験を「IKIGAI」というタイトルの本にして、出版したところ、ヨーロッパでベストセラーになり、今では世界42か国で翻訳されているということである。
 ヨーロッパで「生きがい(ikigai)が注目され、共感されているのは、あちらでは仕事とプライベートを分けて考えることが多く、一方が充実していても、もう一方で不満がある人が多く、ikigaiはその両方を合わせて人生の喜びを得るという考えなので、ヨーロッパの人たちには新鮮なものとして受け入れられているのではないかということである。

 私もそうであるが、私達日本人は生きがいとは何か?なんてあまり意識せず、自明のこととして「生きがいのある人生を送りたい」という具合に日常的に使っている。
 「生きがい」とはそもそも何かということで、新明解国語辞典を引くと、そこには「生きていることに意義・喜びを見出だし、感じる心の張り合い」とある。ただ、どんな状態になっていると生きがいが感じられるようになるかまでは辞典には出ていない。
 ヨーロッパの人だから曖昧さを許さず、4つの要件が重なり合っているものという明確な定義をしたが、この定義は大変普遍性のあるものであると感じた。

 ガルシア氏の「ikigai」の定義について改めて触れると、「生きがい」は次の4つの要件が重なり合った中心にあるとしている。
 4つとは「自分の好きなことをする」「自分の得意なことをする」「社会からも必要とされる」「一定の収入が得られる」である。
 勝手ながら、私がそのことをより分かりやすくすると、次のような4つの問い掛けを自分自身にして、多くに「イエス」と答えられたら、生きがいのある人生を送っているということになるのではないかと思う。
 1.あなたは好きなことをしていますか?
 2.あなたは得意なことをしていますか?
 3.あなたは社会(世の中)が必要としていることをしていますか?
 4.あなたは自分のしていることで生活するのに必要な収入を得ていますか?

 ネットでこの「ikigai」を検索して、どんなことを取り上げているのだろうかと調べていたら、まったくの偶然であるが、部屋にあるテレビでNHKのBSで騎手の武 豊さんが4000勝を上げたという番組を放送していた。
 武さんの表情を見ながら、この人は生きがいを感じているだろうと思った。なぜならば、武さんは馬に乗ることが好きで、馬をコントロールすることが得意で、多くの競馬ファンを楽しませ、沢山の収入を得ているからである。本人に確認したわけではないので軽々に言えないが、生きがいのある人生を送っているに違いないと思った。
 武さんとはまったく縁はないが、よく知られている人で生きがいのある人生を送っていると思われる人を誰かいないかなと考えていたら私と同年輩の小椋 佳さんを思い出した。
 「シクラメンのかほり」を始め多くの楽曲を作詞・作曲・歌唱している小椋 佳さんには二度ほどお会いしたことがあるが、この人が数年前に行なった「生前葬コンサート」という変わった名前の番組を録画してあり、時折り見ているので、その番組での発言から、この人は間違いなく生きがいを感じている人だろうと思った。
 私が小椋さんにお会いできたのは、小椋さんと親しくしている友人がいたお陰であるが、お会いしたのは小椋さんが神田紘爾という本名で第一勧業銀行にお勤めの頃である。
 その場で生きがいについて質問したわけではないが、私の勝手な憶測だが、銀行員当時の小椋さんに前述の生きがいに関する4つの質問をしたら、4つすべてに「イエス」と言われたかというと、そうでもなかったのではないかと思われる。
 しかし、49歳で銀行を辞めて、自らも歌うが、美空ひばりさんや梅沢富美雄さん等、多くの歌い手に楽曲を提供するという自分の好きな世界にどっぷり浸るようになってからの人生は4つの質問すべてに「イエス」と答えるようになったのではないかと思う。
 
 有名人に限らず、好きなこと、得意なこと、世の中のお役に立つこと、一定の収入が得られることに従事しているかという4つの問いに「イエス」と答えられたら、その人は生きがいのある人生を歩んでいると言える。
 私は小椋さんと比べようのない無名な人間だが、「今井さん、あなたはどうですか?」と問われたら、今の研修講師をするようになった44歳以降の人生であれば4つの質問に「イエス」と答えられる。
 現在の自分は、会得した問題解決・意思決定の手法を多くの人に伝える仕事に意義を感じており、それを伝えることが好きであり、人前で喋ることは得意といえば得意であり、自分の伝えている事柄が社会のお役に立っているという確信があり、伝えることによってまずまずの収入が得られて路頭に迷うことのない生活ができているからである。

 しかし、サラリーマンを続けていたら、皆が皆、生きがいの感じられない人生になるかと言えば、決してそんなことはない。
 自分の得意な分野の仕事に配置され、喜びを感じてその仕事に従事し、仕事が社会的に役立つものであって、それ相応の収入を得ている人達は生きがいのある人生を過ごしていると言える。
 定年退職して、サラリーマン人生を卒業した人だって、自分の好きなことでボランティア活動をして地域社会に貢献することによって生きがいを感じる人もいるかと思う。
 子供さんが好きであれば、通学時に旗をかざして、横断歩道を渡る際のお手伝いでもよいし、学校で子供たちに自分の得意なスポーツや工作の指導をすることでもよいかと思う。
 私の友人で手品が得意な人がいるが、定年退職後、彼は老人ホームを訪問して、妙技を披露して拍手喝さいを浴びている。
 もっとも、4つの問いの最後の「一定の収入を得られているか?」には「イエス」と言えないかもしれないが、他の3つを十分満たしていれば、まずまず、生きがいのある人生を過ごしていると言えるかと思う。

 「生きがい」の要件はガルシア氏の4つにしなければならないことはない。
 例えば、自分の働きを正当に評価してもらえる、あるいは素晴らしいパーフォーマンスを示して、感動してもらうことも生きがいにつながるかと思う。また、良好な人間関係の中で気分よく仕事ができることも生きがいにつながるかと思う。
 さらに人によっては高名になること、高収入を得られること、社会的貢献度が高いことといったことも生きがいの構成要件に含むべきであると考えられる人もいるかもしれない。 
 そういったものを含めてもいっこうに構わないが、そういったものをすべて生きがいの構成要件に含めてしまうと混乱を来たすかもしれないので、ガルシア氏の4つの要件で生きがいを感じられるかどうかの判定はできるかと思う。

 「生きがい(ikigai)」が国際的になるかもしれないので、ガルシア氏が指摘した4つの要件を参考にして、我々日本人も「生きがい」について理解を深め、時折り、生きがいのある人生を送っているかどうか、もしそうでなければどのような努力をしたらよいかを自問自答してみるのもよいかもしれないと思う。
posted by 今井繁之 at 15:46| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする