2020年05月30日

失うものを恐れない

 
 私達は仕事の上でも、私生活の上でも、どうしたらよいかと決心を迫られる場面がある。
そのような時、あれも満たしたい、これも満たしたいということがあっても、そこでは、あれもこれもと欲張ることなく、どれかに絞って決心するとスムーズに決めることができる。その際、失うものがあっても、それを恐れないことが必要である。

 失うものを恐れなかった事例を具体的人物の例を借りて紹介する。
 2020年3月、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組で欽ちゃんこと萩本欽一さんが若い後継者に笑いの神髄を伝えようと頑張っている姿が紹介された。
 私は萩本欽一を知ったのは昭和42年頃であった。知ったと言っても直接お会いしたわけではなく、テレビの画面を通じて萩本欽一さんの存在を知ったということである。
 当時の萩本欽一さんは25歳、私もまったく同じ年齢の25歳であった。同年齢の誼で、萩本欽一さんを以下は「欽ちゃん」と呼ばせていただくがご寛恕いただきたい。
欽ちゃんは故坂上二郎さんと組んでコント55号と称して、舞台狭しと飛び回ってお客さんを楽しませていた。私はその姿を見て腹がよじれるほど笑った。同時代に、関西には西川きよし、横山やすしという人気者がいたが、コント55号はそれを凌いでいたのではないかと思う。
その当時のエピソードが、10数年前になるが、NHK衛星の番組で「欽ちゃんの初恋」というタイトルで放送された。
 その番組の中で欽ちゃんは人気者になる前は浅草の劇場でほんの端役で働いていたが、そこで知り合った澄子さんという踊り子とお付き合いしていたことが紹介されていた。澄子さんは欽ちゃんより年上であり、収入も欽ちゃんよりはるかに多くあり、欽ちゃんは澄子さんからお小遣いをもらうような関係だった。欽ちゃんにとって澄子さんは初恋の人であったという。
 欽ちゃんの思いが通じて、澄子さんと一緒にひっそりと生活するようになったが、一部週刊誌に「コント55号として活躍している欽ちゃんには恋人がいる」と取り上げられた。 澄子さんはその週刊誌を見て、将来のある欽ちゃんに迷惑をかけていけないと考えて、黙って二人の住まいから出て行った。彼女を忘れられない欽ちゃんは必死になって探し出して、マスコミにばれないようにしたお付き合いが始まる。澄子さんから「結婚は望まないが、あなたの子供は欲しい」と言われて、二人の間に子供ができた。しかし、彼女は今や国民的スターになった欽ちゃんに妻子がいては人気に障ると考えて、またもや黙って欽ちゃんの前から姿を消す。今度もあきらめずに探し当てて再会する。そして、欽ちゃんはこの澄子さんと子供がいることを隠すことなく、オープンにするべきであると決心した。
 欽ちゃんは「自分には妻子がいます」と発表したら、自分を独身だと思っていたファンが離れていくのではないか、そしてせっかく築いた地位が崩れてしまうのではないかと悩んだ。悩んだ欽ちゃんは雑誌社の知り合いにも相談したが、最後は自分で決めた。
 決めるに当たって、欽ちゃんは(自分は人より抜きんでた特殊な才能があるわけではない、たまたま人気者になって芸能界にいるが、妻子持ちということで人気がなくなり芸能界を去らなければならないことになったところでどうということはない。人気者という地位を捨てても澄子さんと子供を守ることが大事だ)と考えて、記者会見をして、「自分には奥さんがいます。子供もいます」と事実を包み隠さず淡々と話したという。
 発表した後、心配そうな表情を浮かべている欽ちゃんに記者の一人が「私達は仕事を一生懸命やっている人をつぶさないよ」と言ってくれたと言う。
 翌日の新聞には全紙とも妻子のある欽ちゃんを祝福する記事であったそうである。
 欽ちゃんの初恋を貫いた純情に拍手する人が多く、人気が落ちるどころか、さらに人気者になり、失ったものより得たもののほうが大きかったという。
 欽ちゃんがそうであったように、人は今持っているものを失ってもスタート地点に戻ればよいと覚悟を決めれば、自分の気持ちに素直になることができて、強くなれると思う。

 欽ちゃんと並べて語るのはおこがましいが、失うことを恐れない、築いたものは捨てても構わないと考えると決心がつくということを私も経験したことがある。
 今の研修講師の仕事に就いたのも、得ていたものを潔く捨てる決心をした結果である。
 長年勤めた会社を辞めて、研修講師として独立しようと考えたのは44歳の時であった。
 辞めることはイコール安定した収入を約束してくれる勤務先を失うことになるが、本当にそれでいいのかと自問自答した。答えは何とかなるのではないか、ならなかったとしても自分のスタート点は中学を卒業して町工場に勤務したところにある、そこに戻ればいいのではないかと考えた。現実問題、44歳の何の技術もない人間を町工場が雇用してくれることはないだろうし、事務関係の仕事に大学卒業以来従事してきたが、今現在、得ているのと同じぐらいの給与で雇用してくれるところはないかもしれない、でも、まだ44歳、何とか生きてはいけるのではないかと楽観的に考えた。
 カミさんにも相談したところ、彼女の実家は房総で農業をしており、「ダメだったら田舎に帰って農業をやれば何とか生きていけるでしょう」と気軽な調子で言う。
 腰痛持ちの私には農業は無理だと思ったが気が楽になったのは確かである。
 結果的には支援してくれるお客様に恵まれて今日まで講師業を続けることができた。

 欽ちゃんもそうであったように、捨てたからといってもすべてを失うことはないと思う。
 失うことを恐れない、得ていたものを捨てることになってもよいという覚悟があれば何とか道は拓けるものであると私は思っている。
posted by 今井繁之 at 14:40| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年05月28日

 例外的にうまく行った事例に学ぶ


 私たちは物事を大ざっぱに捉える傾向がある。多くの店で売り上げが伸びないと商品がよくないせいであるとか、ほとんどの製品で良品ができないと材質に問題があるせいであるとか言って、自分で勝手に原因を決め付けてしまう傾向がある。
 しかし、時々、大部分がうまくいかなかったが、例外的にうまくいったというケースがある。気の利く人はそれを「たまたま」というか、「まぐれ」ということで片付けることなく、うまくいった方には何かあるのではないかと注意深く探る。
 私が研修で原因分析の手順の紹介の際、お話しているIS/IS NOTである。
日本人でノーベル賞をいただいた天野 浩さんにしても田中耕一さんにしても、なかなかうまくいかなかったものが、何かした拍子にうまくいくことに気付き、それが一体何かを追求したことによって、ノーベル賞の栄誉に輝く発明をしている。

ノーベル賞の話だと難しくなるので、分かりやすい一般的な話でその辺を紹介する。
次に挙げるのは、大手スーパーで実際にあった話である。
 数年前、本部が自信をもって企画した紳士用ワイシャツが、売上目標の70%しか達成できなかった。担当者のYさんは、この売上不振を日本全体をおそった冷夏のせいであると判断し、上司にレポートした。
 上司はざっと数字を見て、全国で山形店だけがまずまずの数字であることを発見した。
 そこで担当者を呼んだ。
 「なぜ山形店だけはまずまずの成績なのか? 山形は冷夏ではなかったのか?」
 「いや、山形も冷夏の影響はあったはずです。山形店がよかったのはたまたまではない でしょうか」
 「たまたまでこんなにいくはずがないよ。山形店と他店とでは何か違いがあるはずだ。 それを注意深く探ってみてくれ」
 さっそくYさんは、山形店と隣県の他店との間に、具体的にどんな違いがあったのかを調査した。その結果、山形店では非常にきめ細かい販売策を実施していたことがわかった。
 6月は気温の上昇しない日が多く、売上が伸びなかったので、7月前半の気温が上昇した時に、すかさずこの商品を店頭に積み上げ、呼び込みをして、大いに売った。それ以降も、売場で一番目立つところに置いていたという。
 また、山形店独自のディスプレイを工夫していたことも判明。そのほか、8月の前半には、店長の判断で相当の値引きをする、という積極策も講じていた。
冷夏も売上不振の要因の一つではあるが、まずまずの売上を示した山形店があるとなれば、必ずしもそれだけとは言い難いということになる。
 このようにうまくいったものには「たまたま」もないことはないが、注意深く探ると違いがあるものである。

 もの作りでも同じような発想をすると意外な原因が明らかになってくることがある。
 亜鉛メッキの溶接作業をしているA社で実際にあった話を紹介する。
 ある日、部下が溶接作業がうまくいかないことを工場長に報告した。部下は「溶接しましたが、うまくいきません。そもそも亜鉛メッキに溶接は無理じゃないですか」と言う。
 そこで工場長は部下に質問した。                         
「溶接がうまくいかないというがどれもこれもダメか?」
 「はい。ほとんどダメです」
 「ちょっと待て! 君は今『ほとんどダメです』と言ったが、それは全部ダメというこ となのか?」
 「いや、ほとんどというのは10回やったら9回はダメということです」
 「ということは、1回はうまくいったのがあったわけだな?」
 「そういうケースはありましたが、それはまぐれじゃないかと思います」
 「こういうことでまぐれということはないだろう。その10分の1の成功は、どういう タイミングの時、どういうやり方をした時にうまく  いったのか、もう一度よく調べて見てくれ」
 事実を探ってみると、昼休みにサイレンが鳴ったあとに溶接したものだけがうまくいっていることが判明した。昼休みになると大半の機械がストップするので、そのことと何か関係があるのではないかと考えられる。よく調べてみると、電圧との関連で溶接がうまくいったことが判明した。

 新型コロナウイルス騒ぎで世界中が大変なことになったが、発生そのものを抑えることは難しいが、発生した後、感染者を拡大させず、死者を防ぐことは人間の知恵でできないことはないと思う。今回、我が国と同じように中国に近いにも関わらず、見事な対策を講じて被害を最小限に抑えた国に台湾と韓国がある。台湾と韓国は我が国同様大騒ぎになってもおかしくないのにならなかったという意味でIS NOTである。大いに学ぶべきである。
 ただ、日本列島すべてに感染者が出たかというとそうでもない。岩手県はなぜかゼロであり、鳥取県もゼロに近い3名である。何が違うかと言えば県知事の力量の違いといえないことはないが、他の府県と違う取り組みをしたはずである。岩手県の達増拓也氏は感染学で一躍有名になった米国ジョンズ・ホプキンス大学で学んだ人である。鳥取県の平井伸治知事は以前からダジャレで何かと話題になっていたがこの人はなかなかの人であった。 恐らく他の府県と違う備えを必ずしたはずである。
 和歌山県は最初こそ有田市の病院で発生したが、その後はゼロである。仁坂吉伸知事もなかなかの人で「政府の言う感染基準なんて最初から信用せず、自分たちの独自の基準で判断して拡大を阻止した」と話している。他の府県の知事と異なる処置をしている。
 他の都道府県の知事さんたちも、状況が違うなんて言い訳を言わず、岩手県・鳥取県・和歌山県がどのような取り組みをして感染を阻止したかを学べば、それは次の機会に活きるはずである。
 日本国政府の指導者は今回も世界の笑い者になったが、現在の安倍政権が台湾・韓国に学ぶことはないだろうから、日本国政府に指示を仰いでもダメなことはどなたも承知しているだろうから、第二次の発生に備えて、今からうまく行かなくてもおかしくなかったが、しかし、そうでなかった岩手県・鳥取県・和歌山県の事例に学ぶべきである。
posted by 今井繁之 at 13:53| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年05月04日

かけがいのない家族



私が朝、自分の事務所に向かう時、途中のバス停に福祉団体が運行していると思われるバスを待っている親子連れに出会う。子供さんは中学生ぐらいの体つきで、失礼ながら甲状腺の異常から来る病気の子供さんではないかと思われる。バスを待っている間、お母さんと身ぶり、手ぶりを交えて楽しそうに会話しており、バスが来るとその子は乗車して、母親に「行ってくるよ」と手を振る。母親は微笑みながら手を振り、バスの姿が見えなくなるまで見守っている。
何組かの親子連れを目撃するので、近くに身体障がい者用の福祉作業所があるのではないかと思う。
身体に障害のある子供さんを持っている親ごさんは大変だと思う。母親だけの責任ではないのに、このような身体に生んでしまい申し訳ないという思いと、そのような子供だから、より愛おしく思われているお母さん方が多いのではないかと想像する。

2020年3月に、2016年、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名を殺害、26人に重軽傷を負わせた元施設職員の植松 聖に死刑判決が出た。この植松はこのような犯行を犯したのは口のきけない重度障害者は生きている価値はないという非常に身勝手な考えからである。
口がきけない重度障害者は本当に生きている価値はないかといったら、それは否である。
19歳で命を奪われた美穂さんのお母さんは「美穂はどこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。うちの娘は好きな『いきものがたり』の曲がテレビCMでかかると、踊り、母親である私に唄を歌ってとお願いします。おやつを美味しそうに食べていました。笑顔がとても素敵な子でした。ひまわりのような笑顔でした。周りの人を癒してくれました。美穂は毎日を一生懸命生きていました。美穂は私の人生のすべてでした」と語っている。
美穂さんは2016年4月にやまゆり園に入所、敷地内の作業室に休まず通っており、ボールペンを組み立てるなどの作業をしていたということである。
生きているだけでも十分価値のある女性であった。

私が以前働いていた会社で職場は異なるが親しくしていた女性Mさんは重度の障害を持つ子供さんを抱えている。
Mさんは職場の同僚であったK君と結婚して数年後に男の子が生まれた。その報告があった際、彼女から「生まれた子供は自分が妊娠中に飲んだ風邪薬が原因で脳に傷害があります。自分の不注意でこのようなことになってしまいました」と言う。なんと慰めてよいか分からず、「とにかく頑張りなさい」と励ましたものの、励ましにもならなかったと反省した。
その後、私はMさんやK君と一緒に勤めていた会社を辞めて、研修講師の道を歩むようになって、交流は途絶えたが、Mさんのこと、その子供さんのことはいつまでも気にしていた。

それから20数年経った西暦2000年前後だと思うが、たまたまMさんの住む千葉県木更津市の企業から講演の依頼があったので、そのついでにMさんの自宅を訪問した。
MさんとK君、そしてお二人の子供である身体の不自由な息子さんが私を迎えてくれた。子供と言ったが20歳は過ぎているはずであり、立派な身体をしているが、立って歩くことはできない。大変申し訳ない言い方だが小さい子供さんのようにハイハイして移動する。言葉は私が理解できるものではなかったが、MさんやK君には分かるようであった。表情は実に豊かであった。Mさんが私を紹介すると嬉しそうな表情を浮かべ、私の側に寄って来た。私は彼と握手して、彼の大きな身体をハグした。彼は嬉しそうな声を上げる。そして私の側からいつまでも離れない。Mさんが「この子が初めて会った人にこんなになつくのは珍しい。今井さんが好きなのかもしれない」と言う。部屋の中にカラオケの機器一式があり、K君が唄をリクエストすると、子供さんはその唄のCDを探してセットする。理解力は十分あると見受けた。
 Mさんが「これを見て」といってアルバムを差しだす。そこには家族全員で旅行した写真があり、その写真の真ん中には車いす姿の息子さんが写っている。
 海外に行った写真を見て、びっくりしている私にMさんは「私たちはこの子に日本だけでなく海外の国も見せてあげたいと思って世界中を旅行している」と語る。
 「この子は何も悪いことをしていない。世の中に何も遠慮することはない。私たちはこの子を家に閉じ込めないで普通の子と同じように外に出すようにして来た。この子は私たちにとってはかけがいのない子です」というMさんの言葉に私は涙が止まらなかった。
 Mさん宅の楽しいひと時に別れを告げようとした玄関先で、K君はMさんの顔を見ながら「私たちはこの子を残して絶対先に死ねない。長生きしなければならない。まだまだ頑張ります」と言う。
 子はかすがいという言葉があるが、この男の子がいたから二人はより結びつきが強まり、お互いに力を合わせて生きて来たに違いないと思った。
 もう一度会いたいと思って、数年後にまたお伺いしたが、「今日は息子は身体障碍者授産施設に行って働いている」と言われ、残念ながら再会は叶わなかった。
 もちろん授産施設からいただけるお金は失礼ながらわずかだと思うが、少しでも収入を得ることによって自立の道を歩もうとしているのだなと思った。
 前述した津久井やまゆり園に入園した美穂さんが作業室でボールペンの組み立てをしていたようにMさんの息子さんも立派に働いているのだ。

 障害を持った子供さんを抱えている家族は大変なご苦労をされていると思うが、それがすべて不幸かというと必ずしもそうでもないのではないかと思う。
 また、障害を持った両親の元に生まれたからといって、子供は常に不幸かというとそんなことはないと思う。
 映画監督の山田洋次さんが『藤沢周平のこころ』(文春文庫)という本の中に「寅さんと藤沢周平さんの眼差し」という題で、渥美 清さんの思い出として次のような文章を載せている。

 「こんな話を渥美さんが話してくれたことがあります。
 小学校時代の彼の同級生に、ともに目の見えない両親を持った子供がいた。渥美さんたち不良仲間は常日頃、「あいつの家ではどうやって食 事をしているのだろう」ということが関心の的だった。で、ある日の夕方、不良仲間が連れ立って彼の家にゆき、破れ堀からそっと貧しい家 の中を覗いてみた。
  夕餉(ゆうげ)の支度ができていて、少年を真ん中にはさんで、目の見えない両親がちゃぷ台に向かい合っている。がんもどきの煮たのと漬物 が、その日のおかず。両親が手さぐりで茶碗のご飯を口に運ぶ。真ん中に座ったその子は、がんもどきを一切れずつ、両親の飯の上に載っけ てやると、そのあと自分もガツガツとご飯を食べる。やがて両親のおかずがなくなれば、またもやヒョイヒョイとがんもどきを両親の茶碗に 載っけてやってはガツガツ食う。お父さんのご飯がなくなると次いでやり、がんもどきを載せ、ガツガツ、ガツガツ。お母さんにもヒョイと 載せ、またガツガツ・・・。
  渥美さんと悪童たちは、その光景をじーっと見ていて、それからうちに帰ったそうです。
  そして翌日から誰も彼のことをからかわなくなった。

 渥美 清さんが感じたように体に障害があるからといっていじめたり、からかったり、
 まして一段下の人間としてみなすのは人間として恥ずべきことであって、まして命を奪うなんて絶対あってはならないことだと思う。
 私の知り合いのMさんご夫婦は苦労話をすることはなかったが、相当なご苦労をされたことと思う。それだけに愛おしく感じ、この子を残して絶対先に死ねないという言葉が出てくるのだと思う。
 身近に障害のある人がいて、その人を、またその人のお世話をしている人の実の姿を見るようになれば、障害があるからといって差別するなんてとんでもないということが分かるようになると思う。
 ぜひ障害のある人を特別な目で見ることなく、必要な手を差し伸べていただきたいものだと切に願っている。


 

 



posted by 今井繁之 at 10:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする