2017年09月22日

映画「最高の人生の見つけ方」を見て


 先日、NHKBSプレミアムで放送された、名優のジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの二人が共演した映画「最高の人生の見つけ方」を見た。
 死期を告げられた初老の男性二人が入院していた病院を抜け出して、亡くなる前にやっておきたいこと、行っておきたいところへと共に旅行して、忌憚なく本音を言い合うという映画だった。
 映画の中で、モーガン・フリーマン扮する自動車整備の仕事一筋の男 カーターは、ジャック・ニコルソン扮する企業人として大成功を収めた男 エドワードに、「天国の入り口で神様から『人生の喜びを見つけたか?』と聞かれたら何と答えるか?」と聞く。さらに続けて、「神様から『人に喜びを与えたか?』と聞かれたら何と答えるか?」と問われる。
 エドワードは前者の質問には「ないことはない」と言うものの、具体的に答えず、後者の質問には「そんなことは考えたことはない」と言って返事を濁す。
 私はこの映画を見ながら自分がそのように問い掛けられたら、何と答えるかと考えた。 前者の質問にはいくつか挙げることはできたが、後者の質問にはエドワード同様、答えに窮した。
 カーターとエドワードという利害関係のまったくない二人は前述の会話以外にも人生について何の腹蔵もなく本音を話し合うという楽しい旅を3か月続ける。
 カーターが体調を崩して二人の旅は終わり、カーターは妻に見守られながら亡くなる。 カーターの葬儀の席でエドワードは次のような弔辞を読む。
 「3か月前までお互いに何も知らない間柄であったが、一緒に旅行した彼(カーター)との3か月は私(エドワード)には最高の時間でした。気付かぬうちに彼に救われたのです。彼が残された時間を私と過ごしてくれたことを心から誇りに思います。私達は互いの人生に喜びをもたらし合いました。だからいつの日にか私が人生に終わりを告げ、天国の入り口の門にたどりついたらカーターに(そこに)いてほしい。証人となって私を迎え入れてほしい」 

 この弔辞から「最高の人生の見つけ方」というタイトルに納得がいった。
 私には「最高の人生」とはこのカーターとエドワードのように期間の多寡はともかく、心の通う人と充実した時間を過ごし、生きる喜びを共にすることであると思えた。
 この映画の二人がそうであったように自分の思いを無理やり抑え込むことなく、それを受け止めてくれる人に率直に話す。聞いた方は賛成できるものには賛意を示し、受け入れられないものには、なぜそうなのかを率直に話す。必ずしも一致点が得られなくとも、互いの思いをキャッチボールできたらそれは大変幸せなことであると思う。
 映画の中でカーターとエドワードは生き方について考えが異なる場面があったが、両者共、自分の考えを相手に強引に押しつけようとしなかった。そういう考えもあるかもしれない、それはそれでいいのではないかと自分と異なる考えを尊重している。
 そして、この映画の中で、エドワードはカーターに「君を相棒カーターと呼んでもいいか?」と聞いている。カーターは微笑みで返事をする。相互の信頼関係ができた証拠であると思った。
 この映画は、信頼できる人イコール心の通い合う人とも言えるが、そのような人とゆったりとした時間を過ごすことが人生の最大の喜びであり、エドワードの弔辞の中にある 『互いの人生に喜びをもたらし合いました』という言葉がそれを物語っている。

 「最高の人生の見つけ方」を見終わった後で、私の畏敬する故高倉健さんが「人生で大事なものはたったひとつ、心です」と語っていたのを思い出した。
 高倉健さんは「心です」と短く言っているが、地位とかお金とかではなく、相手を思いやる心が一番大事で、さらに自分と心の通い合う人が傍らにいて、腹蔵なく話し合うことができたら、それが一番幸せなことであると言いたかったのではないかと思う。
 毎日新聞客員編集委員の近藤勝重さんは個人的に高倉健さんと手紙のやりとりしたり、電話をしたり、時にはお会いしたりする仲であった。健さんとの手紙のやりとりを紹介している著書「健さんからの手紙」の中で、次のような記述がある。
 「生きるって、切ないですねぇ」
 健さんはよくそう言っていました。切ないという言葉には、とりわけ感慨が籠るようでした。
 私自身もそう思います。生きていれば、いろいろ様々なことが身の上に起こります。でも、何とか顔を上げて生きていこう。そういうときに本当に信じられる人がいるかどうか。これは結構大きいんです。生きていくとは、ある意味、他者が信じられるということでもあるからです。
 家族でも、親でもない、他人。身内じゃないんです。特別な他者と言えばいいのでしょうか。他者であることに意味があるんです。
 私にとっては健さんはそんな一人でした。

 近藤さんが健さんをそう思ったように、健さんにとっても近藤さんは心の許せる他者であったと思う。

 近藤さんの言うように、人生を語り合う相手は親・兄弟ではなく、他人がよいのかもしれない。
 私には二つ違いの弟がいる。私は弟を信頼している。弟に確認したわけではないが、弟も私を信頼してくれているみたいだ。弟とは子供の頃もそうだったが、大人になった今でも、何でも話せる仲である。一緒に旅行しても飽きることはない。しかし、人生を語り合う場面があったかというとそれはなかった。
 人生を語り合うには確かに他人の方がよいかもしれないと思う。
 人生、それも晩年の人生において、お互いが心を許して、虚心坦懐に語れる人に恵まれたら、それは一番幸せなことであると思う。

 そういった人に出会えるのも、またお互いに飽きずに話ができるのも、双方がそれ相応のものがあるからだろう。
 自分自身の人間性を高めるようなそれなりの努力を積んで来ていれば、会って話をしていても楽しく、相手から信頼されるのではないかと思う。一言でいえば教養がないといけないと思う。
 映画の中でカーターとエドワードが3か月間、一緒に旅して、話がはずんだのは双方に教養があったからだと思う。
 そもそも「教養」とは何かということになるが、最近読んだ伊藤忠商事の元社長の丹羽宇一郎さんが書かれた「死ぬほど読書」(幻冬舎文庫)の中で教養に関して次のような記述をしている。
 教養の条件は、一つは「自分が知らないということを知っていること」、もう一つは 「相手の立場に立ってものごとが考えられること」である。
 なるほどと思った。
 ただ、最初の条件は少し分かりづらいかと思うので注釈すると、自分は世の中のことは何でも知っているという奢りを持たず、ほんの一部は知っているが、大部分のことは知らないという謙虚な気持ちを持っているということである。
 映画の中のジャック・ニコルソン扮する大実業家エドワードは丹羽さんの教養の条件に正しくぴったりであり、だからモーガン・フリーマン扮する博識のカーターと会話が弾み、3か月間、仲良く、楽しい旅が続けられたのだと思う。
 映画「最高の人生の見つけ方」を多くの人が見て、見終わったら、しばし、己のことを考えてみると、私がそうであったように、感じるものが沢山あるのではないかと思っている。
                                                                         

posted by 今井繁之 at 14:52| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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