2020年05月04日

かけがいのない家族



私が朝、自分の事務所に向かう時、途中のバス停に福祉団体が運行していると思われるバスを待っている親子連れに出会う。子供さんは中学生ぐらいの体つきで、失礼ながら甲状腺の異常から来る病気の子供さんではないかと思われる。バスを待っている間、お母さんと身ぶり、手ぶりを交えて楽しそうに会話しており、バスが来るとその子は乗車して、母親に「行ってくるよ」と手を振る。母親は微笑みながら手を振り、バスの姿が見えなくなるまで見守っている。
何組かの親子連れを目撃するので、近くに身体障がい者用の福祉作業所があるのではないかと思う。
身体に障害のある子供さんを持っている親ごさんは大変だと思う。母親だけの責任ではないのに、このような身体に生んでしまい申し訳ないという思いと、そのような子供だから、より愛おしく思われているお母さん方が多いのではないかと想像する。

2020年3月に、2016年、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名を殺害、26人に重軽傷を負わせた元施設職員の植松 聖に死刑判決が出た。この植松はこのような犯行を犯したのは口のきけない重度障害者は生きている価値はないという非常に身勝手な考えからである。
口がきけない重度障害者は本当に生きている価値はないかといったら、それは否である。
19歳で命を奪われた美穂さんのお母さんは「美穂はどこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。うちの娘は好きな『いきものがたり』の曲がテレビCMでかかると、踊り、母親である私に唄を歌ってとお願いします。おやつを美味しそうに食べていました。笑顔がとても素敵な子でした。ひまわりのような笑顔でした。周りの人を癒してくれました。美穂は毎日を一生懸命生きていました。美穂は私の人生のすべてでした」と語っている。
美穂さんは2016年4月にやまゆり園に入所、敷地内の作業室に休まず通っており、ボールペンを組み立てるなどの作業をしていたということである。
生きているだけでも十分価値のある女性であった。

私が以前働いていた会社で職場は異なるが親しくしていた女性Mさんは重度の障害を持つ子供さんを抱えている。
Mさんは職場の同僚であったK君と結婚して数年後に男の子が生まれた。その報告があった際、彼女から「生まれた子供は自分が妊娠中に飲んだ風邪薬が原因で脳に傷害があります。自分の不注意でこのようなことになってしまいました」と言う。なんと慰めてよいか分からず、「とにかく頑張りなさい」と励ましたものの、励ましにもならなかったと反省した。
その後、私はMさんやK君と一緒に勤めていた会社を辞めて、研修講師の道を歩むようになって、交流は途絶えたが、Mさんのこと、その子供さんのことはいつまでも気にしていた。

それから20数年経った西暦2000年前後だと思うが、たまたまMさんの住む千葉県木更津市の企業から講演の依頼があったので、そのついでにMさんの自宅を訪問した。
MさんとK君、そしてお二人の子供である身体の不自由な息子さんが私を迎えてくれた。子供と言ったが20歳は過ぎているはずであり、立派な身体をしているが、立って歩くことはできない。大変申し訳ない言い方だが小さい子供さんのようにハイハイして移動する。言葉は私が理解できるものではなかったが、MさんやK君には分かるようであった。表情は実に豊かであった。Mさんが私を紹介すると嬉しそうな表情を浮かべ、私の側に寄って来た。私は彼と握手して、彼の大きな身体をハグした。彼は嬉しそうな声を上げる。そして私の側からいつまでも離れない。Mさんが「この子が初めて会った人にこんなになつくのは珍しい。今井さんが好きなのかもしれない」と言う。部屋の中にカラオケの機器一式があり、K君が唄をリクエストすると、子供さんはその唄のCDを探してセットする。理解力は十分あると見受けた。
 Mさんが「これを見て」といってアルバムを差しだす。そこには家族全員で旅行した写真があり、その写真の真ん中には車いす姿の息子さんが写っている。
 海外に行った写真を見て、びっくりしている私にMさんは「私たちはこの子に日本だけでなく海外の国も見せてあげたいと思って世界中を旅行している」と語る。
 「この子は何も悪いことをしていない。世の中に何も遠慮することはない。私たちはこの子を家に閉じ込めないで普通の子と同じように外に出すようにして来た。この子は私たちにとってはかけがいのない子です」というMさんの言葉に私は涙が止まらなかった。
 Mさん宅の楽しいひと時に別れを告げようとした玄関先で、K君はMさんの顔を見ながら「私たちはこの子を残して絶対先に死ねない。長生きしなければならない。まだまだ頑張ります」と言う。
 子はかすがいという言葉があるが、この男の子がいたから二人はより結びつきが強まり、お互いに力を合わせて生きて来たに違いないと思った。
 もう一度会いたいと思って、数年後にまたお伺いしたが、「今日は息子は身体障碍者授産施設に行って働いている」と言われ、残念ながら再会は叶わなかった。
 もちろん授産施設からいただけるお金は失礼ながらわずかだと思うが、少しでも収入を得ることによって自立の道を歩もうとしているのだなと思った。
 前述した津久井やまゆり園に入園した美穂さんが作業室でボールペンの組み立てをしていたようにMさんの息子さんも立派に働いているのだ。

 障害を持った子供さんを抱えている家族は大変なご苦労をされていると思うが、それがすべて不幸かというと必ずしもそうでもないのではないかと思う。
 また、障害を持った両親の元に生まれたからといって、子供は常に不幸かというとそんなことはないと思う。
 映画監督の山田洋次さんが『藤沢周平のこころ』(文春文庫)という本の中に「寅さんと藤沢周平さんの眼差し」という題で、渥美 清さんの思い出として次のような文章を載せている。

 「こんな話を渥美さんが話してくれたことがあります。
 小学校時代の彼の同級生に、ともに目の見えない両親を持った子供がいた。渥美さんたち不良仲間は常日頃、「あいつの家ではどうやって食 事をしているのだろう」ということが関心の的だった。で、ある日の夕方、不良仲間が連れ立って彼の家にゆき、破れ堀からそっと貧しい家 の中を覗いてみた。
  夕餉(ゆうげ)の支度ができていて、少年を真ん中にはさんで、目の見えない両親がちゃぷ台に向かい合っている。がんもどきの煮たのと漬物 が、その日のおかず。両親が手さぐりで茶碗のご飯を口に運ぶ。真ん中に座ったその子は、がんもどきを一切れずつ、両親の飯の上に載っけ てやると、そのあと自分もガツガツとご飯を食べる。やがて両親のおかずがなくなれば、またもやヒョイヒョイとがんもどきを両親の茶碗に 載っけてやってはガツガツ食う。お父さんのご飯がなくなると次いでやり、がんもどきを載せ、ガツガツ、ガツガツ。お母さんにもヒョイと 載せ、またガツガツ・・・。
  渥美さんと悪童たちは、その光景をじーっと見ていて、それからうちに帰ったそうです。
  そして翌日から誰も彼のことをからかわなくなった。

 渥美 清さんが感じたように体に障害があるからといっていじめたり、からかったり、
 まして一段下の人間としてみなすのは人間として恥ずべきことであって、まして命を奪うなんて絶対あってはならないことだと思う。
 私の知り合いのMさんご夫婦は苦労話をすることはなかったが、相当なご苦労をされたことと思う。それだけに愛おしく感じ、この子を残して絶対先に死ねないという言葉が出てくるのだと思う。
 身近に障害のある人がいて、その人を、またその人のお世話をしている人の実の姿を見るようになれば、障害があるからといって差別するなんてとんでもないということが分かるようになると思う。
 ぜひ障害のある人を特別な目で見ることなく、必要な手を差し伸べていただきたいものだと切に願っている。


 

 



posted by 今井繁之 at 10:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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