2018年08月09日

禍福はあざなえる縄の如し


 「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉がある。
 この言葉の意味として「この世の幸、不幸は寄り合わせた縄のように、常に入れ替わりながら変転すること」と広辞苑に出ている。
 その通りだと思うが、私はこの言葉を勝手に、「人生のある時点では一見不幸に見えても、本当に不幸かというとそうでもなく、その不幸がバネになって後年の幸せに繋がることがある」という意味に解している。

 なぜ、そのように解釈するかというと、私には次のような体験があったからである
 私は中学1年から3年(昭和29年から32年)までの間、長崎市内で生活をしていた。 数年前、仕事の関係で長崎市に行った時、原爆の落ちた浦上天主堂の少し先にある赤迫地区で昔、大変お世話になった駄菓子屋さんを探した。
 お世話になったというのは、その駄菓子屋さんで「芋飴」を購入させてもらったからである。駄菓子屋さんはおばあちゃんが一人でやっている小さなお店だった。あれから半世紀も過ぎているので当然だが、そのお店はどこを探してもなかった。
 「芋飴」はこのお店にあるお菓子で一番価格が安かった。1円で3ケもらえた。ただ、1円では買いづらかった。3円あれば堂々と買えた。しかし、その3円だって、ポケットにない日が多かった。貨幣価値が今とまったく違うが、当時の3円は今に直すと50~60円前後ではなかったかと思う。
 「芋飴」はどのようにして作ったものか分からないが、まずまず美味しかった。
 私の好物は今も昔も「あんドーナツ」には変わりはないが、この当時、「あんドーナツ」はいくらしたか分からないが、私にとっては高嶺の花であり、「芋飴」で満足していた。
 この時期、新聞配達をして、月850円の収入を得ていたが、それは全額、母親に渡して、生活費の足しにしてもらったので、金欠病が通常であった。
 お金があったら口惜しい思いをしなくて済んだと思ったことがいくつもあるが、今でもよく覚えているのは紙芝居を堂々と見れなかったことである。
 まだテレビが一般家庭に普及していない時代であり、当時は紙芝居が全盛であった。
 紙芝居のおじさんが来ると群がって紙芝居を見に行った。だけど紙芝居を見るには5円の水飴を買わないといけない。5円あれば紙芝居を一等席で堂々と見ることができたが、水飴を買わない子供はおじさんに追い払われた。5円はなかったので、私達兄弟は紙芝居のおじさんに見つからないように木の陰に隠れてこっそり見ていた。

 口惜しい思いをしていたのは私と弟だけではなかった。
 私には妹が2人いるが、上の妹が小学校に入学する日のつらかったことを今でも覚えている。
 ランドセルを買うお金がなかったので、妹は母親の手作りのズックの物入れを手に下げて入学式に出かけた。母に手を引かれて妹は嬉しそうな表情を浮かべていたが、それを見ていた私の心は辛かった。
 とにかくお金がなかったので、お金になることであれば泥棒以外のことは何でもやった。 その中でも一番稼げたのは電線拾いだった。今は見掛けなくなったが、以前は電柱が道路沿いに立っており、電線の取り換え工事をよくしていた。工事をしている現場に行くと切った電線が下に落ちている。銅線である。長い銅線ではなく、もう使いようのない10センチ前後の短い銅線である。これを鉄くずやさんに持って行くと結構な金額で買ってくれる。
 結構な金額といっても20~30円だったと思うが、これはいい収入になった。
 子供同士で銅線の熾烈な争奪戦になったが、工事に従事しているおじさん達は笑みを浮かながら私達子供が拾うのを許可してくれた。
 全体的には貧しい時代だったが、心優しいおじさんのいる時代でもあった。

 わが家の貧乏物語を語るのが趣旨ではなく、今回は貧乏であったことが必ずしも不幸でなかったということを言いたいのである。
 貧乏といえば確かに貧乏だったが、だからといって卑屈になることはなかった。
 何故かといえば、周りを見渡せば私達と同様の貧乏な家庭が多かったせいだ。
 昭和31年に経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたことを後年知ったが、私の実感では当時はまだまだ貧しい人の方が多かったような気がする。
 最近よく言われる「格差社会」は当時は存在しなかったのではないかと思う。
 お洒落な服装をしている同級生もいたが、それはわずかで多数派はお粗末といえば語弊があるが似たような質素な服装であった。格差がなければ羨むことも少なくてすむ。
 貧乏が理由で学校でいじめに遭うようなこともなかった。
 私達兄弟は仲良しだったような気がする。兄弟喧嘩をしたような覚えがまったくない。 食べ物で争い事があってもおかしくないがそのようなことはなかった気がする。
 今、考えてみると、貧乏だったからお互いを思いやる気持ちが芽生えて、争うことなく、仲良く過ごせたのではないかと思う。
 私より2歳年上の兄は親父の故郷である長野県の伯父の家に預けられていたので、子供は私と弟、妹二人の4人だった。その4人共すでに60歳を超えたが、今でも時折会って昔の貧乏だった時代にあったことを笑い話にしている。貧乏な時代を共有したからこそ、今日まで仲良しの状態が続いているのではないかと思う。

 私自身、貧乏は自分に与えられた運命と受け止めて、他の人を羨むとか、誰かを恨むということはなかった。
 貧乏から抜け出すには子供である自分達が働くしかないと自然に考えるようになり、朝4時に起きての新聞配達を何ら厭わなかった。
 私は中学1年生だからいいとしても、弟はまだ小学校5年生だった。その弟が愚痴の一つも言わず私と一緒に早起きして、私より遠い地域に配達に出かけたのだから、兄として泣き言を言うわけにはいかなかった。
 もし、私達が経済的に恵まれていたら、新聞配達をしようなんてことは思いもよらなかったと思う。貧乏であったからこそ、それを克服するには働かなければならないという気持ちにさせてくれた。働くと決めた以上は多少つらいことがあっても我慢して努めなければいけないという克己心が養われた。
 よく考えてみると、中学1年生で新聞配達して以来、今日まで一貫して働いている。
 遊んでいるという時期はまったくなかった。もちろん、高校、大学と行ったが、高校の時は昼間、工場で働いていたし、大学の時は各種アルバイトで生活費を稼いでいた。
 働くことを何ら厭わないのは少年時代に働くことが当たり前だという生活をしたお陰である。

 不遇であったりすると、自分の努力が足りないことを棚に上げて、親が良くなかった、育った環境がよくなかった、世の中がよくない、自分は運が悪いとか、何かと他に責任転嫁する人が結構いるが、私はそれが大嫌いである。 
 私の少年時代にはそれほど見掛けなかったが、昭和50年代に、自分たちのことを親や先生は分かってくれないと言って、「夜の校舎、窓ガラス壊してまわった」とか「盗んだバイクで走り出す」といった歌詞の唄をもてはやす若者がいたが、自分達を理解してくれないからという理由で他に八つ当たりするなんて行為は甘ったれているだけで、卑怯な行為だと思う。
 年号が昭和から平成になり、すでに30年が経とうとしている今日、そういった若者がより増えてきているように思うが、そんな甘ったれたことを言っても自分を貶めるだけで、何の役にも立たない。
 私はこれまでの人生で沢山の人にお世話になっているが、自分が努力しないでいて、最初から人の助けに縋るということはなかった。
 他人に縋ることはよくないことで、自分の力で生きていくのが当然であると思って今日まで歩んで来た。
 「自助努力の精神」が養われたのは子供の頃の貧乏体験があったお陰である。

 貧乏な少年時代は不幸であったといえば確かにそうだが、兄弟がお互いに助け合うようになったこと、克己心が養われて逞しさが身に付いたこと、そのお陰で自力で進路を切り開くことができたのは、偏に少年時代に貧乏な生活を送ったからであり、冒頭の「禍福はあざなえる縄の如し」の私の解釈はご理解いただけるかと思う。
                                 
posted by 今井繁之 at 13:13| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

これも一局


 『聖の青春』いう名作を書かれた私の好きな作家の一人である大崎善生さんが、将棋の世界では「これも一局」という言葉がよく使われると語っている。
この言葉は対局が終了した後で、戦っていた棋士同士が、「ここでこうすればどうだったか」とか、「こう指していたらあなたはどう指されましたか」といった話し合いをする時に使われる慣用句だという。
 「ここで、銀が上がっていますと?」
 「ああ、まあそれも一局でしょう」というふうに。
 つまり、ある時点で、ある手を選択すると、今日二人で指した将棋とまったく別の将棋になってしまうので、それを検討するということは、もう一局、別の将棋を指すのと同じことになってしまうことである。
 そして、そのようにすでに終わってしまったことをこまかく突き詰めることはあまり意味のあることではなく、終わってしまったことをあれこれいまさら蒸し返すのはやめましょうということである。

 私達の人生においても現実にはそのように歩まなかったが、あり得たかも知れない人生は「これも一局」ということで振り返ることがあるのではないかと思う。過ぎたことであり、元に戻ることは絶対できないのでいまさらあれこれ考えるのは無駄といえば無駄かもしれない。
 そうはいっても凡人の悲しさで、人は自分が現実に歩んできた道以外に別の道を歩んでいたら果たしてどうなっていただろうかと、ふと考えることがあるのではないかと思う。
 私もその一人で、私があり得たかもしれない人生を考えた場合、エポックメイキングともいうべき分岐点がいくつかあるが、その中でも一番大きいのは大学卒業後に入社した会社を思い切りよく辞めるという決断をしたことである。
 私は昭和40年に大学を卒業、勇躍して入社したのは事務機やカメラを生産していたリコーという会社であるが、折からの不況でこの会社には一日も出社することなく、リコー時計というこの会社の子会社に出向になった。そもそもリコーに入社しようと思ったのは、当時、この会社の社長をしていた市村清さんに惹かれたからである。この人の書かれた本を読んで、どうせ働くなら尊敬できる経営者の元で働こうと考えて、市村さんに入社志望の手紙を送付した。その手紙だけで採用が決まったようなもので、私は大学卒業時は就職の苦労というものはまったくしなかった。
 ところが、東京オリンピックの終わった翌年、このリコーの業績不振が表面化して、株価も50円を下回った。そこでリコー本体では採用内定者を全員受け入れるのは困難なのでしばらくの間、子会社で働いてほしいということで大部分の内定者がリコー時計に出向となった。私はリコー時計の富山営業所に配属になり、時計を販売する仕事に従事することになった。朝、腕時計が一杯詰まった大きなバッグを右手に持って営業所を出るが、帰りは左手にも返品となった時計を持って帰るという日々を続けた。なぜ、そうなったかというと、当時のこの会社の製品の品質がよくなかった。私は訪問した時計店のご主人から「オタクの時計はすぐ止まったり、時刻が狂ったりするという不良品が多く、安心してお客様に販売できないので扱いたくない」と言われてしまった。私以外の営業マンも同様だった。そこで、営業所では、まともな営業をしても引き取ってもらえないので、月末になると時計店に商品を勝手に送って売上数字だけは挙げるという信じられないことを行なうことになった。翌月、時計店を訪問して、返品伝票を書いて私達がそれを持ち帰るということを繰り返していた。
 リコー時計に勤務するようになって2ヶ月位経過した時、名古屋で中部地区の営業マン全員を集めての販売会議があった。中部地区のトップである支店長が「この販売不振を脱却するために何でもいいから意見があったら言え」というので、手を挙げて、「こんな販売を続けていたらダメです。本社に品質の安定した製品を早急に作るよう意見具申するべきです。それまでの間は品質が安定している旧高野精密の柱時計中心に営業するべきだと思います」と述べた。支店長は真っ赤になって怒り、「貴様はいつ入社したんだ?」と言う。「今年の春、入社した者です」と答えると「生意気なことを言うな。商売の何たるかを分かってないくせにそんなことを言うのは10年早い!」と言う。「あなたが何でもいいから言えというから日頃考えていることを言ったまでです」と言い返した。「分かった。君の意見は聞きたくない」ということで私の提言は受け入れてもらえなかった。
 (この会社はダメだ。先はない。早いところサヨナラした方がよさそうだ)と考えて、辞表を出して辞めることにした。
 その後、リコーの業績は回復して、私と同様にリコー時計に出向になった人達は短い人は1年後、長い人でも3年以内にリコー本社に戻ることになった。

 リコーの業績が悪くなく、出向にならなかったらどうなったか?
 出向先のリコー時計でも生意気なことを言わずひたすら忍の一字で耐えていたらリコー本社に戻ることができて、本社でそれなりの仕事を任されて、まずまずのポジションを得られたかもしれない。同社はその後、優良会社に生まれ変わり、私と同期入社した人の中には取締役まで昇進した人もいるので私もその程度まで行けたかもしれない。
それもあり得たかもしれない人生である。
 早い段階で見切りをつけて、この会社を辞めたことを悔いた時期もあったが、私の尊敬していた市村さんは会社が立ち直ったのを見届けて、私が辞めた数年後にこの世を去っており、この会社にいたとしても、あまり意味のあるものでなかったような気がするので、早い時期に辞めたことは間違いではなかったのではないかと思っている。

 作家沢木耕太郎さんの書かれた作品に『世界は使われなかった人生であふれている』があるが、「使われなかった」というのは、選択いかんによってはありえたかもしれない人生という意味で使用されているものと解釈している。その作品で人生のある段階で別の決断をしていたらどうなったのだろうかと想像するというものだが、私も大学卒業後勤めたリコーだけでなく、その後勤めたいくつかの会社を辞め、40代の半ばでサラリーマン人生に別れを告げて、研修講師として独立するという決断をしているが、そういう道を歩まなかったら果たしてどうなっただろうかと考えることがある。
 あり得たかもしれない人生、現実にはその人生を歩まなかったから、果たして本当にどのような結果になったかは誰にも分からない。
 あり得たかもしれない人生が果たしてどのようなものになったかは想像の世界になってしまい、それと現実に歩んだ人生とを比較するのは大変難しいが、つらいこと、苦しいことも多少はあったものの、現実に歩んだ人生は今のところ総じてハッピーなので、結果よければすべてよしということで、この生き方でよかったのではないかと思っている。          
posted by 今井繁之 at 13:05| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年07月24日

有難いお叱りの言葉

 
 先般、私がかつて勤務していたソニーの子会社で一緒に仕事をしていた石田秀一(仮名)さんという方が亡くなったという訃報が届いた。仕事の関係で葬儀には顔を出すことができなかったが石田さんのいた木更津の方向に向かって深く頭を垂れて黙祷を捧げた。
 石田さんは私より5歳ほど年上で、生産技術部の部長をしていた。年下の私を可愛がってくれて、私が議長役を務めていた週一回の部長会議の席上でも何度も助けていただいたことがある。                                   
 その石田さんから「今井さんがそんなことをいったら駄目だよ・・・」と注意されたことがある。何のきっかけであったかは忘れてしまったが、石田さんを含めて何人かの人達と歩きながらおしゃべりしていた時に、私が深く考えずに軽口を叩いた時に石田さんの口から出た叱責の言葉であった。私はどのようなことをいったか覚えていないが、言った自分もまずいことを言ってしまったなぁと悔やんでいた時に、石田さんが私だけに聞こえる声で私をたしなめた時に言われた言葉であった。                   
 石田さんは日頃から私のようないい加減な男を大変買ってくれていた。買ってくれたというのも変な表現だが、石田さんは何かあると「今井さんはいい」と言って褒めてくださり、「今井さんはもっと偉くなるのを皆、期待しているよ」と言って励ましてくれた。
 その私が不用意に石田さんを失望させるようなことを言ってしまったのである。
 自分でも恥ずかしく思っていたが、石田さんの口から「今井さんがそんなことを言っては駄目だよ」という言葉は、私のその後の言動にも大いに影響を与えて、周りの人を失望させるような軽口を利いてはいけないという戒めになった。
 私がこの会社を去った数年後、研修講師の仕事をするようになったことを知らせた時、「今井さんはたいしたものだ。いつかは今井さんがそんな風になるかもしれないと思っていたが、その通りになってくれた。ありがとう」というお褒めのお手紙をいただいた。
 ここ数年、石田さんと親しくお会いする機会はほとんどなくなったが、年賀状のやりとりをしており、年賀状にはいつも励ましの言葉があった。何年経っても、「今井さんがそんなことを・・・」と言って、私をたしなめてくれた石田さんの言葉は忘れない。

 二つ目は「人を責める前に自分の無知を責めなさい」という言葉である。
 この言葉は私が30代の後半、ヒューマンアセスメントのアセッサー養成コースという社外研修に参加した時、一緒に参加していた高橋さんという方に言われた一言である。
 講師がやたらと横文字を使うのに閉口した私が、このコース終了後の懇親会の席で隣り合わせた私よりはるか年配、50代の後半と見受けた高橋さんに「いやぁ、あの講師の横文字の乱発には参りましたねぇ。横文字をわざわざ使わないで日本語でお願いしたいものですねぇ」と話しかけた。私より年配者だからこの人も講師の横文字の多さに閉口して 「まったくその通りですねぇ」という返事が返ってくると思ったら、高橋さんは「あなたは私よりはるかに若い。そのあなたが横文字が多いといって講師を責めるのはおかしいよ。その横文字の意味を知らない自分の無知を責めなければいけません。分からなかったら辞書で確認すればよいではないですか」と言う。  その言い方に一瞬、反発を感じたが、確かに高橋さんの言われる通りである。
 高橋さんは「分からない言葉が出てきたら書き留めておいて後で辞書で引けばよいのです」と言う。そう言われる高橋さんの傍らに国語辞典と英和辞典があった。
 後日、高橋さんからこの時の立派な講義録が送られてきた。そこには私が分からなかった横文字に日本語の意味が付してあった。素晴らしい講義録を前にして私は恥ずかしくなった。
 「己が無知であることを恥ずかしいことだと思いなさい」という高橋さんの言葉は私のその後の生き方に大きな影響を与えた。
 自分が理解できない言葉を使われたからといって、使った相手を責めるのではなく、分からないのは己がよくないのであると自分に言い聞かせて、何らかの手段で自分で分かろうとする努力を惜しまないようにした。辞書を必ず持ち歩くようになった。       分からないことの大半は辞書を引けばどこかに出ているものである。         
 高橋さんが言われた「分からないことがあったら分かるように自ら努力しなさい」という教えがなかったら、私は自分の勉強不足を棚に上げて他人を非難していただろうから私にとっては大変有り難い言葉であった。
 高橋さんからいただいた名刺の肩書きはNTT、当時は電々公社であったかと思うが都内にある支店長というものであった。       講義録をいただいた時はお電話でお礼を申し上げたが、その後は疎遠にしており、今現在、どこにおられて、そもそも存命かどうかも分からないので、お会いして「高橋さんの教えのお陰で少しは利口になることができました。ありがとうございました」とご挨拶できないのは大変残念である。

 三つ目は「本当に偉い人は偉ぶらないものだ」という言葉である。
 私がこの言葉で誰かに叱られたということでなく、周りの人がこのようなことを言うのを聞いて、自分も意識して偉ぶるような言動はしないようにしなければいけないと自分に言い聞かせた言葉である。
 この言葉を実感させていただくきっかけになったのは、今は故人となったが、発想法の権威であった保坂栄之介さんという方を私の主催する問題解決・意思決定力強化研修の公開セミナーに迎えた時である。この人は今から20年近く前に若くして亡くなられたので知る人ぞ知るという存在になってしまったが、創造的発想法として定評のあった『イメージコントロール法』を開発した人で、創造力開発の分野では第一人者であった。沢山の著書を出しており、私などは及びもつかない人であった。
 その人が私の開催したセミナーに一受講者として参加されたのでびっくりした。
 セミナーがスタートする前に私が「保坂先生に受講していただくなんて恐れ多いことです」と挨拶すると「今日は私は今井さんの一生徒ですから決して遠慮しないで下さい」と言われる。
 保坂さんのその後の言動はその通りで、私の説明を素直に聞き、疑問点があれば率直に質問する。グループ討議では自己主張はあまりせず、メンバーの意見に耳を傾ける。
 どこにも自分のキャリアをひけらかすようなところはなく、メンバーの一員に徹している。たまたま、保坂さんのグループに栃木県庁から参加されていた私の知り合いでもあった高久さんという若い人がいて、この人が保坂さんに「保坂さん、そんなこと言っちゃダメだよ。何もわかっていないなぁ」と私がハラハラするようなことを遠慮容赦なく言う。 保坂さんはニコニコしながら「いやぁ、高久さんの言う通りです。いい勉強になりました。ありがとうございます」と頭を下げる。
 セミナー終了直前に、私がこの高久さんに「保坂さんは本当は凄い人で、発想法に関する日本の第一人者だよ」と話したら「本当ですか、私は保坂さんに大変失礼なことを言ってしまった。謝らなければいけない。それにしても保坂さんは凄い人ですね。ウチのグループメンバーは皆、保坂さんに好意を持ってますよ。だけどもあの人は一言も『発想法』のことはお話にならなかったですよ。本当に偉い人は偉ぶらないものなんですね」と言う。 この言葉を聞いて、自分の日頃の振る舞いはどうであったかを考えた。
 私はどちらかといえば受講生に侮られないように権威者ぶるような言動をしていたような気がする。
 この一件があって以降、保坂さんをお手本にしなければいけないと自分に言い聞かせて、偉ぶるような言動は厳に慎むように心掛けている。
 そのお陰かと思うが、受講生とフランクに話し合えるようになり、必然的に良好な人間関係を作ることができるようになった。

 この三つ以外にもいくつもお叱りを受けたり、指導を受けたりしたことがある。そのように叱ってくれる人、お手本を示してくれる人に恵まれたお陰で今日まで研修講師としての仕事を続けることができたので感謝、感謝、感謝である。














posted by 今井繁之 at 16:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする