2020年05月04日

かけがいのない家族



私が朝、自分の事務所に向かう時、途中のバス停に福祉団体が運行していると思われるバスを待っている親子連れに出会う。子供さんは中学生ぐらいの体つきで、失礼ながら甲状腺の異常から来る病気の子供さんではないかと思われる。バスを待っている間、お母さんと身ぶり、手ぶりを交えて楽しそうに会話しており、バスが来るとその子は乗車して、母親に「行ってくるよ」と手を振る。母親は微笑みながら手を振り、バスの姿が見えなくなるまで見守っている。
何組かの親子連れを目撃するので、近くに身体障がい者用の福祉作業所があるのではないかと思う。
身体に障害のある子供さんを持っている親ごさんは大変だと思う。母親だけの責任ではないのに、このような身体に生んでしまい申し訳ないという思いと、そのような子供だから、より愛おしく思われているお母さん方が多いのではないかと想像する。

2020年3月に、2016年、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名を殺害、26人に重軽傷を負わせた元施設職員の植松 聖に死刑判決が出た。この植松はこのような犯行を犯したのは口のきけない重度障害者は生きている価値はないという非常に身勝手な考えからである。
口がきけない重度障害者は本当に生きている価値はないかといったら、それは否である。
19歳で命を奪われた美穂さんのお母さんは「美穂はどこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。うちの娘は好きな『いきものがたり』の曲がテレビCMでかかると、踊り、母親である私に唄を歌ってとお願いします。おやつを美味しそうに食べていました。笑顔がとても素敵な子でした。ひまわりのような笑顔でした。周りの人を癒してくれました。美穂は毎日を一生懸命生きていました。美穂は私の人生のすべてでした」と語っている。
美穂さんは2016年4月にやまゆり園に入所、敷地内の作業室に休まず通っており、ボールペンを組み立てるなどの作業をしていたということである。
生きているだけでも十分価値のある女性であった。

私が以前働いていた会社で職場は異なるが親しくしていた女性Mさんは重度の障害を持つ子供さんを抱えている。
Mさんは職場の同僚であったK君と結婚して数年後に男の子が生まれた。その報告があった際、彼女から「生まれた子供は自分が妊娠中に飲んだ風邪薬が原因で脳に傷害があります。自分の不注意でこのようなことになってしまいました」と言う。なんと慰めてよいか分からず、「とにかく頑張りなさい」と励ましたものの、励ましにもならなかったと反省した。
その後、私はMさんやK君と一緒に勤めていた会社を辞めて、研修講師の道を歩むようになって、交流は途絶えたが、Mさんのこと、その子供さんのことはいつまでも気にしていた。

それから20数年経った西暦2000年前後だと思うが、たまたまMさんの住む千葉県木更津市の企業から講演の依頼があったので、そのついでにMさんの自宅を訪問した。
MさんとK君、そしてお二人の子供である身体の不自由な息子さんが私を迎えてくれた。子供と言ったが20歳は過ぎているはずであり、立派な身体をしているが、立って歩くことはできない。大変申し訳ない言い方だが小さい子供さんのようにハイハイして移動する。言葉は私が理解できるものではなかったが、MさんやK君には分かるようであった。表情は実に豊かであった。Mさんが私を紹介すると嬉しそうな表情を浮かべ、私の側に寄って来た。私は彼と握手して、彼の大きな身体をハグした。彼は嬉しそうな声を上げる。そして私の側からいつまでも離れない。Mさんが「この子が初めて会った人にこんなになつくのは珍しい。今井さんが好きなのかもしれない」と言う。部屋の中にカラオケの機器一式があり、K君が唄をリクエストすると、子供さんはその唄のCDを探してセットする。理解力は十分あると見受けた。
 Mさんが「これを見て」といってアルバムを差しだす。そこには家族全員で旅行した写真があり、その写真の真ん中には車いす姿の息子さんが写っている。
 海外に行った写真を見て、びっくりしている私にMさんは「私たちはこの子に日本だけでなく海外の国も見せてあげたいと思って世界中を旅行している」と語る。
 「この子は何も悪いことをしていない。世の中に何も遠慮することはない。私たちはこの子を家に閉じ込めないで普通の子と同じように外に出すようにして来た。この子は私たちにとってはかけがいのない子です」というMさんの言葉に私は涙が止まらなかった。
 Mさん宅の楽しいひと時に別れを告げようとした玄関先で、K君はMさんの顔を見ながら「私たちはこの子を残して絶対先に死ねない。長生きしなければならない。まだまだ頑張ります」と言う。
 子はかすがいという言葉があるが、この男の子がいたから二人はより結びつきが強まり、お互いに力を合わせて生きて来たに違いないと思った。
 もう一度会いたいと思って、数年後にまたお伺いしたが、「今日は息子は身体障碍者授産施設に行って働いている」と言われ、残念ながら再会は叶わなかった。
 もちろん授産施設からいただけるお金は失礼ながらわずかだと思うが、少しでも収入を得ることによって自立の道を歩もうとしているのだなと思った。
 前述した津久井やまゆり園に入園した美穂さんが作業室でボールペンの組み立てをしていたようにMさんの息子さんも立派に働いているのだ。

 障害を持った子供さんを抱えている家族は大変なご苦労をされていると思うが、それがすべて不幸かというと必ずしもそうでもないのではないかと思う。
 また、障害を持った両親の元に生まれたからといって、子供は常に不幸かというとそんなことはないと思う。
 映画監督の山田洋次さんが『藤沢周平のこころ』(文春文庫)という本の中に「寅さんと藤沢周平さんの眼差し」という題で、渥美 清さんの思い出として次のような文章を載せている。

 「こんな話を渥美さんが話してくれたことがあります。
 小学校時代の彼の同級生に、ともに目の見えない両親を持った子供がいた。渥美さんたち不良仲間は常日頃、「あいつの家ではどうやって食 事をしているのだろう」ということが関心の的だった。で、ある日の夕方、不良仲間が連れ立って彼の家にゆき、破れ堀からそっと貧しい家 の中を覗いてみた。
  夕餉(ゆうげ)の支度ができていて、少年を真ん中にはさんで、目の見えない両親がちゃぷ台に向かい合っている。がんもどきの煮たのと漬物 が、その日のおかず。両親が手さぐりで茶碗のご飯を口に運ぶ。真ん中に座ったその子は、がんもどきを一切れずつ、両親の飯の上に載っけ てやると、そのあと自分もガツガツとご飯を食べる。やがて両親のおかずがなくなれば、またもやヒョイヒョイとがんもどきを両親の茶碗に 載っけてやってはガツガツ食う。お父さんのご飯がなくなると次いでやり、がんもどきを載せ、ガツガツ、ガツガツ。お母さんにもヒョイと 載せ、またガツガツ・・・。
  渥美さんと悪童たちは、その光景をじーっと見ていて、それからうちに帰ったそうです。
  そして翌日から誰も彼のことをからかわなくなった。

 渥美 清さんが感じたように体に障害があるからといっていじめたり、からかったり、
 まして一段下の人間としてみなすのは人間として恥ずべきことであって、まして命を奪うなんて絶対あってはならないことだと思う。
 私の知り合いのMさんご夫婦は苦労話をすることはなかったが、相当なご苦労をされたことと思う。それだけに愛おしく感じ、この子を残して絶対先に死ねないという言葉が出てくるのだと思う。
 身近に障害のある人がいて、その人を、またその人のお世話をしている人の実の姿を見るようになれば、障害があるからといって差別するなんてとんでもないということが分かるようになると思う。
 ぜひ障害のある人を特別な目で見ることなく、必要な手を差し伸べていただきたいものだと切に願っている。


 

 



posted by 今井繁之 at 10:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

学歴コンプレックスは不要


 コロナウイルス騒ぎで大学生が親からの仕送りが減少したり、あるいはアルバイトができなくなり、授業料が払えず、大学を退学せざるを得なくなる、そうなると高卒ということになるが政府としては、このことをどう考えるかと立憲民主党の蓮舫議員が安倍内閣総理大臣に詰め寄ったと報じられていた。
 高卒の何が悪いのだという論議まで発展して、蓮舫議員は言葉足らずであったと謝罪したということだが、確かに高卒だって立派なもので、大学卒業の資格を持っていなければダメなんてことは全くない。
 でも日本社会では学歴がとやかくささやかれるのは確かである。
 かくいう私は明治大学商学部を昭和40年に卒業している。大学で多くのことを学んだと胸を張って言えないが、一応最終学歴は大学卒業である。明治大学は超一流の大学ではないが、まあまあの大学と自認しており、そこを卒業しているので学歴そのものに対するコンプレックスはまったくといってよいくらい持ち合わせていない。
 しかし、もし私が大学を卒業してなかったら、最終学歴に対するこだわりを結構持っていたかもしれない。

 学歴に対するこだわりということで思い出すのは、少し以前の話であるが、S県にあるソニーの子会社の社長になったN氏のことである。私はN氏とそれほど親しい関係ではないが、この会社の総務部長をしていたO氏とは親交があり、そのO氏から聞いた話であるが、N氏が社長就任直後、地方紙の記者が今後の経済の見通しも含めてどのような方針で会社を運営していくつもりかを聞きたいということでインタビューに来たという。 N氏はその取材に快く応じ、自分の抱負を闊達に話し、記者もいい記事ができたと満足して帰った。その後、記者が「記事構成上、最終学歴を聞かしてほしい」と言ってきた。 N氏は「私の学歴なんてどうでもいいではないか」と言う。しかし、記者は「最終学歴を載せるのは通例になっているので、ぜひご協力いただきたい」と懇願するものの、N氏はどうしてもイエスとは言わない。 一応引き下がったものの、あきらめきれない記者は総務部長のO氏に「社長さんはなぜか最終学歴を明かしてくれない。なんとか教えてもらえないでしょうか?」と頼み込んできたという。社長であるN氏が明かさないものを部下が勝手に明かす訳にはいかない。 O氏にはN氏がなぜ最終学歴を明かすことに躊躇するのかはある程度分かっていた。 というのはN氏の最終学歴は都内の○○中学卒業であり、N氏は自分が中学卒業だけであることを恥じているふしがあったからである。 N氏は昭和××年、中学を卒業後ソニーに入社し、製造現場での目覚ましい活躍を買われて、昇進昇格を果たし、本社の部長から子会社の社長になったというキャリアの持ち主である。そんなに恥じることはないとO氏には思えるが、当人は中卒であることを知られることを大変嫌がっており、O氏の説得にN氏は「どうしても学歴を載せなければならないのであれば記事はボツにしていただいてもいっこうに構わない」と言い張り、とうとう幻のインタビューになってしまった。
 O氏は「両者の間に入って苦労しました。Nさんはなぜあんなに学歴を知られることを嫌がるのかなぁ?」と私に問い掛ける。
 N氏が中卒という学歴を明かすことになぜこだわりを持つかは高校、大学を順調に卒業したO氏には理解できない部分があるかと思うが、私にはN氏の気持ちがよく理解できた。
 私はN氏同様、中学を卒業して、町工場に勤務した。O氏とは異なり、定時制高校に進学、そこから明治大学商学部に入学し、そこを卒業するという道を歩んだ。
 この経歴は恥ずべきものではないにも関わらず、私もN氏同様、自分が中学を卒業して就職したことを明らかにすることに躊躇した経験がある。
 それは私が一番最初に出版した『問題解決の技術』(日本実業出版社)という本のラストに著者略歴を書いてほしいと出版社から依頼されたが、この時、中学卒業してマルヤス産業(現マルヤス機械)に入社したという事実を書くべきか否かでしばらく迷った。
普段、私の講師プロフィールは「昭和40年、明治大学商学部を卒業、リコー、ソニー等に勤務、その後独立して研修講師となり、これまでに東芝、日立、NHK、シャープ等の企業の幹部社員の指導をしている」というような内容にしており、最初はその通り書くつもりであった。 履歴書ではないから多少の省略があっても罰せられることはない。ただ、その前年、縁があって古巣のマルヤス機械という会社で研修をしたばかりで、その研修の際、この会社の皆さんに歓待してもらったことを思い出した。もし、著者略歴欄に中学を卒業して入社したマルヤス機械を省略してあったら、かつての同僚、上司はどんな思いをするだろうか。この人達はきっと(今井は調子のいいことをいっていたが、ウチで働いていたことを恥ずかしく思っているのだ、仲間だと思っていたがそうではなかった)と落胆するのではないかと考えてしまった。考え過ぎといえばそれまでだが、やはり省略せずに書くべきではないかと考えた。
 そのように書こうと心に決めたものの、まだ多少の迷いがあり、その当時、仕事を手伝ってくれている友人のS氏にその悩みを話すと、彼は「そのような記述をすると、研修講師としての価値にマイナス影響があるかもしれませんね」と言う。
 この言葉で迷いがふっきれた。 そもそも中学卒業して悪いことをしていたわけではないし、中卒、工員経験があるからといって人を低く見るような方とはこちらがお付き合いをご遠慮すればよいので、次のように正直に書いた。
 「昭和17年東京生れ。昭和32年中学卒業後、マルヤス機械㈱入社。4年間の工員生活を体験後、昭和36年明治大学入学。昭和40年同大学商学部卒業。その後、㈱リコー、ソニー㈱等に勤務………………」と。
 このように書けたのはやはり私が大学に行っていたからである。もしも、私が大学に行ってなかったらN氏同様、「中学卒業、就職した」という事実を隠した確率は高い。 私は大学に進んだものの、大学ではこれといって力を入れて勉強したものはない。自分に責任があることだが、大学は卒業したもの、身に付いたものは正直言ってほとんどない。 大学に行って一番よかったことは何かと問われたら学歴コンプレックスを持たないですんだことである。極端にいえばそれしかないといってよい。

大学を順調に卒業した人はそんなことは考えたこともないと思うが、中学卒業だけの人、高校卒業だけの人から見ると、大学卒業者は相当な勉強をした人であると錯覚している。 もちろん実態は違って大部分の大学卒業者はたいした勉強はしていない。なぜそれが分かるかといえば自分が大学時代そうであったからであり、私の周囲にいた友人も私と似たようなものであったからである。これは明治大学の学生だけかといえば、そんなことはなく、交流のあった他の大学の学生もほとんど同じであった。
  私達の時代だけかというと、現代においても同様であり、我が家の長男はW大学の法学部に行っていたが、私同様、勉強に励む姿はほとんど見かけることはなかったが無事卒業している。私立だからそうかもしれないが、国立だってたいして変わらないと思う。 ただ、文系はそうだが理系は私の次男を見ていると遅くまで勉強していたので多少異なるかもしれないが……………。
 例外はあるとしても、今も昔も文系の大学生はそれほど勉強しておらず、自分自身の体験から、大学卒業しているからといってたいした学問なんか身に付いていないと自信を持って言える。
 しかし、私はそういう実態を知っているから、自分の最終学歴が中学、高校卒業だからといって、大学卒業者に対してコンプレックス持つ必要はまったくないと言えるが、やはり大学生活を経験したことのない人は大学卒業者に対して学歴コンプレックスを持つのはやむを得ないかもしれない。 しかし、大学なんて出ていなくても仕事を立派にこなしている人は沢山おり、前述のN氏が胸を張って「私は中卒です」と言えば、「中卒なのに子会社といえども社長になったのはたいしたものだ」と感心する人の方が多く、軽蔑する人は少ないと思う。

  言うまでもなく、どこの学校を卒業したかという学歴よりもどのようなことができるかという実力の方が大事である。偏差値が最高に高い大学を優秀な成績で卒業したからといって会社の仕事でそのとおり優秀な成績を示すとは限らない。
 いささか古い話で恐縮だが、N氏の勤務先であるソニーの社長・会長であった故盛田昭夫氏が昭和41年、『学歴無用論』と題する著書を出して、そこで、「いったい学歴とはどういう意味、価値を持つものなのか。会社は激しい過当競争のさなかにあって、実力で勝負しなければならないというのに、そこで働いている人は、入社前に教育を受けた『場所』で評価されるというのは、どう考えても納得がいかない」と言い、さらに「その人が、どの大学で、何を勉強してきたかは、あくまでもその人が身に付けたひとつの資産であって、その資産をどのように使いこなして、どれだけ社会に貢献するかは、それ以降の本人の努力によるものであり、その度合いと実績とによって、その人の評価が決められるべきである」と述べている。 盛田氏の言われる通りであると私も思う。
 あの人は中卒だとか、高卒だとかと学歴にこだわるのはおかしいことであると思う。 私の講師仲間には高校を卒業後、すぐ就職して、その勤務先で与えられたチャンスを生かして、社内講師として通用する力量を身に付け、会社を辞めてプロ講師となり、すばらしいとの評価をいただいている人が沢山いる。
 今と違って私と同世代の人達は大学に進学できた人はわずかであり、一流大学に十分入学できる位の成績優秀な人が普通高校ではなく、工業高校、商業高校に進み、卒業後就職した例は多い。N氏や私のように昼間の高校には進学できず中学卒業で実社会に出た人もいる。
学歴は商品のラベルであると言った人がいるが、まさしくその通りで、大学を卒業しても大いに学んだ人はそれほど多くなく、大学にこそ行かなかったが実社会で大いに学んだ人は沢山いる。大学に行けなかったからといってコンプレックスを持つ必要はまったくないと私は言いたい
posted by 今井繁之 at 10:05| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

「障害者」という文字に異論あり

多くの人は「障害者」という文字からどんなことを思い浮かべるだろうか?
身体が自由な人というのが一般的だろう.ただ、「障害者」の「害」という文字から、何か害をなす人、あるいは迷惑をかける人と解する人も多少はいるのではないかと思う。
傷害者といえば他人の身体に傷害を加えたものであり、「障害者」は決して他人に害を与える人ではない。
私の知人の会社では「障害者」ではなく、「害」の代わりにひらがなを使って「障がい者」という文字を使うようにしているという。
「障がい者」であれば、害をなす人、迷惑をかける人と思う人は稀だと思う。
身体または精神に何らかの障害を持つ人に確認したわけではないが、その人達に聞けば、「障害者」という文字ではなく、「障がい者」という文字を使っていただきたいというのではないかと想う。
そもそも障害者はどのような定義がされているかというと、「身体障害・知的障害・精神障害(発達障害を含む)・その他の心身の機能に障害があり、障害及び社会的障壁によって継続的に日常生活や社会生活に相当な制限を受ける状態にある人」とされている。
国際連合の障害者の権利制限では「障害者とは先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の欠如のために、普通の個人または社会生活に必要なことを、自分自身で完全、または部分的に行うことができない人」となっている。
何か一段下の人というか差別的に見ているような印象を受けるのは私だけだろうか?

少し以前の話であるが、私と同じ思いを持った人が、ネット上で次のような問いかけをしたことがある。
「障害者」というのは差別になるので、もう少し丁寧な言い方に言い換えることはできないですか?
私はどうしても障害者といういい方は障害者差別しているみたいで嫌いです。これって私だけですか? 他にいましたらどんどん意見を聞かせてください。

これに対してベストアンサーに選ばれた回答が下記の通りだが、この回答にはびっくりするとともにこれをベストアンサーにした人たちの良識を疑った。
私は「障害者」と呼ぶのは差別になると思いません。 近頃は障害者にたいする配慮からか、「障碍者」、「障がい者」などというように表記を変えて表現しているマスコミなどを見ます。結局はどれも同じ「しょうがいしゃ」という音なので、このように変化させるのは絶対おかしいと思います。いきすぎです。
障害者の方たちもあまり気にしていない方々の方が多いらしいですよ。
障害を持っている方を「障害者」と呼ぶ。どこが悪いのでしょうか?
私は「障害者」の害の字を「がい」とか,「碍」にするほうが、逆にそんなのは乱暴な言葉狩りです。

この回答者の年齢がどのくらいの人なのか分からないが、私はこの人の意見には賛成しない。失礼ながら、このような考え方しかできないこの人は感受性があまり豊かではないのではないかと思ってしまう。

障がい者を蔑視するような人がいるのは確かだが。それが政治家となると始末が悪い。
2020年3月22日の朝日新聞の朝刊の文化・文芸欄に”「障害者」この時代に合った言葉か"という記事があった。そこにあった記事の概要は次の通りである。
弁護士会館前の掲示板に額縁のようなものから「障害者」と書かれた紙の下半分がはみ出し、シュレッダーにかけられている。その下には紙くずの山になっている。掲示板に貼られた紙の左上に「この国の一番の障害は『障害者』という言葉だ」とのメッセージが添えられている。この紙は2月21日から25日の間、掲示されていたということである。
設置したのは、知的障害のある人が描いたアートをネクタイやハンカチなどにして販売している岩手県花巻市にあるベンチャー企業を経営する松田崇弥さんという方だった。
掲示するきっかけは安倍内閣総理大臣の国会答弁であったという。掲示する2カ月ほど前、「桜を見る会」の招待者名簿廃棄の経緯について、安倍氏は「シュレッダーの空き状況や、担当である障害者雇用の短時間勤務職員の勤務時間などとの調整を行った結果です」と述べたが、松田さんはこの安倍氏の答弁は障害者が作業をしたため廃棄に時間がかかったと言わんばかりと受け止め、日本の『障害』に対する姿勢を象徴していて悲しいとツイートした。松田さんは「障害者だということが国民に向けた言い訳として成立すると判断されたのだとしたら、『障害』には『欠落』というイメージがあるのではないか。それを『障害』イコール『違い』にシフトしたいと思った」と振り返る。

松田さんの4歳上のお兄さんは自閉症で知的障害がある。同じように楽しそうに生きているのに「障害者でかわいそう」ときめ付けるような言い方をされることがあり、違和感を抱いてきたという。
その新聞記事の後半に「障害が存在するのは人にではなく社会にだ」という意見があったが、正しくその通りだと思った。
なぜそう思ったかというと、つい先日、NHK アーカイブス「あの日、あのとき、あの場面-『良司君 旅立ち 全盲大学生・18年の記録』-」という番組を見たからである。
その番組は今から26年前の1994年、新居浜西高校に通学していた星加 良司さんと
いう方が全盲というハンディがあったにもかかわらず、東大にストレートで合格した姿を取り上げた番組であった。
全盲の少年が身体が普通の少年と同じ学級で生活することにまずびっくりした。新居浜市の小学校、中学校、高校いずれも全盲の良司君を特別扱いにしないで迎え入れるという覚悟にも感動した。級友も良司さんを自分たちの仲間の一員として対等に遇したのも素晴らしいと思った。
小学校6年生の時の運動会のクラス対抗リレーの場面があったが、リレーの一員として加わった良司君に級友たちは「良ちゃん、僕と一緒に走ろう、僕について来いよ、さあ行こう」と呼びかけ、仲良しの河合君は良司君の3メートル先を走り、思い切り大きな声で「良ちゃん、頑張れ、君ならできるよ」と励まし、リードし、見事完走させた。
この日のことを、良司君はその後の高校生全国英語弁論大会でこの仲間たちの友情に大変感謝していることを述べ、弁論の最後に「ともに生きたい、すべての人達と共に」と語っている。
学校関係者や級友や両親の励ましを受けながら東大に合格するまでの日々が描かれているが、その受験勉強に当たっては愛媛県だけでなく、兵庫県、奈良県、東京都等の約300名の点字ボランティアの方が教材の作成に協力してくれたという。
良司君本人の努力もさることながら家族を含めて善意あふれる周りの人の協力がなければ学業生活は続かなかったと思う。私は障害のある人を特別視することなく、同じ人間として手助けするのが当然という素晴らしい人達の存在にこの日本国も悪くないと感じた。

番組の終わりでリレーの伴走をした河合君が東大に進むことになった良司君に「良司は障害のある人に勇気を与えるだけでなく、障害のない人にもよい影響を与えて欲しい。身体の恵まれた人にも考えさせるようになって欲しい」とはなむけの言葉を贈ったが、星加 良司さんの現在は東大の准教授をされており河合君の要望した通りの人生を送っているとお見受けした。
この番組の最後にゲストとして出演していた俳優の東ちずるさんは「この世の中で障害がある、不自由、不便があるのは障がい者の側にあるのではなく、障がい者を受け入れる自分たち・社会の側にあることに気付かされました」と語っていた。
障害は本人も家族も望んだものではない。しかし障害のある人は障害のない人と共に一緒に生きていく権利がある。障害のある人を快く受け入れるのはこの人間社会の義務である。

障害者という文字表現に戻るが、民放はともかくNHKは「障害者」ではなく、「障がい者」という画面表記にしてほしいと NHK の知人にお願いしたことがあるが、いまだに「障害者」のままである。
NHK が障害者という文字を使い続けるのは、公式見解ではないが、元 NHK アナウンサーであった堀 潤氏がどこかで語っていたが、「『障害』はその人自身ではなく社会の側にあり、『障害者』とは社会にある『障害』と向き合っている人達と捉えているからだ」ということである。
何か屁理屈を言っているように感じたが、やはり「障害者」ではなく、「害」はひらがなの「がい」にして「障がい者」という表示にして欲しいと思う
posted by 今井繁之 at 09:31| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする