2017年10月10日

借りは返せても恩は返せない      

 
 私の好きな作家の一人、袖木裕子さんが書いた『検事の本懐』という本の中で現在、検事を務めている主人公が高校時代に起こした同級生との乱闘騒動時に自分にも累が及ぶことを厭わず主人公を救ってくれた級友の天野弥生さんが恐喝されて困っているとの相談を受け、解決してあげた時に「お前には返さなければならない借りがある」と語り、そして「借りを返せば、恩が返せるわけじゃない」と亡くなった父親の口癖を言おうとして、その言葉は飲み込むという場面があった。
 この「借りを返せば、恩が返せるわけじゃない」という言葉は、本当にその通りだと私の心を強く打った。
 金銭はもちろん、借りたもの、お世話になったことに対して、後日、それ相応のお返しをしたら、それですむかというと、それではすまないことがあるかと思う。
 例えば、苦境に陥り、下手すれば奈落の底に落ちたかもしれないといった時に救ってもらった際の恩は返さなければいけないが、それがなかなか難しい。なぜならば救ってもらったその瞬間は過ぎ去っており、その状況をそっくりそのまま再現することはできないからである。

 人には忘れられない恩義というものが多かれ少なかれ、あるのではないかと思う。
 私にもいくつかそのようなことがあるが、その中でも最大のものが大学生の時、私が大変御世話になった家庭教師先の関さんご夫婦への恩義である。
 大学に入学するべく信州から上京して来た私には経済的裏付けはまったくなかった。
 貯金はないし、親からの仕送りはまったく期待できない。東京に行けば何とかなるという実にいい加減な気持ちで大学に入学した。
 一番先にしたことは駿河台にある本校の学生課に行き、奨学金の申請であった。日本育英会の奨学金は月額3000円でちょうど授業料と同額であった。
 持参したお金はほんの少しあったが教科書代と下宿の借り賃で大半は消えてしまった。
 とにかくアルバイトで生活費を稼ぐしかない。
 学生課のボードで「家庭教師を求む」という案内を見て、それに応募した。学生課の職員に「入学したばかりの一年生にはアルバイトを紹介しない」と言われたが、そこは強引にお願いして応募させてもらった。
 10人ほど応募者がいたが、私が最後で、面接に来ていた奥さんはあまりに沢山の人に会ったので最初の人の印象はどこかに行ってしまったということで、「最後の人でいいです」ということで幸運なことに私は採用された。
 奥さんに連れられて浅草橋にあるご自宅にお伺いした。奥さんのご主人である関 守さんは自宅兼工場で従業員10数名と共に製本業を営んでおり、オヤジさんと呼んだほうがふさわしいイガグリ頭のいかにも職人という感じの人だった。私が中学卒業後、町工場で働きながら夜間高校で勉強して大学に入学したと話すと、「それは素晴らしい。息子の指導をぜひお願いしたい」と言われる。そして、「高校1年生の息子は大学に行かせようとは思っていない。学校の授業についていける程度の指導で結構です。私は仕事で忙しいので息子の面倒を見るのは難しいので、息子の兄貴になったような気持ちで接していただけると有り難い」と言う。
 さらに「この人だったら娘の面倒も見てもらってもいいのではないか?」と奥さんに話す。奥さんは「私もそう思う。実は中学2年生の娘がいますが、女の子なので女子大生を家庭教師に迎えようと思っていたが、あなただったら大丈夫みたいなので娘の面倒もお願いしたい」と言われる。私は大変まじめな青年と受け止めてもらったようである。
 最初の条件は息子さん一人、週2回で月額4000円の家庭教師代だったが、二人ということなので、週4回、家庭教師代は倍の8000円をいただけることになった。
 奨学金の3000円と家庭教師代の8000円を合わせると11000円ということになり、何とか生活していける目途がついた。
 関さん宅に家庭教師としてお伺いするのは夕食時の18時、私の夕食は用意されているので、毎週4回、夕食代は不要ということになった。さらに最初のうちは家庭教師が終わると夜食が用意されていたが、2,3時間前に食べたばかりなので、そうは食べれない。 そこで奥さんが夜食用にということで300円の小遣いを毎回くれる。一週で300円×4回=1200円、4週となると合計4800円、結構なお金をいただくことになった。
 さらにオヤジさんが月に一回ぐらい、奥さんがいない時を見計らって、胴巻からお金を出して、「今井さん、たまには遊びに行っているかい? 男は少し遊びに行った方がいいよ」と言って3~4000円くれる。
関さん宅の家庭教師の仕事は途中で息子さんが高校を卒業したので、教えるのは娘さん一人となったが、家庭教師代8000円は変わらなかった。
 家族のように扱ってくれて、「今日はお風呂に入っていきなさい」と言われて、お風呂から上がると新しい下着が用意されている。
 オヤジさんはプロボクシングが大好きな方で、当時はファイテイング原田や海老原博幸という素晴らしい日本人ボクサーがいて、テレビで世界タイトル戦が頻繁に放送されていた。一人で見ていてもつまらないということで、オヤジさんは私が息子さんや娘さんを教えている部屋に来て、「今井さん、何をしているのだ? 試合が始まるぞ!」と言う。「僕は今、教えている最中です」と言うと、「そんなの子供たちに勝手にやらせておけばいい。タイトルマッチの方が大事だ。すぐこっちに来なさい」と言われ、お言葉に甘えて、オヤジさんと一緒にビールを飲みながら世界タイトルマッチ戦を見るということがしばしばあった。そもそも家庭教師として、息子さんや娘さんに教えるだけの技量が私にあったかというと怪しいもので、二人に私の苦手としている数学はまったく頼りにならないということを見抜かれてしまい、数学以外の教科を教えるということになった。
 教えているのか、おしゃべりしているのか分からないような2時間を過ごすのがいつもだった。
 関さんは私には親、いや親以上の存在であった。いくら感謝しても感謝しきれない。
 「ありがとうございました」を何百回繰り返しても罰は当たらない。
 「有難い」という言葉があるが、これはめったに受けることのできない恩恵、好意、配慮に接することから来ているというが、関さん宅の家庭教師は正しく「有難い」であった。 
私は関さんご夫婦にお世話にならなかったら私の大学生活は破綻を来して途中で大学を中退することになったのではないかと思う。

 私にとっては関さんご夫婦は恩人、それも大恩人である。その大恩人に私が恩返しをしたかというとまったくそのようなことをしていない。
 年賀状の一通も出すこともなく、ご無沙汰のまま30年以上が過ぎた。
 少しは生活に余裕ができていた頃に、お世話になったお礼に年末にお歳暮を贈ることを考えてもおかしくないのにそのようなことに気付かなかった。
 ところが、今から20年前の1997年に日本実業出版社から「意思決定の思考法」というタイトルの本を出したが、ある日、突然、この本を関さんに見ていただこうと考えた。 なぜ、そんなことを考えたのか、よく覚えていないが、この本を持参して浅草橋の関さん宅を訪問した。一別以来、30数年が過ぎていた。ご健在だと思っていたオヤジさんは亡くなっていたが、奥様は健在であった。家業を継いだ息子さんもお元気だった。研修講師の仕事をしていることを話して、この本にあるようなことを講義していると話すと、奥様は「やはり今井さんは私達が見込んだとおりの人だった。お父さんは、今井さんはいつかきっと立派な人になると言っていた。仏壇にこの本を供えて、お父さんに『今井さんは私達が思ったとおりの立派な人になりました』と報告しなければいけない」と言われる。「私はそんな立派な人間ではありません」と言うものの、「こんな難しい本を書くのだからたいしたものです」と褒めていただいた。
 奥様が仏壇に本を供えると言われた時に、「お線香を上げさせてください」と言うべきだったのにそういったことを思い付かないまま辞去してしまった。
 それから3年後にも自分史ともいうべき「人生やってみなきゃわからない」を書いた時にも関さんにお世話になったことを書いたこともあり、その本を持参してお伺いしたが、この時も奥様に褒めていただいたが、仏壇にお線香をあげるのを失念してしまった。
 それから7年後、浅草橋に行く用事があり、お家があった近くまで行ったが、懐かしい建物はなくなっており、近所の方に聞くと、製本業は廃業して、奥様は数年前に亡くなられたと言われた。もっと早くお伺いするべきであったと反省したが手遅れであった。

 大恩人である関さん、それも御霊前にお線香をあげることさえしないで今日まで能天気で生きて来た私は、「恩知らず」と謗られても仕方がない。
 借りはまったく返してなく、恩返しだってまったくしていない。
 恩返ししたくても関さんご夫婦はすでにこの世におられないのでその術がない。
 「恩返し」ができない以上「恩送り」をするしかない。「恩送り」は以前、友人から聞いた言葉だが、自分と同じような苦しみ、迷っている人に自分が助けてもらったようなことをしてあげれば、う回して恩返ししたことになるということである。
よって、自分のできる範囲で、私を頼って来た人に関さんご夫婦同様、親切な振る舞いをしてあげれば、関さんご夫婦に恩返しをしたことになると考えて、それを心掛けることにしている。もちろん、経済的にそれほど余裕はないので、関さんご夫婦のような多額な援助はできないが100分の1でもよいから自分のできる範囲でしたいと思っている。








posted by 今井繁之 at 11:19| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

映画「最高の人生の見つけ方」を見て


 先日、NHKBSプレミアムで放送された、名優のジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの二人が共演した映画「最高の人生の見つけ方」を見た。
 死期を告げられた初老の男性二人が入院していた病院を抜け出して、亡くなる前にやっておきたいこと、行っておきたいところへと共に旅行して、忌憚なく本音を言い合うという映画だった。
 映画の中で、モーガン・フリーマン扮する自動車整備の仕事一筋の男 カーターは、ジャック・ニコルソン扮する企業人として大成功を収めた男 エドワードに、「天国の入り口で神様から『人生の喜びを見つけたか?』と聞かれたら何と答えるか?」と聞く。さらに続けて、「神様から『人に喜びを与えたか?』と聞かれたら何と答えるか?」と問われる。
 エドワードは前者の質問には「ないことはない」と言うものの、具体的に答えず、後者の質問には「そんなことは考えたことはない」と言って返事を濁す。
 私はこの映画を見ながら自分がそのように問い掛けられたら、何と答えるかと考えた。 前者の質問にはいくつか挙げることはできたが、後者の質問にはエドワード同様、答えに窮した。
 カーターとエドワードという利害関係のまったくない二人は前述の会話以外にも人生について何の腹蔵もなく本音を話し合うという楽しい旅を3か月続ける。
 カーターが体調を崩して二人の旅は終わり、カーターは妻に見守られながら亡くなる。 カーターの葬儀の席でエドワードは次のような弔辞を読む。
 「3か月前までお互いに何も知らない間柄であったが、一緒に旅行した彼(カーター)との3か月は私(エドワード)には最高の時間でした。気付かぬうちに彼に救われたのです。彼が残された時間を私と過ごしてくれたことを心から誇りに思います。私達は互いの人生に喜びをもたらし合いました。だからいつの日にか私が人生に終わりを告げ、天国の入り口の門にたどりついたらカーターに(そこに)いてほしい。証人となって私を迎え入れてほしい」 

 この弔辞から「最高の人生の見つけ方」というタイトルに納得がいった。
 私には「最高の人生」とはこのカーターとエドワードのように期間の多寡はともかく、心の通う人と充実した時間を過ごし、生きる喜びを共にすることであると思えた。
 この映画の二人がそうであったように自分の思いを無理やり抑え込むことなく、それを受け止めてくれる人に率直に話す。聞いた方は賛成できるものには賛意を示し、受け入れられないものには、なぜそうなのかを率直に話す。必ずしも一致点が得られなくとも、互いの思いをキャッチボールできたらそれは大変幸せなことであると思う。
 映画の中でカーターとエドワードは生き方について考えが異なる場面があったが、両者共、自分の考えを相手に強引に押しつけようとしなかった。そういう考えもあるかもしれない、それはそれでいいのではないかと自分と異なる考えを尊重している。
 そして、この映画の中で、エドワードはカーターに「君を相棒カーターと呼んでもいいか?」と聞いている。カーターは微笑みで返事をする。相互の信頼関係ができた証拠であると思った。
 この映画は、信頼できる人イコール心の通い合う人とも言えるが、そのような人とゆったりとした時間を過ごすことが人生の最大の喜びであり、エドワードの弔辞の中にある 『互いの人生に喜びをもたらし合いました』という言葉がそれを物語っている。

 「最高の人生の見つけ方」を見終わった後で、私の畏敬する故高倉健さんが「人生で大事なものはたったひとつ、心です」と語っていたのを思い出した。
 高倉健さんは「心です」と短く言っているが、地位とかお金とかではなく、相手を思いやる心が一番大事で、さらに自分と心の通い合う人が傍らにいて、腹蔵なく話し合うことができたら、それが一番幸せなことであると言いたかったのではないかと思う。
 毎日新聞客員編集委員の近藤勝重さんは個人的に高倉健さんと手紙のやりとりしたり、電話をしたり、時にはお会いしたりする仲であった。健さんとの手紙のやりとりを紹介している著書「健さんからの手紙」の中で、次のような記述がある。
 「生きるって、切ないですねぇ」
 健さんはよくそう言っていました。切ないという言葉には、とりわけ感慨が籠るようでした。
 私自身もそう思います。生きていれば、いろいろ様々なことが身の上に起こります。でも、何とか顔を上げて生きていこう。そういうときに本当に信じられる人がいるかどうか。これは結構大きいんです。生きていくとは、ある意味、他者が信じられるということでもあるからです。
 家族でも、親でもない、他人。身内じゃないんです。特別な他者と言えばいいのでしょうか。他者であることに意味があるんです。
 私にとっては健さんはそんな一人でした。

 近藤さんが健さんをそう思ったように、健さんにとっても近藤さんは心の許せる他者であったと思う。

 近藤さんの言うように、人生を語り合う相手は親・兄弟ではなく、他人がよいのかもしれない。
 私には二つ違いの弟がいる。私は弟を信頼している。弟に確認したわけではないが、弟も私を信頼してくれているみたいだ。弟とは子供の頃もそうだったが、大人になった今でも、何でも話せる仲である。一緒に旅行しても飽きることはない。しかし、人生を語り合う場面があったかというとそれはなかった。
 人生を語り合うには確かに他人の方がよいかもしれないと思う。
 人生、それも晩年の人生において、お互いが心を許して、虚心坦懐に語れる人に恵まれたら、それは一番幸せなことであると思う。

 そういった人に出会えるのも、またお互いに飽きずに話ができるのも、双方がそれ相応のものがあるからだろう。
 自分自身の人間性を高めるようなそれなりの努力を積んで来ていれば、会って話をしていても楽しく、相手から信頼されるのではないかと思う。一言でいえば教養がないといけないと思う。
 映画の中でカーターとエドワードが3か月間、一緒に旅して、話がはずんだのは双方に教養があったからだと思う。
 そもそも「教養」とは何かということになるが、最近読んだ伊藤忠商事の元社長の丹羽宇一郎さんが書かれた「死ぬほど読書」(幻冬舎文庫)の中で教養に関して次のような記述をしている。
 教養の条件は、一つは「自分が知らないということを知っていること」、もう一つは 「相手の立場に立ってものごとが考えられること」である。
 なるほどと思った。
 ただ、最初の条件は少し分かりづらいかと思うので注釈すると、自分は世の中のことは何でも知っているという奢りを持たず、ほんの一部は知っているが、大部分のことは知らないという謙虚な気持ちを持っているということである。
 映画の中のジャック・ニコルソン扮する大実業家エドワードは丹羽さんの教養の条件に正しくぴったりであり、だからモーガン・フリーマン扮する博識のカーターと会話が弾み、3か月間、仲良く、楽しい旅が続けられたのだと思う。
 映画「最高の人生の見つけ方」を多くの人が見て、見終わったら、しばし、己のことを考えてみると、私がそうであったように、感じるものが沢山あるのではないかと思っている。
                                                                         

posted by 今井繁之 at 14:52| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

小さいからできる


 私は富山県庁から県庁職員を対象に問題解決・意思決定力強化の研修を行って欲しいと依頼されて、毎年富山市に行っている。
 今年も7月に行ったが、今回は行ったついでに富山市の隣にある舟橋村という小さな自治体にお伺いした。
 なぜ、舟橋村に行ったかというと、この村は全国で一番面積が小さいにも関わらず、人口・世帯数がどんどん増えていることと、年少人口(全人口に占める15歳未満の人口割合)が何と日本で一番高い(21.8%)ということに興味を持ったからである。
 何のアポイントもなしに舟橋村役場を尋ねて、名前と職業を名乗った上で、「この舟橋村はなぜ人口・世帯数が増えているのかが知りたくて来ました」と話すと、「村長がおりますがお会いになりますか」と言われる。それは有り難いということで図々しくもお目にかからせていただいた。
 応接室でお会いした村長の金森勝雄氏は「今、出かけるところで時間は十分取れないが少しだけでよかったらどうぞ」と言われて、大略、次のようなことを話してくれた。
 20年前には当村の人口は1000人を割りそうになったが、今は3000人を超すようになりました。なぜ人口が増えたかというと、舟橋村は市街化調整区域から外れて住宅を建てることができるようになったからです。ここから富山市の中心に車で15分あれば行けるということで富山市のベッドタウンになりました。
 村の面積が3.47㎞なので、小学校・中学校が一つづつ、隣り合わせにあり、舟橋小学校を卒業した子供は当然舟橋中学校に行くことになります。村役場の周辺に消防署、村民会館等、保育園等公的施設が集中してあり、村民の方が用を足すのに何かと便利です。
 富山地方鉄道の越中舟橋駅が近くを通っており、富山駅まで15分と通勤に便利です。
 この駅の二階には村立図書館があり、図書館カードの発行枚数は村の人口の6倍の18,000人です。近郊の方がこの図書館を利用していることになります。住民一人当たりの図書の貸出冊数は32冊(年間)、これは日本一です。
 遠くには富山の山々がありますが、村内には大きな山も川もありません。よって土砂対策費も河川修理費も不必要です。
 毎年、富山市からこの舟橋村に転居してくる人がおり、それ以外にも子育てによい環境ということで人口は年々増える傾向にあります」
 小・中学校がそれぞれ1校しかなく、それも隣接してあるので小・中学校一貫教育ができます。村の面積が狭いから木目の細かい行政サービスができます。公的施設の連携もスムーズに行きます。これはすべて小さい村だからできるのです」と最後に言われた。
 公立学校でも中・高一貫教育をしているところはあるが、小・中学校一貫教育は少ないかと思う。小学校一つ、中学校一つという小さい村だから実現できたのだろうが、だからといって全国には舟橋村と同様の自治体があると思うが、小・中学校一貫教育に取り組んでいるところが果たしてあるだろうか?
 舟橋村の行政担当者が小さいことをマイナス材料と考えず、むしろプラスの材料に変えるべく工夫しているところに人口・世帯数が増えている理由があると私には思えた。

 「小さい村だからできる」という言葉を聞いた数日後、東日本大震災で多大な影響を受けた地域の復興振りを伝えているNHKのテレビ番組の中で三陸岩手の住田町の町長多田欣一氏が同じような言葉を語っているのを見た。
 「住田町」を知っている人はあまり多くはないかと思うが、私は住田町、大船渡市、陸前高田市の二市一町で形成する『気仙広域連合』というところから研修を依頼された関係でそれぞれの市と町にお伺いしている。開催会場は回り持ちということで初年度は大船渡市、二年目は陸前高田市、三年目は住田町だった。大船渡市に最初に行った時、帰りは車で東北新幹線の水沢江刺駅まで送ってもらったが、車に乗っていること約1時間、両サイドは森また森で、人家らしき明かりはまったくなかった。運転してくれている人が「ここが住田町です」と言われた。
 そのようなことで住田町は広大な面積の森林の町であるとのイメージが焼き付いていた。
 テレビ番組の中でその住田町が津波や地震で自宅を失った住民のために木造の仮設住宅を建設したと報じていた。その番組を見ながら海岸に接していない住田町に津波で自宅を流された人が果たしていたのかと疑問に思った。
 津波の直接の被害を受けなかったと思われる住田町がなぜ仮設住宅、それも木造の仮設住宅を作るようになったかというと、大津波の発生によって近隣市の陸前高田市、大船渡市、釜石市に甚大な被害が発生し、親類等を頼って住田町への避難者が600人を超え、町役場の災害対策窓口には住宅に関する問い合わせが数多く寄せられたからだという。
 住田町は森林・林業日本一であり、さらに町の財産である森林を利用した仮設住宅建設はできるという。
 そうはいっても、自然災害等に遭って仮設住宅が必要になった際、仮設住宅を建設する権限?は都道府県知事にあり、県が建物を提供するのが原則であり、市町村が勝手に建設してはいけないという決まりがあるということである。
 仮設住宅を必要とする市町村長が県に申請して、認可されたところで、市町村が県からの発注を受けたという形で、設計や入札、議会の議決など様々な手順を得て、建設に移らなければいけないそうだ。建設までには相当な時間がかかるのが通常であるという。
 しかし、住田町の近田欣一町長は「義を見てせざるは勇無きなり」と考えられたかどうかは定かではないが、近隣の市から住田町に避難してきた人達のために、前述の手順を全て無視して、「専決」という町長の意思で契約できる、議会にかけないやりかたで仮設住宅を建設することにした。だから住宅建設はスピーディに進んだ。
 町長は震災の10日後くらいに町議会議員全員を集めて「専決」でやることにしたと話して了承してもらった。その際、議員から「町長やってくれ。ただしやるからには、『住田町は出し惜しみをした』と言われないように、『よくやった』と言われるようにやってくれ」と言われたと話す。
 予算額は約2億5千万円、町有地に110棟を建設、いずれもプライバシーを守れる一戸建てであり、かつ町産材(主にスギ材)をふんだんに使用した木のぬくもりを感じることのできる建物であった。
 住田町は今回の震災の発生する以前から町の基幹産業である木材を使用した仮設住宅を建設するという構想があり、その準備もできていたという。町長の要請に町内の建設業組合の千田組合長以下の組合員の皆さんが総力を挙げて協力してくれて、独自に工夫した半日で建設が可能な工法でまたたく間に木造の仮設住宅を建設した。それもプレハブの建設費より低価格で建設したという。
 番組の中で近田町長は「小さい町だからできた」と語っていたが、その町長の言葉は人口約6千人の町なので、町議会議員の数も少なく、議員の皆さんとは意思疎通が容易にでき、さらに建設業組合の皆さんとも日頃から大変親しい関係ができていたことを指しているかと思う。
 この住田町の仮設住宅の建設で素晴らしいと思ったことは、仮設住宅の建設は都道府県知事の認可が必要という絶対条件(MUST)をクリアできる方法はないかと必死になって探して、緊急事態の場合は「専決」という抜け道?があるということを見つけたことである。
 住田町の事例は昨年の熊本市や今年の福岡県の朝倉市で活きたと思う。

 「絶対的制約条件(MUST)はあっても、頭を使って必死に考えれば、それをクリアできる方法はあるものです」ということを私の知り合いの自治体の首長から聞いたことがある。
 それを私に語ってくれたのは栃木県宇都宮市の隣にある高根沢町の町長をしていた高橋克法氏である。
 私が「自治体の首長、それも規模の小さい市町村の首長は権限は少なく、絶対守られなければならない制約条件(MUST)が多く、ご苦労されることが多いでしょう」と話した時に高橋町長に言われた言葉が前述の「頭を使って考えればMUSTをクリアできる方法は見つかるものです」というものである。高橋町長は「役人はMUSTをやりたくない言い訳に使っていることが多い。何としてもやろうとしたらMUSTをクリアできる方法は見つかるものです」と言う。
 高根沢町は町を挙げて循環型農業を目指して、分別回収した「生ごみ」を原料として有機肥料を製造販売している。そこに至るまでの間にいくつかの絶対的制約条件(MUST)があったと思うが、それをクリアできる方法はないかと必死に考えて実行に移した。
 ごみの分別回収は町の皆さんに協力してもらわなければ実現できない話であったが、町長自身が反対派のいる町内会の集会に出かけて、「なぜ分別が必要なのか」を説いて回ったという。一度行っても説明に納得いただけなければ再度行き、それでもダメであれば更に行くという熱意が実って最後には町民の大多数の方のご理解を得て分別に成功したということである。
 私は高橋町長からの依頼で、高根沢町には5回ほどお伺いして、町役場の職員約100名に問題解決・意思決定力強化の研修を行わせてもらった。
 高橋氏は町長を3期務めた後、栃木選挙区から自民党公認で参議院議員に立候補、当選して現在は自民党参議院議員である。
 高橋氏に確認していないが、循環型農業が実現できたのは住田町の近田町長と同じく 「小さい町だからできた」と言われるのではないかと思う。

 平成の大合併で、「大きいことはいいことだ」ということで、小さな自治体は大きな市・町と一緒になったケースが多い。でも今回紹介した自治体のように、小さな自治体であっても、首長を始め職員が頭をフルに使うと活路が開けるということを申し上げたい。






posted by 今井繁之 at 17:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする