2018年03月02日

 美輪明宏さんの『ヨイトマケの唄』に思う


 2018年1月にNHK BSで『美輪明宏とヨイトマケの唄』というスペシャル番組があり、美輪明宏さんが2012年の紅白歌合戦で歌った場面が再現された。
 この番組では「ヨイトマケの唄」の成り立ちや紅白唄合戦の際の舞台裏が紹介された。
 2012年の紅白歌合戦に出場した美輪さんはこの時、77歳であったという。私は美輪さんのような方は紅白歌合戦に何度も出場していると思っていたが、意外にもこの人はこの時が紅白初出場であったということである。テレビ画面に写し出された美輪さんは普段の長い金髪・艶やかなドレス姿ではなく、短い黒髪、黒い衣装という姿、そしてピンスポットの照明のみという演出で『ヨイトマケの唄』を朗々と歌った。場内に響き渡った美輪さんの歌声に場内の至るところですすり泣きが始まり、インターネット上でテレビ放映中から絶賛と感嘆の声が飛び交ったということである。

 私自身も久し振りに聞いた美輪さんの歌声に涙した。
 久し振りというのは私は以前、ナマで美輪さんの歌声に接したことがあるからである。
 私が美輪さんの『ヨイトマケの唄』を初めて聞いたのは1968年(昭和43年)か、あるいは1969年(昭和44年)である。当時働く人が音楽を観賞する団体として労音という組織があり、私が勤めていた会社はそれに加入していた関係で色々な歌い手の唄を聞いた。当時、美輪明宏さんは「丸山明宏」と名乗っており、当時、丸山さんは「おとこおんな」とか「シスターボーイ」とか言われ、女装する人であることは知っていた。
 私は丸山さんの唄に興味があったわけでなく、丸山さんが私が少年時代を過ごした長崎市の出身ということなので、それに惹かれて聞きに行った。私の席は一番前であった。丸山さんは私の目の前で歌っていた。丸山さんは美しかった。男性に美しいというのはおかしいかもしれないが、男女の垣根を超えて、とにかく美しかった。今の美輪さんと違って実にスリムな体付きで、だけど力強い朗々たる声で歌っていた。最初は「メケメケ」とか「愛の賛歌」といったシャンソン系の唄が多く、私は今一つ唄の世界に没入できなかった。
切りのいいところで帰ろうかな?と失礼なことを考えていたところに何の前触れなしで、「父ちゃんのためなら エンヤコラ」という言葉で始まる『ヨイトマケの唄』を歌い始めた。
 歌っている姿はそれまでのなよなよしたものではなく、大地をしっかり踏み締めて、このか細い体のどこから、こんな力強い声が出てくるのか不思議なくらいの声量で歌い始めた。この『ヨイトマケの唄』を歌っている丸山さんは完全な男性であった。私はその朗々たる歌声に圧倒された。
 特に次に記す後半の歌唱の部分で私は涙を堪えることができなかった。

 何度か僕もグレかけたけど
 やくざな道はふまずにすんだ
 どんなきれいな唄よりも
 どんなきれいな声よりも
 僕をはげまし慰めた
 母ちゃんの唄こそ世界一
 母ちゃんの唄こそ世界一
 今も聞こえるヨイトマケの唄
 今も聞こえるあの子守唄

 父ちゃんのためならエンヤーコラ
 子供のためならエンヤーコラ

 私が泣いたのは私にはこの唄と同じような実体験があったからである。
 私が中学生の時、私の母はこの『ヨイトマケの唄』にあるように、工事現場で荒くれ男たちに混じって「子供のためにならエンヤーコラ」と言って綱を引いていたことがあった。 それを思い出したので自然と涙が流れて来た。確かこの時はお付き合いしていた女性と一緒だったが、彼女は私の涙にびっくりしたようでハンカチを貸してくれた。
 丸山さんの歌声に心は揺さぶられて涙したのは私だけでなく、会場のあちこちで涙をふいている人がいた。
 あれから半世紀近くが経ったが、あの日の丸山さんの姿と歌声はかすかに残っている。
 
BSの放送のあった直前に音楽プロデューサーでもある佐藤 剛さんがお書きになった『美輪明宏とヨイトマケの唄』(文芸春秋)という本を読んだ。
 その本に紹介されていたが、丸山明宏さんがこの唄をマスコミの前で最初に歌ったのは1963年(昭和38年)の12月7日、NHKの「夢で会いましょう」という番組の中であったという。しかし、この時はさほど話題にもならなかったという。私も「夢で会いましょう」は毎回見ていたがこの時のことは私の記憶にはまったくない。
 その後、丸山明宏さんが1965年の3月に東京の日経ホールで小規模のリサイタルを開き、そこでこの『ヨイトマケの唄』を歌い、会場でこの唄を聞いた人の多くが泣いたという評判をNET(現在のテレビ朝日)の木島則夫モーニング・ショーのスタッフが聞き、丸山さんに出演を依頼、4月5日に6分50秒ある唄をノーカットで歌ったという。
 放送直後から放送局にはもう一度聞きたいという要望の電話や手紙が6万通以上あり、4月27日、再び歌ったということである。
 ところが、しばらくしたら、この唄に「働く土方のあの唄が 貧しい土方のあの唄が」という歌詞があるが、この「土方」という単語が差別的であるということでテレビ局やラジオ局が自粛してしまうことになり、放送メディアから姿を消してしまったという。
 「土方」という言葉がなぜ差別的なのか私には分からないが、マスメディアから締め出された丸山明宏さんは私が見た労音の舞台などでこの唄を歌うことになったという。
 私が生でそれも特等席?で見ることができたのはそのお陰である。
         
 この唄は自分を育ててくれた母を恋うる唄であり、幼い日々のことを思い起こし、母に感謝の気持ちを伝える唄であると思う。
 メディアが放送を自粛したのでこの唄は表舞台から姿を消したが、しばらくしたら、丸山さん以外の他の歌手、それも意外と思われる人がこの唄を歌っているのが面白い。
 五木ひろしさんが1974年(昭和49年)にTBSテレビで歌ったということである。五木さんの母親は小さな田畑だけの農業では食べていけないので、男たちに交じって日雇い労働をしていたという。一日も早く母を楽にしたいとスター歌手を目指して苦労した結果、その夢がかなっての初リサイタルの際、母への感謝を込めてこの『ヨイトマケの唄』を歌ったという。そのリサイタルの模様をまとめて放送するに当たって、五木さんの希望でもあったと思うが、TBSの砂田実というディレクターは「放送禁止など何するものか」という気概で番組を作り、『ヨイトマケの唄』を放映したという。
 桑田佳祐さんもこの唄を歌っているということである。
 私は桑田さんは湘南の裕福な家の子供かと思っていたが、そんな恵まれた境遇ではなく、母親と父親は夜の飲食業を営んでおり、親に遊んでもらった記憶がないという。ヨイトマケの唄に描かれている孤独な子どもと外で働く母親の関係が他人事と思えなかったようで、子どもの頃にこの唄を聞いて、なぜか歌えるくらいに曲を覚えていたということである。
 色々な機会にこの唄を思いを込めて歌っており、ソロのベストアルパム『トップ・オブ・ザ・ホップス」にもこの唄が収録されているという。
 五木さん、桑田さん以外にも泉谷しげるさん、槇原敬之さん等10名ぐらいの歌い手が歌っている。

 これだけ多くの人がこの『ヨイトマケの唄』を歌うのはなぜだろうかと考えると、音楽にはまったくの素人の私が思うに、この唄は単に母を恋うる唄ではなく、働く人への応援歌であることが多くの人に支持された理由ではないかと思う。
 母を恋うる歌であれば、川内康範作詞 猪又公章作曲の森進一さんが歌った名曲「おふくろさん」があるが、『ヨイトマケの唄』には額に汗して真面目に働いている人を励ます歌詞があり、その部分が共感を呼んで、多くの人の心を打ったのではないかと思う。
 エンヤコラというほんものの労働歌が入っており、歌詞の中に働く人の姿をストレートに表現した言葉があり、それが働く人の応援歌であると思う所以である。

 姉さんかぶりで泥にまみれて
 日にやけながら汗を流して
 男にまじって綱を引き
 天に向かって声をあげて
 力の限りに唄っていた
 母ちゃんの働くとこを見た
 母ちゃんの働くとこを見た

 そもそも丸山明宏さん、今日の美輪明宏さんがこの唄を作るきっかけは、東京に出て来て、歌手として活躍していたある日、銀座を歩いているとき、偶然に長崎時代の旧友と工事現場で再会、その彼が苦学の末、高校・大学を卒業して今やエンジニアとして立派に活躍しているという話を聞いて、彼が小学校時代に級友に「ヨイトマケの子」と呼ばれ、からかわれたこと、その母親が汚れた格好を恥じることなく授業参観に来たことを思い出してこの歌詞を一気に書き上げたということである。
 この『ヨイトマケの唄』は世の中に受け入れてもらうのに時間を要したという。だが丸山さんがあきらめず歌い続けているうちに、演奏会場で「父ちゃんのためなら エンヤコラ 母ちゃんのためなら エンヤコラ もうひとつおまけに エンヤコラ」という出足の言葉を当初はバカにして聞いていた人達も、私がそうだったように、丸山さんのこの唄にかける真剣な思いが伝わり、次第に真剣なまなざしに変わり、この唄の世界に共鳴していったということである。
この唄が生まれたのが1963年、それから55年が経過しているが、時代は変わっても、この唄を聞いて涙するのは私だけではないと思う。
とにかく美輪明宏さんの歌う『ヨイトマケの唄』は素晴らしい。美輪さんにはいつまでもお元気で、この唄を朗々と歌って欲しいと願っている。それと共に、このようないい唄は時代を超えて受け継がれて欲しいと思う。
              
posted by 今井繁之 at 12:56| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月12日

 正々堂々と戦う人には拍手を惜しまない



 2018年、大相撲初場所で見事に優勝したのは前頭5枚目の「栃の心」という力士であった。彼は12年前、はるばる東欧のジョージアから日本に来て、怪我で幕下下位まで落ちたが、周りの人の励ましもあり、幕内にカムバック、この初場所 14勝1敗で優勝した。
 千秋楽の前日の14日目に優勝を決めたが、対戦相手の松鳳山を寄り切りで破った際、満員のお客様の多くの方が惜しみない拍手で彼の勝利を称えた。
 アナウンサーのインタビューに流暢な日本語で語っていた「栃の心」の目には涙が光っていた。優勝したことはもちろんだが、お客様の大部分は日本人であり、その日本人の観客から万雷の拍手で褒めたたえられたのが嬉しくて涙が出たのだと思う。
身長190センチ、体重170キロ、筋肉隆々の立派な体の持ち主で、立ち会いに変化することはまったくなく、前へ前へと出ていく、見ていても非常に好感の持てる力相撲で相手力士を圧倒していた。
 私も含めてお客さんが彼の優勝を祝福したのは彼の正々堂々たる取り口にあったと思う。 正々堂々とした取り口で勝利を納めれば、民族なんて関係なく称賛することを、「栃の心」の優勝は証明した。

 同じ大相撲の力士に白鵬という力士がいる。彼は最高位の横綱であり、優勝回数40回という素晴らしい記録の持ち主である。前人未踏の素晴らしい優勝回数を記録しており、強い力士であることは認めるが、私もそうだが真に相撲好きの人はこの白鵬関が優勝しても万雷の拍手を送らない。なぜかというと正々堂々とした相撲を取らないからである。
 以前、きわどい勝負で物言いがついて取り直しになった時に彼は自分はモンゴル出身ということで人種差別を受けているというニュアンスの発言をした。  
 他の力士が白鵬と戦って勝つと横綱という最高位の力士を破ったということもあるが、日頃から彼の相撲振りを快く思っていないお客様は勝った力士に万雷の拍手を送る。
 白鵬は自分がモンゴル人であるからそのような差別を受けると思い込んでいるようである。しかし、白鵬が横綱に昇進した当時のように、正々堂々とした相撲を取っていればこんなことにはならないと思う。
最近の白鵬は横綱なのに立ち上がりの瞬間、相手の顔面、それも目の辺りを狙って張り手をする、さらに時折、肘に巻き付けたサポーターでエルボーキック?を見舞う。このエルボーキック?で脳震盪で倒れる力士もいる。プロボクシングでグラブを固いものにするという細工をして不正を犯した外国人ボクサーがいたが、白鵬のサポーターも一度確認した方がよいのではないかと思ってしまう。たまたま白馬富士という力士の暴行事件があった関係で、横綱審議委員会のトップが記者会見して、「白鵬は15番中、12番で張り手やエルボーキックのような肘打ちを相手力士に見舞っており、最高位の横綱としてふさわしくない」と発言した。
なぜ、これまで黙認していたのかという不満があるが、白鵬が最高位の横綱に期待される「受けて立つ」という正々堂々とした相撲を取っていたら、今回、優勝した栃の心に惜しみない拍手があったように白鵬にも勝つ度に多くのお客様から拍手があるかと思う。

 そもそも『正々堂々』とは何なのかと疑問を持つ人もいるかもしれないので少し述べさせていただく。
 この『正々堂々』という言葉に一番馴染みがあるのは甲子園で行われる高校野球の全国大会で選手の代表がする選手宣誓である。
 「私達選手一同はスポーツマンシップに則って正々堂々と戦うことを誓います」と宣言するが、広辞苑を引くと、そこに『正々堂々』の解釈として、「卑劣な手段を用いず、態度が立派なさま」とある。
 『正々堂々』について、日本相撲協会の前理事長である先代の境川親方(元横綱佐田の山)が、以前、新聞のコラム欄に相撲の世界を例にして、次のようなことを語っている。
 「名横綱双葉山という偉大な相撲取りは一度も待ったをしなかったと言われるが、待ったはあった。それは相手がいい加減に立ってきた時だった。『そんなものじゃ十分でないだろう。きちっと仕切って思う存分、力の出るような体勢で立て。もう一回やり直しだ』と押し返したという。またある時、この双葉山に竜王山という力士が最初の蹲踞(そんきょ)の姿勢からいきなり突っ掛けた。この奇襲攻撃にも双葉山は慌てず騒がず受けて立ち、土俵にたたきつけた。その時、竜王山の師匠であった出羽の海親方は激怒した。『どこからいっても勝てないからといって飛んでいきやがって。双葉関のところに行って謝ってこい』と指導したという。この双葉関の土俵態度、出羽の海親方の指導こそ「正々堂々」ということである。
 (蹲踞=相撲や剣道で、つま先立ちで深く腰を下ろし、膝を開いて上体を正した姿勢)
 
境川親方の言葉のように、『正々堂々』とは、卑怯な手段を使わない、ごまかしをしない、ごまかしを許さない振る舞いということになる。
ただし、かっての舞の海関、現在の宇良関のように明らかに軽量の力士が自分よりはるかに大きい力士に正面から、それも力相撲で勝負に挑まなければいけないということはなく、立ち会いに多少の変化があっても、それは「技」ということで卑怯ということにはならない。

 相撲や野球のように、スポーツの世界では敵と味方に別れて対戦することが多いが、個人の対戦であれ、チームとしての対戦であれ、正々堂々と正面から力を競い合って戦えば、スポーツの本当に好きな人であれば勝っても負けても、このような戦いをした選手に心から拍手を送る。
 昨年、NHKBSで日本からメジャーリーグに挑戦して活躍した選手の特集があったが、その1人、野茂英雄というピッチャーを取り上げた番組を私は見た。彼はメジャーでノーヒットノーランを2回達成しているが、最初に達成した試合で、あと1インニング投げて相手チームの打者を抑えたらノーヒートノーランを達成するといった時に、球場全体が彼の素晴らしい記録達成を応援する場面があった。対戦相手のレンジャーズのファンも立ち上がって野茂投手に声援を送った。日本人であるとか米国人であるとかといった出身国に関係なしに、力いっぱい投げる野茂投手の正々堂々たるピッチングに感動したのである。
 野球が好きな米国人だからそのような振る舞いをしたのではなく、日本人だって正々堂々と戦い、素晴らしい結果を出す選手には敵・味方に関係なく万雷の拍手を送る。
 私はそのようなことを実際に目にしたことがある。野茂選手同様、メジャーに身を投じて素晴らしい活躍をした選手にイチローがいる。このイチローがメジャーに行く前々の年、彼の所属していたオリックス・ブレーブスがパ・リーグで優勝、セ・リーグを制覇したヤクルト・スワローズと対戦した。私はヤクルトを応援するべく息子と一緒に神宮球場に観戦に行った。イチローは5年連続首位打者を取るという素晴らしい成績を挙げた選手であり、走ってよし、打ってよし、守ってよしという三拍子そろった選手であることは承知していたが、私の応援するヤクルトの対戦チームの選手であり、オリックス側の応援席からイチローの活躍を願って声援があるのは当然のことであり、ヤクルト側応援席からイチローに声がかかるなんてことはまったく想像していなかった。ところがイチローが打席に入ると、オリックス側のイチローコールと共に、何とヤクルト側の応援席から「イチロー、イチロー」というコールがあり、球場全体がイチローコールに包まれた。
 今まで何回もプロ野球を観戦してきたが、こんなことは初めてだった。びっくりすると共に素直に感動した。
イチローという選手が素晴らしい成績を残した選手であること、実績を残す為に努力していること、手抜きせず全力でプレーすること、まさしく正々堂々と戦う選手であることを知っていて、敵・味方が惜しみない声援を送ったということである。

 スポーツの種目が何だろうと、選手の出身国がどこであろうとも、正々堂々とプレーする人には惜しみない拍手を送るべきであり、今回、正面から堂々と攻める相撲を取り優勝の栄誉に浴した栃の心関に日本人観客の多くが惜しみない拍手を送ったことを日本人の1人として誇りに思う。                            
posted by 今井繁之 at 10:59| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年01月23日

裏切りを許してくれた人 

        
 
 私は長年、問題解決・意思決定力強化の研修の講師の仕事をしているが、時折り、「独立して研修講師として成功された秘訣は何でしょうか?」と聞かれることがある。
果たして、成功したといえるかどうか分からないが、独立して約30年、何とか講師業を続けられた最大の理由はソニーを辞めた後、お世話になったデシジョンシステム社の社長である飯久保広嗣さんの知遇を得たからである。
 飯久保さんはKT法を日本に導入したケプナー・トリゴー・ジャパン社の初代社長で、私がお目にかかった1986年はその会社を辞め、デシジョンシステムという会社を起業して、KT法を少し手直しした「EM法」(Effective Management Method)という問題解決・意思決定の手法を教える仕事をしていた。
 この会社の『KT法の社内講師経験者募集』という新聞広告を見て、応募して、面接の結果、入社を許され、4年間、この人の下で研修講師の仕事をするようになった。
 ソニーで社内講師をしていたという経験はあったが、その経験がプロとして通用するものであったかといったらそんな甘いものではなかった。
 社内講師としては一定の評価をしていただいていたが、プロ講師としてスタートした直後は、失敗・失敗の連続でお客様から厳しい評価をいただき落ち込んだ。
飯久保さんは「そんなことを気にするな。慣れれば大丈夫だ。君には講師としての素質がある。頑張れ!」と言って励ましてくれて、次から次へと私を講師として色々な企業に派遣してくれた。
 最初は日揮、次は日立製作所、次は東芝、次は資生堂といった具合に日本を代表する企業の幹部研修の講師をすることになった。飯久保さんが何か指導してくれたかというと、特にそれはなかった。「習うより慣れよ」ということで、私なりに工夫してやるようにということで、奮闘努力?した結果、何とかお客様の評価をいただけるようになった。
 飯久保さんは人の好き嫌いの激しいところがあり、気に入らない人はすぐ解雇するといった荒っぽいところのある人だった。ところが私には大変優しく、「今井ちゃん」、「今井ちゃん」といって可愛がってくれて、「ネクタイが今一つだ。プレゼントする」と言って高いネクタイまで買っていただいたことがある。
 赤坂エクセルホテル東急の最上階にあるレストランで美味しい食事を何度もご馳走になった。
 デシジョンシステム社の同僚は「飯久保さんはなぜ今井さんを可愛がるのか不思議だ」と言うが、一度たりとも飯久保さんと対立するようなことはなかった。
 飯久保さんに感謝しなければならないのはプロ講師としての心構えを学ばせてもらったこと以上に、多くの優良企業の人事・教育関係者と親しくなる機会を与えていただいたことである。
 度量の狭い人間であれば、講師が独立することを警戒して、お客様との深い関係になる前に担当を替えるといったケチなことをするかと思うが、そのようなことはまったくなかった。お陰で担当させてもらった企業の関係者と良好な人間関係を築くことができた。

 私は最初から独立して仕事をしようと思って入社しており、3年ぐらい勤めたら辞めようと思っていたが、結果的には4年勤めることになった。
 1990年、「親のやっている保険業の仕事を引き継ぎたいので辞めさせていただきたい」と申し出たところ、熱心に引き止められたが最終的には了承していただいた。
 ウソをつくのは良くないが、正直に申し出ることはできず、上記のようなウソをついてしまった。私の親が保険業をしているのは事実だが、飯久保さんは私が研修講師として独立して、自分と競合するようになることは予測していたのではないかと思う。
 でもそんなそぶりはまったく見せず歓送会をして私を快く送り出してくれた。
 飯久保さんには本当にお世話になった。感謝しても感謝しきれない。

 私が独立してスムーズに仕事を展開できたのはデシジョンシステムに勤務していた時に研修講師としてお伺いして親しくなったお客様の存在のおかげである。
NHKを始めシャープ、サッポロビール、大塚商会、クラレといった大手企業から仕事の依頼を受けた。
 このお客様の存在がなければ、何の後ろ盾もない私が、見ず知らずのお客様に「研修講師を始めました」という案内を出しても、けんもほろろで、早晩店仕舞いをする羽目になったと思う。
 これまで自社の顧客だった企業が離反して私の方に仕事を依頼するようになったことを知って、飯久保さんは大変怒ったそうである。私にクレームが来るかもしれないと思っていたが、なぜかそれはなくて、飯久保さんはお客様のところにお伺いして、「今井は当方を辞めた人間です。今井には仕事を出さず私共デシジョンシステム社のEM法を引き続きご愛顧いただきたい」と話したそうである。飯久保さんの要請に対して、NHKで職員研修を担当していたTさんから聞いた話であるが、「私共は御社のEM法を採用していましたが、これは講師である今井さんの人柄に惹かれて継続的にお願いしたのです。今井さんが独立して同種の研修を行うというので、今井さんの方にお願いすることにいたしました。悪しからずご了承ください」と言ったそうである。
 飯久保さんはお客様の訪問を終えて、自社に戻ったところで、社員を集めて、「今井君はたった一人で独立して、自分が担当していたお客様のほとんどを私共から奪った。敵ながらあっぱれである。奪われてしまった方がよくない。お客様はまだいくらでもあるから新規のお客様の開拓に励め!」と檄を飛ばしたということをデシジョンシステムのかつての同僚から聞いた。その後も事ある毎に飯久保さんは「今井君を見習え」と部下を督励したということである。
 恩を仇で返す行為をした私を一切責めることをせず、私を褒めて、「見習え」といった飯久保さんは本当に度量の大きい人だった

 借りを返すどころか恩義のある人を裏切ったので会わせる顔もなく、それでもいつかはご挨拶をしなければならないと内心、思っていた。
 辞めてから20年ぐらい経った2009年のある日、飯久保さんから突然電話が来た。 昔ながらの優しい口調で「今井ちゃん。元気かい。久し振りに会おう」と言う。
 裏切り行為をしたということで頭の一つもぶん殴られるかと思っていたが、そんなことはまったくなく、会うなり握手を求めてきて「今井ちゃんは凄い。たいしたものだ」と言って褒めてくださった。
 飯久保さんの用件は「自分は年齢的にも講師を勤めるのも難しくなった。戻って来て昔と同じように一緒に仕事をやらないか」というお誘いであった。
 裏切り者である私にこの温情あふれる申し出に恐縮するばかりであった。
 諸般の事情で飯久保さんの申し出に応じることはできなかったが、その後のデシジョンシステム社の研修プログラムの売却の話には多少お役に立てたかと思っている。
 しかし、それも飯久保さんから受けた多大な恩義に対してはたいしたお返しにもならず、今でも忸怩たるものがある。
 また、いつかお会いして「今井ちゃん」と呼んでいただき、お食事でも共にして、昔話をしようと思っている。今度は費用は私が負担しようと思っている。ささやかなお返しだが・・・・。
posted by 今井繁之 at 12:52| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする