2019年01月22日

ゆとり教育とは考える力をつけることだ


 2018年の年末、平成という年号がそろそろ終わりになるということで、いくつかのテレビ局で平成30年間に起きた様々な事件の特集番組が放送された。
 12月11日、NHKドキュメンタリー アナザーストーリーシリーズで「ゆとり教育~戦後最大の教育改革~」というタイトルで「ゆとり教育」が取り上げられていた。
 「ゆとり教育」を推進した文部官房審議官(当時)の寺脇 研さんが登場して、「ゆとり教育」というのはマスコミの造語で、生徒の自主的な学習を重視し、それぞれの能力・適性を育てるのが狙いであり、「ゆとり教育」というより、正しくは「生きる力をつける教育」であると話されていた。
 文部科学省は2002年から全国の公立の小・中学校に週3回、「総合学習」という名称で授業を実施することを義務付けた。具体的にどのような授業を行うかは教育現場に任されることになった。

 当日の放送で長野県伊那市の小学校で総合学習の一環として子供たちだけの力で羊やヤギを飼育する場面が紹介されていた。飼育を通じて何かを学ぶということだと思うが、動物の飼育と生きる力をつけることがどのようにつながるかが私には今一つ分からなかった。
 当時、全国各地の小・中学校の先生方は、生きる力をつけるにはどうしたらよいものかと悩まれたことと思う。
 なぜ、そんなことを言えるかというと次のようなエピソードがあったからである。
 2005年、私はある自治体で問題解決・意思決定力強化の研修を行った際、たまたま参加した教育委員会の関係者に「総合学習とは何をやるのですか?」と聞いたことがある。 その方は「生きる力をつける教育をすることです」と言う。かねてから「生きる力をつける」という言葉に興味を感じていた私は「その生きる力とは何ですか?」と重ねて問い掛けた。するとその方はちょっと困惑した表情を浮かべて「実はそれがよく分からないので困っているのです。今井さんは『生きる力』とは何だと思いますか?」と逆に質問されてしまった。
 私はしばらく考えてから次のようなことを話した。
 「『生きる力』とは『考える力』ではないかと思います。『考える力』とは、自分がどんな人間であり、何をやりたいか、どんな人生を歩みたいか、そのためにはどうしたらよいかを自分自身で考えることができるようになることだと思います」と。 私に質問した人は「同感です。確かにその通りだと思いますが、どうしたらそのような『考える力』を身に付けられるのでしょうか」と言われる。
 「今回の研修がまさしくその考える力を身に付ける研修なのです。ぜひ身に付けて子供さん達の指導に役立てて下さい」と私は話した。
 「分かりました」ということで受講していただいたが、はたしてその方が職場に戻ったところでどのように展開されたかは確認していない。
 総合学習の時間は端的にいったら、どう生きたらよいかを色々な角度から考えさせる時間であると言ってよいのではないかと思う。
 今回、このコラムを書くに当たって、「ゆとり教育」の推進責任者であった寺脇さんが語っていることをネットで探ったら、寺脇さんは「生きる力をつける」ということは「考える力を養う教育をすることです」と言われているので私の解釈は間違っていなかった。

 そもそも、わが国のこれまでの学校教育、小学校、中学校、高校で考える力を強化するような教育は残念ながらほとんどなかったといってよいのではないかと思う。
 私自身のつたない経験でも小学校から高校までは漢字の正しい読み、書き、西暦何年に○○事件が勃発したといった類いの知識を覚えさせ、それを正しく記憶しているかというテストの連続であったような気がする。
 少々以前の話で恐縮だが、NHKの『クローズアップ現代』という番組で放送されていた「ヨーロッパからの新しい風」の中でキャスターの国谷さんがOECDのアンドレア・シュライハーという方と対談していたが、そこで国谷さんが「日本では正解はどれかという問題が出題されるが、OECDのPISA(学習到達度調査)で出題される問題には正解は一つという問題はまったくなかったがこれはどういうことですか?」と質問していた。
 そこでシュライハーさんは次のように答えている。
 「子供たちが学校を卒業して社会に出るが、実際の人生において正解は一つということはなく、状況によって正解は複数あるものです。化学の原子記号とか、くもの足は何本かといったコンピュータのキーを押せば簡単に答えが出るようなことを学校は教えるのではなく、様々な分野の知識をつなぎ合わせて状況に合った答えを導き出す考える力こそ子供たちに身に付けさせなければならないと考えています。私達が生きていく上で必要と考えている『学力』は問題を科学的に考える能力です。幅広い事柄に適応できる能力です。状況を分析し、論理的に説明し、情報を批判的に捉え、その上で状況に応じて問題を解決していく能力こそ身に付けさせなければならないのです」

 シュライハーさんの言われるように確かに学校の問題には一応用意した答えはあるが、実社会ではそのようなものはない。何が正解かはその時その時の状況によって変わってくる。今日正解であっても明日もそれが正解とは限らない。A社にとっては正解であっても置かれている状況の異なるB社では正解とは限らない。
 実社会で求められるのは状況に合った正解を導き出すためにはどのように考えていったらよいかという考える力、思考力である。
 シュライハーさんの言葉を借りるまでもなく、これからの教育では知識の教育と共に思考の仕方こそ教えるべきであると私も思う。
 基本的な思考の仕方が身についていれば、異なった問題に遭遇しても慌てずにどうしたらよいかという答えを見出だすことができるはずである。
 学校で学んでいる知識がまったく不要ということではないが、実社会では不明な事柄があれば他人に聞くなり、辞書を引けば容易に得られる。特に最近は前述したシュライハーさんの話にあったように、インターネットの普及で情報は手軽に得られるので、学校教育では、その情報をどう組み合わせたら正しい結論を導けるかという考える力を養う教育こそ必要ではないかと思う。
 いわゆる「ゆとり教育」は授業時間が削減され学力低下につながるということで批判された関係からか、安倍内閣は「ゆとり教育との決別宣言」を標榜しているようだが、寺脇さんに言わせると「考える力を養う教育」は姿を消したわけではなく、教育現場では現在も「アクティブ・ラーニング」という名称で行われているということである。

 ただ、「考える力」と言っても、そもそも「考える力」とは具体的にどのようなものかが明確でない。
 辞書を引くと、「知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる」とあるが、これでは今一つ具体性に欠ける。
 我田引水的な解釈で、はなはだ恐縮ですが、私は「考える力」を以下のようなものであるとしている。
 何が問われているかを明らかにし、問われている事柄が複数あれば、どれから取り組むか優先順位を明らかにする。次いで改善しなければならない事柄があれば、その解決策を探る。ただ、今現在、好ましくない状態になっており、どうしてそうなったのか分からなければ、解決策を探る前に何が原因なのかを探り、その上でどうしたらよいかと解決策を考えてみる。複数の解決策があり、どれを選択したらよいか迷うようであれば、目的を達するのにどの解決策が一番よいかを考えてみる。さらに、それらを実行した場合、各種の不安・心配があるようであれば、どのようにしたら、それら不安・心配を排除、抑制できるかを考えて、必要な手を講じる。
 という具合に論理的な思考のステップを踏んで考えていくのが「考える力」の一つになると思っている。

 何が問われているか、何故そんなことになったのか、どうしたらよいのか、それを実行に移したら果たしてうまくいくかといったステップで考える癖がきちんと身についていれば、学校生活でも、社会人生活でも、色々な厄介な問題に遭遇しても慌てずにどうしたらよいかという答えを見出だすことができる。
 この考える癖は誰でも訓練によって身に付けることができる。
永年、そのような思考力強化の研修講師を務めて来たので、私の存在意義はあると勝手に解釈している。

 「幸せの黄色いハンカチ」を始め数々の名作を世に送り出した映画監督山田洋次さんは映画「たそがれ清兵衛」の中で主人公の清兵衛に次のようなことを言わせているが、私の考えと一致するので最後に記述させていただく。
 「学問すれば自分の頭でものを考えることができるようになる。自分の頭でものを考え れば、知りたいことがたくさん出てくる。それを一つ一つ考えて分かっていくと、お前 は豊かな人間になれる。この先世の中どう変わっても、考える力を持っていれば何とか して生きていくことができる」


posted by 今井繁之 at 10:15| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年01月21日

できるだけ嘘をつかないで歩んで欲しい


 嘘をつくのは良くないことだというのは誰でも承知していることだと思う。
 しかし、昨今の政治家は嘘をつくことに何の衒いもなく平気で嘘をつく。特に日米の最高責任者は堂々と何度も嘘をついている。
 子供たちに「あんな人間になってはいけないよ」という反面教師としての役割を果たしていると思えばほんの少しは怒りは収まる。
 政治家に嘘をつかれるのは慣れっこなっており、いまさら「嘘をつくな!」と言うのは無理かもしれないが、正々堂々たるプレーが望まれるスポーツの選手が嘘をつくのは好ましくない。特に子供たちが憧れる競技の選手が嘘をつくのは絶対よくないと思う。

 正々堂々とプレーすべきスポーツ選手が嘘をついた事例を一つ挙げる。
 私は趣味のあまりない男だが、数少ない趣味の一つにプロ野球観戦がある。
 特定のひいきチームはなく、選手の全力プレーに手をたたいてエールを送り、ふがいないブレーには激怒するという野球ファンである。
 2018年に現役引退したプロ野球選手に読売巨人軍の脇谷亮太という選手がいる。
 全盛期は打ってよし、走ってよし、守ってよしと三拍子揃った好選手であった。
 彼は内野手であり、後方に上がった打球を落球したにも関わらず、落球ではなくダイレクトに捕球したとアピールして、審判が彼のアピールを信じてアウトにしたことがある。 古い話で恐縮だが、そのプレーがあったのは7年前の2011年4月20日の阪神タイガースとの試合である。
 私はそのプレーがあった巨人・阪神戦をテレビで見ており、脇谷選手を含む巨人の選手のプレーに激怒して、そして落胆した。
 阪神が3:2でリードして、なおも走者を一塁、三塁に置いて、阪神のブラゼル選手が二塁後方にフライを打ち上げた。二塁を守っていた脇谷選手が打球を後ろ向きに追いかけ、グラブに当てたもののグランドにポロリと落としてしまった。脇谷選手はそれをすかさず拾い上げて、あたかもダイレクトに捕球したかのようにアピールした。
 それを見て、土山一塁塁審はアウトとジャッジした。一塁塁審は背後から見ていたので脇谷選手の動作は見えなかったかと思うが、脇谷選手の同僚のセンターの長野選手とライトの高橋選手には脇谷選手の落球は目の前で行われただけによく分かったと思う。
 阪神タイガースの真弓監督は激怒して抗議したが、判定は覆えることはなかった。テレビではその捕球動作の場面をビデオの再生場面で流していたが、明らかに一度落としたボールを拾い上げており、これがワンバウンドで捕球したという判定になると、すでに一塁走者であった新井選手も三塁を回っていたので2点が追加となる。点差は3点差となり、阪神がこの試合に勝利したと思われる。ところがミスジャッジのお陰で、巨人は勢いづいて、その後逆転勝利した。脇谷選手のこの不正行為?は巨人の勝利に大いに貢献した。
 私はこの捕球の場面を見ていて、ごまかしをした脇谷選手はこんな不正行為をして恥ずかしくないのか、この選手はスポーツマンシップということを心得ているのかと怒りを感じた。さらに目の前で明らかに落球したボールを拾い上げたのだから、「これにアウトではありません」となぜ言わないのかと巨人の2選手に不信感を持った。長野選手はその時はまだ2年目の選手なので、先輩の脇谷選手にそれはおかしいとは言えないが、プロに入って10数年経ち、大先輩ともいうべき高橋由伸選手が脇谷選手に、「ダイレクトに取ったなんてアピールする暇があったら、ボールをホームに早く投げて追加点を防げ!」という指示をなぜしないのかと不思議に思った。
 私はこの高橋由伸選手を日頃ひいきにしているだけにこの彼の行動に腹立ちを覚えた。 高橋選手は当時から将来は巨人軍の監督になると言われていたが、こんな不正行為に組みするようではたいしたことのない男だと思った。

 高校野球では選手宣誓で「私達選手一同はスポーツマンシップにのっとって正々堂々と戦います」と誓っているので不正行為はせず、プロ野球ではそのような選手宣誓をしていないから不正行為があってもいいという理屈は通用しないと思う。
 ごまかしをした脇谷選手は自分のブログで「自分はダイレクトに捕りましたよ。ワンバウンドで捕球したと見えるのはビデオ、テレビの映りが悪いせいではないですか」と主張して、テレビの買い替えを勧めた。これには相当なブーイングがあったそうである。
 ただ、脇谷選手にも多少の同情の余地はあり、脇谷選手は捕球したとアピールしても、審判は落球と見抜くかもしれないがダメ元でアピールしようとしたかもしれない。ところが人のよい土山審判は同僚の審判に相談することなく、脇谷選手の演技を信用してしまったのがまずかったともいえる。でも、やはり主犯?は脇谷選手である。
 脇谷選手には酷な言い方だが、野球の好きな子供はいつかは自分もプロ野球選手になりたいと現役の選手にあこがれを持つが、この日の放送を見た子供達は脇谷選手のような選手になりたいとは思わなかったことだろう。
 審判が見ていないからといって不正行為をしても、当日の観衆の多くは見ているし、なによりも映像は残っている。
 プロ野球といえどもスポーツマンシップにのっとって正々堂々とプレイするべきであり、同僚といえども間違っていることをしたら、それは間違っていると指摘するべきである。 私は脇谷選手に良心があれば、この日の言動は悔いているのではないかと思っていた。

 脇谷選手はその後、西武ライオンズに移籍、高橋由伸氏が読売巨人軍の監督になったので、2016年、巨人軍にカムバックした。しかし、高橋由伸氏の監督辞任と共に脇谷選手も現役を引退することになった。
 脇谷選手の現役最後の試合は2018年10月6日にあり、相手球団は奇しくも阪神タイガースであった。
 代打で出場し、結果は一塁ゴロ、巨人ファンだけでなく、阪神ファンからも温かい拍手が送られた。脇谷選手は真っ先に阪神ファンのいる右翼席に深々と一礼した。
 7年前の嘘を許してくれた阪神ファンへの感謝の表れであった。
 試合後、脇谷選手はマスコミの取材に対して、「7年前の甲子園での一件、自分の行動でプロ野球ファンを悲しませてしまったことがずっとしこりとなっていました。今日、阪神ファンの方が私を応援してくれました。いつか話さなければならないと思っていました。最後に正直に打ち明けることができてよかったです」と語っている。
 落球か捕球かを決めるのは審判であり、この一件は誤審といえばその通りである。
 脇谷選手が自分はダイレクトに捕球したとアピールしたい気持ちは分かるが、試合後のマスコミの取材に対して「審判の判定の通りです。それ以上私が言うことはありません」で済ませればよかった。ところが「私は取りました。自分の中ではスレスレのところでやっていますから。落球に見えたのはビデオやテレビの写りが悪いせいじゃないですか」とまで言う必要はなかった。
 脇谷選手には「落球したのにダイレクトに捕給したと嘘の主張をした選手」という負のイメージがつきまとった。本人も骨が喉に引っ掛かったように、嘘をつき通したこの7年間は苦しかったと思う。
 現役を引退後は巨人軍のスカウトになるというが、今回、マスコミに正直に打ち明けたことですっきりした気分で新しい仕事に就くことができるかと思う。

 脇谷選手を俎上にあげて、嘘をつくことはよくない、嘘をつけば苦しむのは自分である、やはり正々堂々と振る舞うべきであると述べたが、この正々堂々と振る舞うのはビジネスの世界でも同様である。
 『不正をしない、不正があったらそれを許さず間違っていると主張する』ということは、言うは易く、行うのはなかなか大変である。
 この功利の世の中で嘘を全くつかないで生きていくのは難しいことだと思うが、それでもできるだけ嘘をつかず、正々堂々と歩んで欲しいと願わざるを得ない。










posted by 今井繁之 at 16:31| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年12月20日

過度な『矜持』を持たない


 前回のコラム「ぶれないで生きたい」に書き漏らしたが、私がぶれなかったのは、私の『矜持』が許さなかったからである。
 『矜持』という言葉は、一般的には自信・誇り・プライドという意味になるかと思う。 
念のため、広辞宛を引くと、『矜持』とは「自分の能力を信じていだく誇り、自負」とあるが、私はそれを少し拡大解釈して、[能力]に人はかくあるべきであるという存念(いつも心の中にそうでなければならないと思っていること)も含むことにしている。
誰もが程度の差はあるものの何らかの『矜持』を持っているかと思う。私自身、たいした人間でないにもかかわらず、一人前に『矜持』を持っており、どちらかといえばそれが高い方ではないかと思う。
 私は矜持が高いことは決して悪いことではないと思っている。「なにくそ、負けてたまるか」という頑張り精神と自負心、プライドといったものがあるからこそ前進、向上があると思っている。
 私自身、この『矜持』があったからこそ、これまでの人生で挫折しないで歩んで来れたと思う。
中学を卒業して、町工場で働いていた時、出来上がった製品を得意先に自転車で配達する途中で私と同年輩の女子高校生の集団に遭遇したことがある。自意識過剰であったかもしれないが、彼女達は私の姿を見てくすくす笑っているように思えた。私は作業服のままで、そして顔も洗わないで出てきたので私の服装もさることながら顔も汚れていたのだろう。この時、私は心の中で、(自分はこんな汚れた格好をしているが真面目に働いている。君達に馬鹿にされるいわれはない。自分がこのように働いているのはたまたま家が貧乏だったに過ぎない。頭の中身は君達には決して負けることはない)と自分に言い聞かせて唇をかんでいた。
 このような悔しい思いをしたことが、眠い目をこすりながら大学進学を目指して頑張る原動力になったのだと思う。

 『矜持』を持つことは大切なことであると思うが、それは条件付きである。その矜持に値する能力・力量がなければいけない。もしそのような能力・力量がなければそれ相応のものを身に付ける努力をしなければならない。そうでないと単なる空威張り、虚勢になってしまう。
 以前、私の講師仲間のKさんのところに遊びに行った時、「今度新たに入社してもらったHさんを紹介します」と言われて、私より少し年齢は若いHさんを紹介された。
 Kさんは「Hさんは大変優秀な方でT大の法学部出身です。そこからN製鉄とエリートコースを歩んできた人です。我々とは全然違います」と言う。因みにKさんは私同様明治大学出身である。
 その日、Hさんを交えて一杯飲んだ。少し酔いがまわったところで、Hさんに「なぜN製鉄を辞められたのですか?」と遠慮がちに問うと、Hさんはよくぞ聞いてくれたという感じで、「上司がS大学卒の人になったので頭に来て、定年までまだ少し間があったが、割増退職金が出るこの機会に辞めたのです」と言う。S大は私も住んでいるS県にある国立の地方大学である。「なぜ、S大学卒の人が上司になると頭に来るのですか?」と重ねて聞くと「今井さん、あのS大学ですよ。耐えられませんよ。こんな人事はおかしいです」と強く言う。「いや、S大学は確かにT大に比べたら多少レベルは落ちるかもしれないが、上司になった方は入社後、相当な努力をされたからその地位についたのでしょう。おかしいとは思えませんが………?」と言うと、「いや、絶対おかしいです、私にはこんな不当な人事には承服できません」と憤然とした表情で言う。
 この時はT大卒の人の気持ちはそんなものかなと思ったが、このHさんが格段にレベル差のある明治大学出身のK氏の下で果たしてうまくいくかなと危惧した。
それから約1年後、K氏に会う機会があり、「Hさんは元気でやってますか?」と聞くと「Hさんは使いものにならないので半年で辞めてもらいました」と言う。「なぜ?」と聞くと「彼には講師をやってもらったが、私の指導にはあまり素直に従ってくれない。それでも一応トレーニングした上で研修講師として送り出したが、受講者の反応は芳しくない。受講後のアンケートに話の中身が高尚過ぎてついていけないという声が多かったので、それを指摘すると、『私の話すことが分からないのは受講生のレベルが低いせいです』と言い出す始末。いくら注意しても改めた様子はなく、講師として派遣するところもないので、思い切って『あなたにはこの仕事は向いていないようだから自分に合った仕事を見つけたらどうか』と話すと、『それは心外だ。もし自分を辞めさせるようだったらあらゆる手をつくしてあなたの仕事の邪魔をします』と言って怒り出す始末。弁護士を入れての何度かの話し合いの末、一応気持だけの慰労金を出してお引取り願ったが、ああいうプライドの高い人はもうこりごりです」と話す。
HさんはT大に入学できたのだから頭脳は大変優秀であったと思う。「自分はT大卒だ」という『矜持』を持つことは決して悪いことではないが、T大卒の講師ということで周囲の人が一目おくだけに、それにふさわしい能力を身に付ける相応の努力をしなければいけない。相応の努力もしないで、過去の栄光ともいうべき『矜持』だけでは現実の社会では高い評価は得られない。

 私は『矜持』を持っていると言ったが、幸か不幸かそれほど優秀な大学は出ていないし、Hさんのような出身学校に対する『矜持』はない。
 私の『矜持』は中学卒業以来、人様の助けを当てにせず自分の力で今日まで生きてきたことである。結果的には多くの人に助けてもらったが、ただ、自分の生きる道は自分で決めて、最初から人の助けを当てにせず、あくまでも自分の力を頼りに道を拓いてきた。
 決して恵まれた環境で育ったわけではないが、それを嘆くことなく、思い通りにいかないことがあっても、その責任を他の人に転嫁することなく、己の力を信じて独立独歩で自立した人生を歩んできたという『矜持』がある。
 前回のコラム「ぶれないで生きたい」で上司の要請に素直に従わず、自分の思うところを堂々と主張したのは、この『矜持』の為せるわざであった。
 『矜持』を大切にしつつ、適度な矜持は必要であるが、過度な矜持であってはならないと自分に言い聞かせて、でも自分がそうあるべきだと思ったことは堂々と主張して、胸を張って生きていこうと思っている。




posted by 今井繁之 at 15:53| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする