2018年01月23日

自著に実名を勝手に書いたお詫び

                         
 2017年1月25日、ひょんなこと?で36年前に別れた女性と再会した。別れた女性といっても男女の関係があって別れた人ではない。
 その女性は私が36年前、勤務していた千葉県木更津市にあるソニーの子会社 ソニー木更津㈱(現ソニーイーエムシーエス木更津サイト)で一緒に仕事をした人である。
お名前は鹿島さんという人だが、彼女と久しぶりに再会した場所は木更津市内にある葬儀斎場であった。
何故、葬儀場かというと、私と鹿島さんが一緒に仕事をしていた当時の仲間が亡くなった関係で、お互いが葬儀に参列したからである。
 私は再会した鹿島さんにはどうしても一言お詫びしなければならないことがあった。

 お詫びしなければならないというのは次のような事情があったからである。
 今から38年前の1979年3月、私が私淑していたこの会社の社長である鳥山寛恕さんという方が不慮の事故で亡くなった。もんもんとした日々を1年過ごしたが、この会社にいても仕方がない、この会社を辞めてどこかで働こうと思っていた矢先、鳥山さんの後任の社長に就任した岩城 賢さんという方から、木更津市内に新たな工場を作るので人集めのプロジェクトのリーダーを務めて欲しいと依頼された。
 岩城さんはソニー本社から派遣されて来た人で、後にソニーの代表取締役副社長を務めた実力者であった。
 その岩城さんが「お金は幾らでも出す、人集めの方法は君に任せるから来年の工場の稼働開始前までに500人の作業者を集めて欲しい」と言う。
 断ってもよかったが、全面的に任せてくれると言うし、辞める前に一仕事して有終の美?を飾ろうかと考えて引き受けることにした。
 社内から有能な若い男性を選抜して、人集めの作業に従事してもらった。外部から鹿島さんという若い女性を採用して、私達男性の裏方の仕事を手伝っていただいた。
 このプロジェクトはほぼ目標通りの従業員を集めることに成功し、その功でもないが、私は岩城さんの勧めもあって、子会社勤務からソニー本社の芝浦工場に異動になり、異動先でKT法の社内講師の仕事をすることになった。
 それはともかく、1980年の5月にプロジェクトがスタートして、翌1981年4月までの間、お正月の期間は少しはお休みを取ったかと思うが、その時期以外はほとんど休みを取ることもなく、必死になって人集めをした。
 そこで大いに活躍してくれたのが鹿島さんだった。彼女の応募者への応対は本当に素晴らしいものがあり、私の記憶に残っていた彼女の応募者への応対ぶりを1998年に日本実業出版社から出した拙著「頭を使ったホウ・レン・ソウ」に実名入りで紹介している。
 その本はビジネス書の部類では大変売れてくれて、印税も沢山入り有り難かったが、後日、彼女をフルネームではないにしても、「鹿島さん」という実名入りで登場させたことが果たしてどうだったのかを考えるようになった。
 一度お会いして、了解を取らなければいけないと思っていたが、彼女はプロジェクトが終了した後、会社をお辞めになり、私も木更津を離れたこともあり、お会いすることもないまま月日は過ぎてしまった。
 いつか会って、きちんとお話をして了解をしていただこうという思いが心の片隅に残っていた。

 拙著「頭を使ったホウ・レン・ソウ」に”心を込めて声を出す゛という小見出しをつけて書いた内容は次の様なものである。

  心を込めて声を出す  
 ホウ・レン・ソウの色々な場面で、自分の意思を伝えるのに言葉を選び、声の調子に強弱をつけ、時にはジェスチャーを入れて話す。その際、話す言葉が丁寧語でなく、敬語に多少の誤りがあっても、心がこもっていれば相手の共感を得ることができる。
 手話をしている人に聞いた話であるが、手話は手だけで表現するものではないという。手の動きだけでなく、「ありがとう」なら(あなたに心から感謝します)と、「ごめん
なさい」なら(本当にご迷惑をかけた、申し訳ありません)と心の中でつぶやきながら手
話しないと相手に通じないという。
心を込めて(さようなら)とつぶやくと、目の不自由な相手に「残念だね、また会おうね」
という気持ちまで伝わるという。
手話ではないが、人に対して感謝の気持を伝える、ねぎらいの気持を伝える時は心から
そう思わないと相手には伝わらない。フェイスツーフェイスであれば顔の表情が言葉の足りないところをカバーしてくれるが電話のように相手の顔が見えない時は相手があたかもそこにいると思って応対することが必要である。謝りの電話であれば電話に向かって45度、深々と頭を下げたつもりで「すみません、申し訳ありません」と言う。
そうすれば、以心伝心で真摯な心は伝わるものである。
 かつて私が勤務していた会社であった話であるが、私が採用プロジェクトの責任者をしていた時、新たに私の元に配属になった女性で鹿島さんという方がいた。彼女は元美容師で会社勤めは初めてだった。それだけに私共の言うことを大変素直に聞いてくれ、何ごとにも真剣に取り組んでくれた。彼女に担当してもらった仕事は応募者からの問い合わせの電話に当たることだった。彼女には「今回は新工場をスタートさせる関係で大量に社員を募集しなければならない、いい人は一人も逃がさず採用したい」と話した。
その結果、応募者から問い合わせの電話が入ると、彼女はなんとしても面接に来ていただこうということでそこまでやらなくてもと思う位、必死に電話応対に努めてくれた。
応募してきた何人かの人に「私の問い合わせの電話に応対してくれた方はどなたですか?」と聞かれたことがある。「何か失礼なことがあったのですか」と聞くと、「いや、その逆です。私が電話で問い合わせしたら、その方はぜひ面接に来てほしいといわれたが、その言い方非常に心がこもっていて、それに惹かれて私は面接に来たのです」と言う。
それを聞いて私はなるほどと思った。鹿島さんは応募者から電話が入ると、「お電話、
ありがとうございます」と言って、受話器を持ちながら感謝の気持を込めた言葉と共に頭を下げている。そうして相手があたかも目の前にいるかのように話しかける。
ときには当方にくる道の説明では身振り、手振りをまじえて説明、電話が終わるとその
電話の相手に対して頭を下げている。
 おそらく応募者にはその姿が想像できたのではないか。見えなくとも心を込めて応対すれば相手には通じるものである。口では「ありがとうございます」と言いながら、足を机の上に上げてお礼の言葉を言っていれば、姿は見えなくとも何となく相手に伝わるものである。
ちなみに鹿島さんは手話の訓練を受けていた人であった。

 以上の通りで鹿島さんを貶めるようなことは書いてはないが、それでも、断りもなしに実名入りで自分のことが勝手に書かれているのは気分がよくないだろうから、いつか機会があったらお目にかかって、拙著を渡してお詫びを申し上げようと思っていた。
 前述したように、木更津市内にある葬儀斎場で行われた葬儀が終わり、帰るべく、出口に向かおうとしていたら、妙齢の女性が近付いて来て、「今井さんではありませんか?」言う。「はい、そうですが………」と答えると「私を覚えていますか? 私は以前大変お世話になった鹿島です。今は結婚して○○です」と言われる。
 亡くなったのは人集めのプロジェクトの一員であった男性であり、鹿島さんが参列しても何ら不思議ではないが、私はまったく予測していなかったのでこの思いがけない出会いにはびっくりした。
 以前に比べて少しふっくらとした鹿島さんに、久闊を詫びた後で、私がどういう仕事をしているかを話し、鹿島さんのことを拙著に実名入りで書いたことをお詫びした。
私の話す書籍を見ていないこともあるが、鹿島さんは「そんなこと一向に構いません」と快く了解してくれた。
 鹿島さんの現在の住所を確認して、葬儀が終わった翌日、宅急便で拙著を送った。
 彼女からどのような返事があるか、多少気掛かりではあったが、しばらくは特別な反応はなかった。でも、私は自分の長年の懸案事項が一つ片付いたような気分でほっとしていた。

鹿島さんに会ったことも忘れていた2017年の暮れに、その鹿島さんから房総の名物の海苔が贈られて来た。拙著をいただいたお礼だという。鹿島さんにすぐお電話してお礼を申し上げて色々とお話をすると、今は房総で優しいご主人と3人のお子さんに恵まれて、幸せな生活を送っていると言う。
葬儀場で36年振りに再会したのが2017年1月、海苔のお礼を兼ねて電話で話したのがその年の12月、拙著に実名を勝手に登場させた件は一件落着したという次第である。


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2017年12月01日

 新年号は何という名称になるのか?

 
 何かを選択決定した際に、選択決定に当たっての選定基準が明らかにされると納得していただける度合いは高い。
 しかし、選定基準が明らかにされず、さらに、どのようにして、その結論になったのかの説明がなく、「総合的に検討した結果、この案がベストと判断しました」と言われても、どのように総合したのかが分からず、今一つ納得がいかないものである。
 2020年のオリンピック・パラリンピックのエンブレムの選定なんてその際たるものである。

 選定基準が明らかにされると納得していただける度合いが高くなるだろうと思われることを大変恐れ多い話で恐縮だが、来年中には決まると思われる新年号で説明したい。
 国民的関心事と言ってもよいかと思うが、天皇陛下の退位が確定し、新天皇の即位にともなう新年号の選定作業が進められているという話であるが、次は何という年号になるのか、どのようにして新年号が決まるか、興味を持たれている人が多いかと思う。
 新年号については内閣総理大臣が東洋史、中国古典などを専門とする学者に依頼して、何通りかの候補案を考えていただき、それらの中から有識者や衆・参両院の議長の意見を聞くなどして、一つに絞り込むということである。
 先日、某週刊誌にすでに新元号として「喜永」、「恵永」、「感永」、「化永」の4案が選出されていると出ていた。なぜ永のつくものばかりなのか今一つ分からないが、ただ候補案が事前に漏れたら、候補から外れるという話もあるので、この4つの中から選ばれる確率は少ないのではないかと思う。
 ただ、どのように絞り込むかは明らかにされていないが、現在の年号の『平成』に決まった時の経緯が今回も踏襲されるものと思われる。

 昭和天皇の崩御により、年号の改正が行われたが、年号制定に当たって、関係者の間には、それなりの選定基準があったようである。それらを整理してみると次のようになる。
 (私の推測も一部入っているがご寛恕いただきたい)
 ①文字数が「漢字2文字」以内
 ②これまで日本で元号またはおくり名として用いられていない
 ③漢字が書きやすく、読みやすい
 ④出典が明確である
 ⑤国民の理想としてふさわしい意味を持つ
 ⑥意味がわかりやすい
 ⑦これからの時代(21世紀)にふさわしい
 ⑧頭文字がM(明治)T(大正)S(昭和)と異なる(M.T.S以外)
 ⑨あまり一般的でない(企業名、店舗名、商品名に使用されていない)

私は①②は絶対条件で、③以降は希望・十分条件と解釈していた。 
 仄聞するところによれば、この時は『平成』の他に、『修文』、『成化』という候補があり、『修文』『成化』は頭文字が「S」で『昭和』とかぶるので、『平成』が選ばれたということである。そうなると、⑧も絶対条件かというと、それを絶対条件にしてしまうと候補案が非常に限られてしまうので、⑧は「できればM・T・Sと重ならない方がよい」ということで希望・十分条件になったのではないかと勝手に思っている。
 選定基準の①②を満たさないものは落として、最終的には3案に絞られて、改めてその3案を③④⑤⑥⑦⑧⑨でどれがより優れているかという評価をしたかと思う。③④⑥⑧⑨は評価がしやすかったと思うが、⑤と⑦のように今一つ、意味が曖昧で解釈が分かれるものは、評価が難しかったかと思う。
 もし、⑤の「国民の理想としてふさわしい意味を持つ」を、例えば「戦争のない平和な世界であってほしい」とか、⑦の「これからの時代にふさわしい」を「自然と共存して安全・安心な世界でありたい」という具合に、少しは具体的なものにすると、どの案がより適っているかの評価はしやすかったのではないかと思う。
 ⑤と⑦はどのように解釈されたか分からないが、上記のような選定基準で話し合いがされた結果として『平成』になったのではないかと思う。

 現行の『平成』の選考過程はつまびらかにされず、故小渕官房長官が記者会見で「新年号は『平成』です」と発表されたが、『平成』という元号は素晴らしい名称であると思う。
 戦争のない平和な時代であって欲しいと心から希求されておられる今の天皇陛下、美智子皇后の思いとぴったり合った元号であったかと思う。
                     
 有識者の話し合いで決まるということであるが、もし、意見が割れてなかなかまとまらないようであればコンピュータで決めるという方法もあるかもしれない。
 いささか古い話で恐縮だが、ホンダはアメリカ国内向けに新系列の販売網を作ろうとした。その新販売網の名称は『アキュラ』という名称のチャネルになったが、その名称選びに当たって、
 ①アルファベット5文字で
 ②聞きやすく
 ③読みやすく
 ④見ていて感じのいい単語
 という選定基準を設定し、これをコンピュータに入力し、候補となる名称をはじき出させた結果、最後に残ったのがアキュラ(Acura)だったということである。
 何の意味もない、辞書にもない単語だったということである。いかにもホンダらしい。
 しかし、神事に近い事柄でもある年号の選定にはこの方法はなじまないと批判される恐れもあるので、この方法は取られることはないだろうが、年号でなければこの方法も悪くないと思う。

 なお、今度の『平成』に代わる新年号の選定基準は前回の⑧の「M・T・Sと異なる」にH(平成)が加わって、「頭文字がM(明治)T(大正)S(昭和)H(平成)と異なる」(M・T・S・H以外)ということになるかもしれない。
 M(明治)は入れなくてもよいのではないかとも思うが、明治生まれの方で100歳を越えるお元気な方もおられるだろうから、M(明治)を外すわけにはいかないだろう。
 ⑤の国民の理想としてふさわしい意味を持つと⑦これからの時代にふさわしいに重きを置いて議論されて新年号を決定していただけたら有り難いと思っている。
そんなことは決してないと思うが、現在の政権の意向を忖度するようなことは絶対ないことを願っている。

 果たして、新年号がどのような名称になるか今から楽しみである。

posted by 今井繁之 at 15:48| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

私を救ってくれた恩師の言葉

 
 先般、福井県池田町で中学2年の男子生徒が担任および副担任の先生からの厳しい叱責を苦にして、校舎から身を投げて自殺したことが報じられていた。
 なぜ、この生徒だけが担任および副担任に追い詰められたのか詳しいことは分からないが自殺せざるを得なかったこの子が哀れでならない。
 教育現場で正当な理由があれば、厳しい指導や叱責があってもそれはやむを得ないと思うが、子供が納得できない不当な理由で追い込み、死を選ばせるようなことは絶対あってはならない。

 私はこの自殺した生徒ほど担任から厳しく叱られなかったが、それでも似たようなことを体験している。
 私は中学生時代の大半を長崎市内にあった西浦上中学で過ごした。その中学で、山口正三さんという先生に救っていただいたことがある。
 それはどういうことかというと、中学3年の1学期のある日、私はクラス担任の角川先生から誤解を受けて、職員室の入り口に正座させられた。なぜ正座させられたかというと、自習の時間だったが、級友が廊下で悪ふざけしており、それを注意しようと教室を出て悪ふざけしている級友に近付いたその時、隣の教室で教えていた山崎先生が出てきて、「うるさい、静かにしろ!」と叱られたのがことの発端である。教室に入って静かに自習していたら、角川先生から職員室に来るようにという呼び出しがあった。職員室に行くと、「自習の時間なのに廊下で騒いでいたと山崎先生から聞いた。お前はルーム長のくせに率先して騒いでいるとは何事だ!」と厳しい表情で私を叱る。私は「僕は騒いでいたわけでなく止めに入ったのです」と言うものの、「言い訳は聞きたくない。とにかくお前みたいな男がルーム長でいるのは俺は恥ずかしい。正座して反省しろ!」と言って、首をつかまれて職員室の入り口に連れて行かれて、そこに正座させられた。
 私の学業成績はそれほどよくないのに一学期のルーム長の選挙でルーム長に選出された。
 この結果を教室で見ていた担任の角川さんの表情は強張っていた。「皆、この結果で本当にいいのか?」と問い掛けたところ、いっせいに拍手が返って来たので、首を傾けながら角川さんは教室を出て行った。
 当時は昼間の高校に進学する生徒と卒業と共に就職する生徒の比率は半々で私は就職する側の生徒であった。私の所属していたクラスを除いてどのクラスでもルーム長に選ばれていたのは成績優秀な進学組の生徒だった。角川さんにとっては私のような就職組が選ばれたことが屈辱だったのかもしれない。
 私が報告しなければならないことがあって職員室に行ってもニコリともしなかった。
 私は国語と社会はまずまずの成績だったが数学と物理はまったく駄目であった。数学担当の教師は山崎先生、物理担当の教師は角川さんだった。数学も物理も中間試験の結果は平均点以下の成績で、結果が出た後で、角川さんに「何故こんな成績なのだ?」と聞かれたことがある。その時は「数学も物理も好きでないからです」と愛想のない答えをした。
 角川さんから嫌われていることは分かっているものの、私の言い分に耳を傾けようとしない角川さんに対する怒りと悲しみでいっぱいだった。
 職員室に出入りする先生方はニタニタしながら私を見ていく。正座すること7~8分ぐらい経った時、山口正三先生が通り掛かった。山口先生は国語担当の教師で学年主任でもあった。山口先生には私は日頃から可愛がっていただいていた。
 私が経済的な事情で高校に進学できないことを不憫に思ってくれていたみたいで、何かと声をかけていただいていた。
 「繁之! どうしたのだ? 何でこんなところに座っているのだ?」と聞かれる。事情を説明すると「分かった、角川先生に話してみる」と言って職員室に入って行った。
 しばらくしたら角川さんが出てきて、「山口先生に繁之の言い分をよく聞いて来なさいと言われた。本当にお前は騒ぎを止めようとしたのか?」と言われるので、「その通りです」と話すと、「分かった。教室に戻っていい」と言う。
 私は「先生、あなたはそこに正座して私に謝りなさい!」と言おうと思ったが、それは止めて教室に戻った。

 山口先生のとりなしのお陰で正座は許されたが、もし、あの時、山口先生に助けていただけなかったら、私はどうなっていただろうか?
 ひがみ根性で言うわけではないが、私達就職組は先生方から一段低く見られていた気がする。通常の授業が終わると「就職組の生徒は帰って結構です。進学組は補習があるので残ってください」というアナウンスがあり、就職組には勉強は不要と言われた気がして傷ついていた。角川さんに正座させられたのも自分が就職組のせいだと思っていた。
 もし、山口先生に助けてもらわなかったら、私はひがみ根性のまま中学を卒業し、その後の私の人生は変わったものになったかもしれない。
 正座の一件のあった後、山口先生に改めてお礼を言ったら、「私は繁之がウソをつく子ではないと思っている。これからも色々とあると思うがまっすぐに生きていきなさい」と言われた。
 15歳、中学3年生という人生で一番多感な時期に私を信頼してくれた山口先生に巡り合ったことは幸運以外の何ものでもない。

 山口先生の「繁之はウソをつく子ではない」という私を信頼する言葉はその後の私の人生で何事においてもウソをついてはいけないという戒めになった。
 「まったくウソをついたことがないのか?」と問われたら「絶対ない」とは言わないが、極力ウソをつかない人生を歩もうと言い聞かせて生きてきた。
 人に使われるサラリーマンの身であった時には、自分の心を偽ってウソをつかなければならない場面もあった。
 「ウソをつきたくない。自分の信じることを堂々と主張したい」というのが、私がサラリーマン人生に別れを告げて研修講師として独立するようになった理由の一つである。
 能力を買われて研修の仕事が来るようになったので、自分の心を偽って、心にないようなことを言わなくてもすむようになった。
 間違っていることは間違っていると言い、自分がいさぎよしとしないことは拒否することができるようになった。こびたり、おもねたり、へつらったりしなければならないことはしなくてすみ、自分の心に正直に生きて来れた。
 そんな生き方を貫いて来れたのは、少年時代に山口先生にかけていただいた「繁之はウソをつく子ではない」という言葉の賜物である。

 私は西浦上中学に3年の2学期まで在籍、その後、長野県の中学に転校したが、追いかけるようにして来た山口先生からのお手紙にあった「中学を卒業しても勉強だけは続けなさい、そうでないといつか後悔することになる」という勧めに従って、定時制高校に進み、さらに大学に進学した。
 大学4年生の時、先生のご自宅を訪問して、「先生の言いつけを守って大学に行きました」と報告した時に山口先生が「私が君に何と言ったか忘れてしまったが、君が私の言いつけを守って大学生にまでなったことは講師冥利に尽きる、こんなに嬉しいことはない」と涙交じりに言われた日のことはもう半世紀が過ぎても忘れない。
 山口先生が亡くなられた後も、先生の奥様と年賀状のやり取りをしていたが、ある年の年賀状に「あなたは主人の自慢の息子です。主人はいつもあなたのことを自慢していました」とあった。
 そんなに褒めていただけるような立派な人間になれたわけではないが、先生の信頼に応えようと愚直に生きてきたことは確かであり、まっとうな人生を歩ませてくれたのは、中学3年生の時、不当に扱われた私を救ってくれた「繁之はウソをつく子ではない」という私を信頼してくれた山口先生の一言である。

2017年11月、たまたま、熊本県の八代市の公立小学校・中学校の校長会から勉強会の講師を依頼されて、40名ほどの校長先生方にお話をする機会があった。
当初、お世話になった山口先生のことを話そうと思っていたが、別の話で時間を費やし、山口先生とのことを話す時間がなくなってしまった。残念であったが、このブログを読んでくれる先生方もいるかもしれないので、私のように先生の一言で救われる生徒がいるので、先生方には、ぜひ子供たちの言い分に耳を傾けてほしいと強くお願いする次第である。

posted by 今井繁之 at 12:28| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする