2017年08月19日

「明日を考えて今日を生きる」

  
 以前は家電メーカーの生産拠点は国内に相当な数があったが、今は各社ともコストの安い海外に移転してしまい、国内の生産拠点は激減してしまった。
 私がお世話になったソニーも例外ではなく、エレクトロニクス事業の生産拠点は一頃は確か20数か所あったかと思うが、現在の生産拠点は神奈川県の厚木市以外に愛知県の幸田町、稲沢市、静岡県の湖西市、千葉県の木更津市の5か所である。
 千葉県の木更津市にある生産拠点は私が1967年から1983年の16年間勤務した会社である。
 この会社の前身は「桜電気」という名称の会社で、この会社の創業者であった鳥山寛恕さんがソニーの創業者である井深 大さんと知り合いであった関係で、ソニーのラジオ生産のお手伝いをするようになった。そのうちにソニーが資本参加するようになり、私の入社した当時はソニーが90%の株を所有しており完全な子会社であった。
 前述した厚木市、幸田町、稲沢市、湖西市にある事業所はソニーが設立した会社であり、江戸時代であれば親藩ともいうべき会社であり、私が勤務していた木更津市にあった「桜電気」(その後、「ソニー木更津」という名称となる)だけが外様の会社であった。
 桜電気と同じような経緯でソニーの子会社になった外様の会社は私の知っているだけで10数社あったが、中国を始め東南アジア各国に生産拠点が設立されるにともない、いずれの会社も途中で閉鎖・解散・消滅という運命をたどった。
 なぜ、外様の会社の中で「桜電気」だけが生き残ったのか?
 私の独断かもしれないが、それは経営者の差であったのではないかと思う。

 私が入社した1967年、この会社は社長である鳥山さんの判断で設計開発部門をスタートさせた。それまではソニー本社から設計図を渡されて、この通り作ってくださいと言われたものを生産して売上を上げていた。
 ラジオの受注は右肩上がりで、生産部門の業績は順調だったが、設計開発部門は赤字部門であった。私はこの会社で当初は経理部門に配属になっていたので、赤字であることはよく分かっていた。
 10人近くの技術者が設計開発の業務に従事していたがそう簡単に優れた製品を設計開発することはできなかった。その状態は数年続いた。
 私には「金食い虫」ともいうべき設計開発部門をなぜ抱えているのかが分からなかった。 ある時、社長である鳥山さんと夕食を共にする機会があった。酒の勢いを借りて、私は鳥山さんに「赤字の設計開発部門を抱えているのはなぜですか?」と聞いた。
 すると鳥山さんは「本社から指示されたものを低コストで生産しているだけでは技術力は向上しない。いつ本社から縁切りされるかもしれない。でも設計開発部門があり、独自の製品を開発して本社に提案できるようになれば、そう簡単に切られることはない。今、設計開発部門は赤字だが、そのうちに必ず黒になる。儲かるようになる。今日に満足していたらいつか限界が来る。順調な時こそ、明日のことを考えなければいけない。俺は会社の明日を考えて設計開発部門をスタートさせたのだ」と言う。      
 「明日を考えている」と言われて、なるほどと思った。
 子会社化された外様の会社は、当初はその会社の創業者に経営を委ねていたが、それらの人の多くはソニー本社から要求された生産量を確保することに汲々としているようであった。鳥山さんのように会社の明日の姿を考えて設計開発部門を自社に抱えようと考えた人はいなかった。
 「桜電気」の設計開発部門は徐々に力をつけて来た。自社で設計開発した製品がソニー本社に評価され、ソニーブランドで自社の工場で生産するようになった。
 社長であった鳥山さんは思いがけない事故で1979年に亡くなり、後継者はソニー本社から来るようになった。鳥山さんが亡くなって数年後、木更津市潮見地区に新たな工場を建設し、それを機に社名を「桜電気」から「ソニー木更津」に変更した。
 その「ソニー木更津」の工場敷地の一角に鳥山さんの記念碑が建っている。
 記念碑を建立してあるのはこの会社の創業者である鳥山さんに敬意を表している表れかと思う。
 鳥山さんが亡くなった後も自前で設計開発部隊を持つというこの会社の路線は変わることはなかった。結果的には他社に差をつけることになった。
 鳥山さんが亡くなってすでに38年が経過したが、いまだに木更津市に生産拠点があるのは、この会社に有能な設計開発部隊がいるからだと思う。
 後年になって、色々なことを学んで来て分かったことだが、経営者の役目は今日の課題を処理するだけでなく、明日を考えて組織をその方向に向かわせることであると思うようになった。

 鳥山さんから「俺は会社の明日を考えているのだ」と言われてなるほどと思ったその日の帰り道、(自分は果たして自分自身の明日のことを考えているか?)と自問自答した。 もちろん「ノー」であった。
 鳥山さんははっきり言わなかったが「お前も明日のことを考えて今を生きたほうがいいぞ」と言われたような気がした。
 その日を境に私は自分の明日を真剣に考えるようになった。
 いつかはこの会社を去らなければならない日が必ず来る。その日が来ることを覚悟して今から何か努力しなければいけない。
 大学を出たものの世の中に出て役に立つような勉強はほとんどしてなかった。この桜電気という極めて居心地のいい会社で能天気にここ数年過ごして来た。これではダメだ、自分の資産価値を向上させなければいけないと考えて、まずは公的資格を取ることにした。
 衛生管理者や社会保険労務士の資格を取得した。中小企業診断士の資格を取得しようと思ったが、今一つ乗り気になれなかった。
 そのうちに、私は人前で物怖じすることなくしゃべることはできるので、研修講師の資格を取得するのも悪くないという思いがして来た。
 そんなことを考えていた矢先に鳥山さんが亡くなった。その時、私は38歳になっていた。鳥山さんのお陰で私は総務部長という陽の当たるポジションにいたが、鳥山さんがいなくなった途端、閑職に回されることになった。
 閑職に回されたお陰で自由になる時間が十分取れるようになった。元々、本を読むのは好きだったが、この機会に以前から読みたいと思っていたビジネス書をむさぼるように読むことにした。さらに、外部の研修団体の開催する研修に積極的に参加した。考課者訓練の研修とか、AIAの研修とかといった研修プログラムを受講して、会社に戻ったところで、従業員に研修を行うことにした。

 この研修講師の仕事は自分に向いていると思っていたところに、ソニー本社からこの会社の責任者として来ていた岩城さんという方から「ソニー本社に異動して、論理的思考による問題解決・意思決定の手法(KT法)の講師をやらないか」という話があった。
 岩城さんには、何かの折に、「今井君はよく勉強しているようだね」と褒められたことがある。そのお褒めの言葉があって、しばらくして、研修講師の話が来た。
 子会社の人間が親会社の幹部社員に研修を行うという異例の処遇であった。
 自分の明日を考えて勉強?していたことが、このような結果に繋がった。
 ソニーでKT法の講師をしたことが、その後の私の人生を決めたのだから、若い時に鳥山さんという経営者に薫陶を受け、その人の「俺は会社の明日を考えている」という言葉を「お前も自分の明日を考えなさい」という意味に受け止めたことのお陰だと思う。
 昨年100歳でお亡くなりになった私の畏敬する『むのたけじ』さんの言葉に「より高く、より遠く跳躍しようとする者は、それだけ助走距離を長くする。現在以後をより高く積もうとする者は、現在以前からより深く汲み上げる」があるが、頭の柔らかい若い時から明日のことを考えて努力していれば、高年になってからあたふたすることは少なく、悠々とまでいかなくてもまずまずの人生は送れると思う。

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「人生に無駄なことなどない」

  
 先般、私が講師を務めている明治大学の「再就職を目指す女性達のための講座」に参加していた寺井淳子さん(仮名)という方とお話をする機会があり、彼女から「先生のブログを拝見しました。その中でティッシュを配る人に対する息子さんの態度について、先生が息子さんに注意されている文章を読んで感銘を受けました。私は先生が取り上げた消費者金融の会社に勤めていた時に、街頭でティッシュを配っていました」と言う。
 寺井さんの言われる話は、自分の書いたブログの「私の子育て論」の中で、私が中学生であった息子と連れ立って出かけた時、息子がティッシュを差し出す女性の手を乱暴に払いのけようとしたので「真面目に働いている人に対して君の態度はよくない。あの人達はティッシュを配り終えないと事務所に帰れないのだ。受け取りたくなければ『結構です』と言って黙礼するべきだ」とお説教したことを指している。
 寺井さんはそれを読んで、自分がそのようなティッシュ配りをしたこともあって、私に関心を持ったという。
 皆が皆、私の息子のようにティッシュ配りの人の手を払いのけることはないだろうが、受け取る人より、受け取ることを拒否する、あるいは無視する人が多いかと思う。
 寺井さんは「ティッシュの配付には配付手当金が付いており、受け取っていただけなくてもそれほど心配するようなことはありません。私は消費者金融の会社では色々なことを体験しました。仕事自体は大変厳しいものがありましたが、そこでの体験はその後の人生で大いに生きています。私は、今、契約している会社からの派遣で全国展開しているコンビニ店の『F』の開店がある度に呼ばれて、3日間、開店時の粗品渡しと会員登録の受付を担当しています。他の人より2倍、3倍の会員登録数があり、お店には喜ばれています。
 契約している会社からも大変高く評価されて、おかげで日本全国ほとんどに行くことができました。消費者金融の会社でのティッシュ配りの経験のお陰で人に声をかける、粗品を受け取ってもらうといったことは何のてらいもなくできます。
 この世に無駄になる経験はありません」と言われる。
 「無駄になる経験はない」と言い切る寺井さんは素晴らしい人だと思った。

 寺井さんから「無駄になる経験はない」という言葉を聞いて、同じようなことを言われた人を思い出した。その人は数年前、介護士からプロ棋士になった今泉健司さんである。 昨今、14歳の天才将棋棋士藤井聡太少年の登場ですっかり将棋プームになったが、藤井聡太君ほどではないにしてもプロ棋士になる人は若くしてその資格を取得するのが一般的である。
 ところが今泉健司さんは何と41歳という年齢でプロ棋士になった。この41歳は戦後再年長の年齢ということである。今泉さんは2014年にプロ編入試験に合格し、2015年4月1日付けでプロ棋士になった。
 今泉さんがプロ棋士になるまでの間に紆余曲折の半生があった。
 将棋の世界は厳しいみたいで、プロ棋士養成機関である奨励会に入会しても、26歳までの間に一定の成績を上げないと奨励会を退会しなければいけないということである。
 この今泉さんはライバルが多くて年齢制限(26歳)で退会せざるを得なくなった。  退会後、通信制高校で学び、そこを卒業後、レンタルビデオ店のアルバイトを経て日本レストランシステムで調理師として働いた。奨励会は退会したものの棋士になることはあきらめられず、奨励会三段リーグに参加したが、四段に昇格することはできず、規定により奨励会を再度退会し、将棋好きの社長が経営する証券会社でトレーダーの仕事をすることになった。しかし、その仕事には自分は向いていないことが分かり、そこを退社して郷里福山市に帰り、36歳の時、地元の介護福祉施設で介護士の仕事についた。
 福山市で将棋教室を営んでいた竹内茂仁さんという方から「今泉さんが将棋を捨てるのはもったいない。今までの経験は無駄ではありません」と言われ、介護士の仕事の傍ら、将棋教室の講師を務めながら、アマチュア棋士としての活動を続けたという。
 その今泉さんは介護福祉施設の皆さんの励ましもあり、プロ棋士になる努力を続けた結果、前述したように2014年にプロ編入試験に合格し、見事プロ棋士になった。
 介護の現場で働いたことについて、今泉さんは次のように語っている。
 「介護の現場は自分の将棋に足りなかったものを教えてくれました。最も大きかったのが目上の方々に対する感謝の気持ちです。自分を受け入れてくださる方々に素直にありがとうと言えば、同じようにその言葉が返ってくる。仕事の中でそれを繰り返していくと、入居者の方々との間に信頼関係が生まれてくる。僕は36歳までは将棋以外、何も持っていない人間でした。でもこの仕事によって得た多くの人達との出会いが力となり、将棋に幅ができたような気がしているのです。
 将棋というのは盤上での闘いですが、決して一人で戦っているわけではない、そんな思いが、最後の最後まで気持ちを切らさない力となり、終盤の粘りとなったように思います。 (中略)諦めたことも一度や二度ではないですし、嫌になったことも一度や二度ではありません。そんな七転び八起きの人生でした。でもその41年間という歳月は僕にとって、『人生に無駄なことなどない』と気付くための時間だったかもしれません」
 今泉さんにとって、介護士の仕事だけでなく、レンタルビデオ店でのアルバイト体験、調理師の仕事、証券会社のトレーダーの仕事の経験も今泉さんがプロ棋士になる上で役に立ったはずである。 

 私も12歳の時の新聞配達を皮切りにこれまでの人生で色々な経験をして来たが、「無駄な経験はない」ということは自信を持って言える。
 こんなことはつまらない、こんなことをいくらしていても何にもならないとその時は思ったが、自分の将来にその経験が生きたということが沢山あった。 
若い人に申し上げておきたいが、就職先は自分の望んだところであったとしても、自分が必ずしも希望した職場に配属にならず、むしろ望んでいなかった職場に配属になる場合があるが、その時、不満を持ちながら投げやりな態度で仕事をしてもロクなことはない。
たとえ、自分の意に添わない仕事であっても、与えられた仕事に意義を見出だして、それに積極的に取り組むと思いがけないトクをすることがある。
 以前、NHKでニュースキャスターをしていて、今現在はフジテレビでコメンテーターを務めている、木村太郎さんという方がいる。
 NHKに記者として入社した人はたいてい政治や外交や刑事事件などの華々しい舞台に出たがるものだが、木村さんがNHKに入って最初に担当させられたのは気象庁だった
その関係で「お天気ニユース」の原稿を書く仕事に従事した。
 NHKに勤務していた最後の頃の花形ニュースキャスターとして活躍している姿から想像するに、木村さんも海外からレポートしたり、国会の赤じゅうたんを踏んだり、刑事の自宅に夜討ち朝駆けしたりする仕事に従事できる配属先を希望していたのではないかと思う。しかし、木村さんは「お天気ニュース」の仕事を周りの人が感心する位、生き生きとやっていたばかりか、自分で天気図を書く練習をしていたという。
 木村さんは与えられた仕事の内容が未知のものであり、また難しいものであったので、この機会に勉強しておこうと意欲を燃やしたそうです。
 そして、この時の天気図を書く勉強が後年、取材記者として海底火山の爆発の取材に行った時、天候の急変が予測でき、現場から早く脱出して命を失わないですんだという事につながったということです。
 木村さんのように与えられた仕事に前向きに取り組んでいれば、その時の経験がいつかどこかで生きるものである。
 「無駄になる経験はない」は正しく至言である。





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2017年06月14日

忘れられない6日間


 そうそうあるものではないが、予期せぬ出来事に遭遇して、必死になって頑張って何とか切り抜けたという体験を持っている方も結構いるのではないかと思う。
 少し前になるが「13デイズ」という映画があった。キューバに核ミサイルが配備されていることを巡って米・ソが対立し、当時のアメリカ大統領であるケネディ及び彼のスタッフの苦悩の日々をドキュメンタリータッチで描いたものであるが、そんなに大袈裟なものでなくても、人には後になって考えてみると、「あの時は大変な思いをしたなぁ、よくがんばったなぁ」と思い出す忘れられない日々が多かれ少なかれあるのではないかと思う。
 記憶が少し薄れた部分もあるものの、私にとってあの時はよく頑張ったなぁと思い起こすのは、今から38年前の昭和54年の3月16日から21日までの6日間である。
 この6日間がどういう日であったかというと、当時、私は千葉県木更津にあるソニーの子会社に勤務しており、その勤務先の社長であった鳥山寛恕さんという方が亡くなられて、社葬を含む葬儀の実質的な責任者を私が務めた日々である。
 3月16日の朝、鳥山さんからいつもの通り「迎えにいくぞ」という電話があって、鳥山さんの運転する社長車の助手席に乗って会社に向かった。鳥山さんは私の勤務先の社長であり、本来ならば私が迎えにいかなければならないが、当時も今も私は車の運転免許は持っていなかった。また、鳥山さんは体裁を気にする人ではなく、私は私で社長に迎えに来てもらうことを遠慮するという普通の神経の持ち主ではなく、ごく当たり前のように社長に迎えに来てもらっていた。
 車中で前日にあったことを報告している間に会社に着いた。
 しばらくしたら社長室にいる鳥山さんから内線電話が入った。「女房から電話があったがウチの犬が今朝から行方不明だと言うんだ。変な話だよ。ところで今日は大丈夫かな?こんな天気だから見合わせてくれたらありがたいなぁ」と言う。
 この日はソニー本社から、当時副社長であった大賀典雄さん他二人の役員がヘリコプターに乗って工場見学に来ることになっていた。鳥山さんがこんな天気と言ったのはこの日は朝から風が非常に強かったことを指している。
 「まあ仕方がないか、俺はヘリの迎えに出るから後はよろしく頼む」と言って電話は切れた。これが鳥山さんと交した最後の会話である。

 自分の席にいて書類に目を通していると、部下の一人であるSさんが私の席に走って来て「今井さん、大変なことになった。社長が死んじゃった」と言う。私は一瞬、社長というのは大賀さんのことかと思った。乗ってきたヘリに事故があって着陸ミスが生じたものだと思っていたら、そうではなく、亡くなったのは迎えに出た鳥山さんであると言う。
 ヘリが折からの強風にあおられて不自然な形で着陸、ヘリの後部から煙が出ているので、中にいる大賀さんを救出しようと迎えに出た鳥山さん以下の人達がヘリに近付いたところ、それまで静止していたヘリのローターが動きだし、先頭の鳥山さんの頭を強打したということである。
 救出作業の先頭の立ったのが部下達ではなく鳥山さんであったというのが常に率先垂範をモットーにする元陸軍士官学校出身の鳥山さんらしい。
 鳥山さんの他に迎えに出た役員と総務部員の3人が負傷して病院に行くことになった。
 ヘリコプターに乗ってきた大賀さんも怪我を負っていたが、命には別条なさそうなので近くの病院に運んだ。私にとっては大賀さんの容体はどうでもよくて問題は鳥山さんが亡くなられたことへの対応であった。鳥山さんが亡くなったという悲しみにひたる間もなく、総務部長である私の元には「木更津警察署の方が見えました」、「消防署の方が見えました」、「監督署の方が見えました」という具合になぜこのような事故が起きたかという事情聴取の来客が押し寄せてきた。さらにマスコミから立て続けに電話が入り事故原因と亡くなった鳥山さんの略歴を教えてほしいという。蜂の巣を突っついた騒ぎというのはこのようなことをいうのだろう。
 最高指揮官はいなくなり、三人いる取締役の内、一人は負傷者で病院に搬送されており、残った取締役もこの場面ではリーダーシップを取るのは難しい、ここでは私が司令塔になるしかないと不遜にも考えた。
 そして、私はこの混乱している状況下で何から着手したらよいかを冷静に考えた。あれこれやらなければならないことを書き出してみた。それらの中で自分がやらなければならないことと他の人にやってもらうことに分けた。自分がやらなければならないことに優先順位をつけた。自分がやらなければならないことの中で最も優先順位が高いことは、鳥山さんが亡くなられたことを東京の自宅にいる奥さんに伝えることである。
 「ご主人は亡くなりました」とストレートに告げたらショックが大きいだろうと考えて、私は「大怪我をしたので大至急来てほしい」と告げた。「本当なの?冗談でしょう」と言って私の言うことを素直に信用してくれない奥さんをなんとか説得して来てもらうことにした。

 司令塔を務める覚悟はできたが、経営トップが突然死去した場合、何をやるべきかについてのノウハウを私はまったく持ち合わせていない。
 危機に際しては「司令塔はむやみに動いてはいけない」ということをものの本で読んでいたので、この時は極力動かず、電話で関係者にやっていただきたいことを依頼した。
 途中で取締役製造部長のMさんが来て「今井さん、社長が亡くなったことが現場に伝わり、泣いている人がいるがどうしょうか? 作業をストップした方がいいかな?」と言う。
「いや、作業はストップしないで下さい。鳥山さんも自分が亡くなったからといって作業がストップするのは望まないはずです」と私は言う。
 後でよく考えてみれば、コンべアを止めて3分でも黙祷をするべきだったと思う。
 次いで、取締役経理部長のYさんが、「今井さん、ソニー本社から社葬はいつになるかという問い合わせが来ているがいつにしますか?」と言う。「そんなこと今、分かるわけがないでしょう。『後でご連絡します』と言っておいて下さい。私に相談する前にもうすこし自分でも考えて下さい」と興奮している私は自分より上位の者にとんでもないことを言う。
 実に生意気な対応であった。日頃から生意気であったが、この時は頭に多少血が上っていたのでより生意気な対応をしてしまった。
 社葬は21日に行うことにして、社葬の具体的なことは鳥山家の葬儀が済んでからゆっくり考えればよいということにした。この日、私がやるべき仕事は鳥山家としての葬儀に全面的に協力することであると考えた。午前中から午後にかけて昼飯も食べないで事故の後片付けに終始し、夕方になって東京の世田谷にあった鳥山さんの自宅にお伺いし、葬儀の打ち合わせをした。
 終わったのは夜の10時過ぎであった。同僚の荒木さんに自宅まで送ってもらったが、家に着いたのは12時を過ぎていた。
 翌17日はソニー本社の会長の故盛田昭夫さんが従業員の動揺を静めたいということでわざわざ工場に来て挨拶されるというので、自宅をいつもより早く出た。
 この盛田さんは当時、相当忙しかったはずだが、その人が翌18日の葬儀の時もずっと式の終わるまで参列されたのにはびっくりすると共にこの人は凄い人だと思った。
 この葬儀についてソニー本社の皆さんと打ち合わせした際、当時、ソニー本社の総務部長であった若尾さんという方が「私共は今井さんの指示に従うから遠慮なく何なりと申し付けて下さい」と言ってくれた。スタッフは絶対的に足りないのでその言葉に甘えることにして、全面的な協力をお願いしたが言葉どおり惜しみない協力をしてくれた。
 18日夕刻に行われた葬儀は九品仏にあるお寺で盛大に行われたが、私は葬儀の司会役を務め、終了後、参列者にお礼の挨拶をして、深夜、千葉にあった自宅に戻った。
 翌19日、出社してすぐ、社葬の準備に取り掛かることにした。
 社葬は木更津市民会館を借りて行うことにしていた。祭壇を飾る菊花の準備、取引先への連絡、読経をしてもらうお坊さんの手配等色々やらなければならないことがあるが、それらは部長クラスにそれぞれ役割を分担してもらい、準備をしてもらうことにした。
 こんなことは初めてのことであり、多少の意見の対立もあってもめる場面もあったが、「亡くなった鳥山社長に恥をかかせることだけはしないようにしよう」と申し合わせてそれぞれに頑張ってもらった。
 社葬当日は前日までの雨天がうそのように晴れて、約2000人の方に参列いただいた。
 式自体は多少のハプニングはあったものの、なんとか滞りなく終えることができた。
 この社葬も自分が司会進行役を務めた。式が一通り終わって鳥山さんの奥さんを始め参列いただいた関係者をお見送りして、ほっとしたところで、鳥山さんは本当に亡くなってしまった、もう二度と謦咳に接することはないという思いから、悲しみの涙が鳥山さんの死亡の報告を受けてから初めて私の頬を伝わって落ちた。
 悲しみの涙はその報に接した時に流れるものではなく、悲しみに関わることが一通り終わってほっとした時に涙は出るものだということをこの時初めて経験した。

 社葬が終わって、会社に戻り、自分の席で女子社員が入れてくれたお茶を飲みながらしばし鳥山さんとの思い出にふけった。
そして、次は何をすべきかを考えていたところ、取締役経理部長のYさんが来て、私に次のようなことを言う。
「ソニー本社に管理職一同でお礼の挨拶に行こうと思うが………」
 「なぜ、お礼の挨拶なの?」
 「あれだけ立派な葬儀ができたのも本社のおかげだ。お忙しいにもかかわらず岩間社長 を始め沢山の方にご参列いただいた。費用も本社がすべて持ってくれるのだからお礼を 申し上げるのは当然だと思うが………」
 「お礼の挨拶だったら葬儀の終わった後に申し上げているし、そもそもこのようなこと になった責任はソニー本社にあるのだから、このくらいの配慮をするのは当然ではない ですか」
 「それは違うよ。お世話になったらお礼の挨拶に行くのが常識だ。今井さんが行きたく ないのなら私達だけでも行くがそれでもいいか…………」
 「どうぞ勝手に行ってください。管理職が一人もいないのも具合が悪いから私は留守番 をします」
 ということで、私を残して管理職全員がソニー本社にお礼の挨拶に出かけた。その人達を見送ることもなく、私は事故現場に向かい、もう言葉を交わすことは永遠に叶わない鳥山さんの霊に問い掛けた。
 「お礼の挨拶に行くのはおかしいと思った私の判断は間違っていますか?」と。
 答えはもちろん返ってこなかったが、想像するのに次のような言葉が返ってきたのではないかと思う。
 「間違っているとは言わないが、お礼の挨拶に行った方が無難だぞ。でもお前が自分の主張が正しいと思うならそれはそれでいいが、しかし、これから先も、この会社でそんなに肩肘張って生きていくのは大変だぞ」と。

 この後、実の息子のように私を叱ってくれた人がもうこの世にいないという寂しさをひしひしと感じながら今は主のいなくなった社長室に入った。
 鳥山さんの机の上にキーホルダーがあった。キーはご家族がすべて抜き取ったものと思われるが、鎖だけのキーホルダーが残っていた。何か一つくらい遺品としていただいても鳥山さんだったら許してくれるだろうと勝手に考えてそれをいただくことにした。
 
 一連の葬儀すべてを終えて我が家に戻り、お風呂にゆっくり入り、上がったところで、体重を測ったら68キロあった体重が63キロと6日間で5キロもやせていた。
 この6日間は周りの人達に頼りにされて、常に自分がしっかりしなければ駄目だと言い聞かせ、寝食を本当に忘れて頑張った日々であった。
 後にも先にもこんなに頑張った日々はこれまでなかった。我ながらよく頑張ったと思う。
 誰も褒めてくれなかったが、ひょっとしたら故人となった鳥山さんは「お前にしてはよくやった。今までお前を褒めたことはなかったが、今回だけはちょっぴり褒めてやろう」と言って最初で最後のお褒めがあったかもしれない。
 私にとって、初めて経験した「危機管理」であったが多くのことを学んだ。
 一つは司令塔はみだりに席を動いてはいけないということである。
 二つ目はあれこれやらなければならないことがあったとしても、どれから着手するかという優先順位をつけてから行動に移ることである。
 三つ目は自分一人で頑張るのではなく、関係者に役を割振り、大まかなところは指示するとしても、細部はその人達に任せることである。
 つらかったが、貴重な経験をさせてくれた6日間であった。

 なお、鳥山さんが亡くなる寸前、心配していた犬はとうとう戻ってこなかった。
 犬は予知能力が優れているそうだが、鳥山さんが可愛がっていた犬も主人の危険を察知して家を飛び出し、世田谷から木更津に向かう途中で行方不明になったものと思われる。
 机の上から勝手にいただいた鳥山さんのキーホルダーはあれから38年経った今でも私はお守り代わりに愛用している。                         
posted by 今井繁之 at 15:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする