2020年06月25日

生きていて欲しかった人 高倉健さん 



 少々以前の話で恐縮だが、2014年11月10日、多くの人に敬愛された映画俳優、高倉健(以下健さんとさせていただく)は帰らぬ人となってしまった。
 そのお亡くなりになった当時のことであるが、私は敬愛する健さんの最後の手記が文芸春秋2015年新年号に掲載されているというので、発売当日、早々に購入した。
 知らされていなかったようなことが沢山書かれているかと思って読み始めたら、健さんが書いた原稿のページ数はわずか6ページであり、正直言って少々落胆した。でも、健さんは執筆を引き受けた以上、何としても仕上げなければならないという気持ちで渾身の力をふり絞って書いたに違いない。書きたいことは沢山あったのだろうが書き上げるまで神様は待ってくれず、途中で命が尽きてしまったのだろうと考え直した。
 ただ、最近、健さんの養女と名乗る小田貴月さんという方が「高倉健、その愛。」というタイトルの本を文芸春秋社から出している。そこには「人しれず2人で暮らした17年の日々。孤高の映画俳優が最後に愛した女性による初めての手記」と紹介文があり、続けて「高倉からのリクェストはたった一つ、『化粧をしないでください』」とある。
 本当に健さんがこの人を愛していたかどうか分からないが、健さんのこれまでの生き様からしたら、このような形で自分のことが明らかにされることは最も避けたいことだったのではないかと思う。この人は健さんに「書いてくれ」と頼まれたというが、真実は分からない。
 書くのだったら、健さんと50年間、夕食をほぼ共にしていたという俳優仲間の小林稔侍さんに書いていただきたかった。でも、小林さんは健さんから「俺が死んでも俺とのことをあれこれ絶対に語るなよ」ときつく言われていたから書かないし語らないと言う。
だから小田貴月さんが健さんのことをあれこれ語っているのは不思議な気がする。
 私は同書を本屋さんで立ち読みしたが、作者の特別な小田さんには悪いが、特別なことは書いてないので購入するのは止めた。

 2015年の健さん自身の手記の次のページに健さんと親交のあったノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが「深い海の底に 高倉さんの死」と題して49ページに渡って健さんとの思い出を書いている。
 冒頭に、沢木さんは「電話で『高倉健さんが亡くなられましたが一言コメントをいただきたい』と雑誌記者?にコメントを求められたが、『私は電話でコメントするということはしていないので申し訳ありません』と断った」と書いてある。            
 私の勝手な推測だが、健さんへの思いを語るのにわずか数行で語ることはできないと考えて断ったのではないかと思う。          健さんと沢木さんの関係は30数年前、沢木さんがロスアンジェルスで行われたプロボクシング ヘビー級タイトルマッチ、ラリーホームズ対モハメッド・アリ戦を観戦したいと思っていたがチケットが入手できず、観戦を諦めていたところ、友人を介して、健さんから「自分より沢木さんが見た方がいい」ということで、特等席のチケットを譲ってもらって以来のお付き合いということである。              お付き合いがあったといえ、沢木さんがこれだけの追悼文を書いた理由は私の勝手な想像だが、恩義のある健さんが渾身の力で書いた手記が6ページであったことを知って、健さんの書き足りなかった分を補完しようと思って49ページに渡る長文の追悼文を書いたのではないかと思った。
 健さんが書きたかったのではないかと思われる事柄も随所にあり、天国の健さんも「沢木さん、助けてくれてありがとう」と言っているのではないかと思った。

 亡くなられたということもあり、健さん主演の懐かしい映画がテレビで放送されることがしばしばある。繰り返し見ているが、何度見ても、どれも素晴らしい。新たな映画が見ることのできないのは本当に残念である。                     
映画ではないが、健さんが亡くなられた後もしばらく流されていた健さんの登場するテレビCMが一つだけあった。
 それは九州鹿児島に本社のある健康食品を製造・販売している「健康家族」という会社のCMである。
 同社の『にんにく卵黄』のCMに健さんは出演しており、健さんが亡くなられた後も、1年か2年か、流されていた。
常識的に考えれば健康食品のCMに出演していた人が亡くなると中止になる。
 健さんの出演する『にんにく卵黄』のCM第一回分は2014年3月に放送された。第2回分はその年の夏に撮影を済ませて、秋から放送されていた。
 恐らく健さんはこんなに早く自分が亡くなるなんて思っていなかったのだろう。しかし、健さんは自分の死期が近いことを悟った段階で、CMはまだわずかの期間しか放送されていない、自分が亡くなると、せっかくのCMの放映を中止せざるを得なくなり、「健康家族」社に迷惑をかけてしまうのではないかと病床で考えたのではないか? もし、差し支えなければCMをそのまま放送していただいても一向に構わないということを「健康家族」社に伝えるべきだと考えたに違いない。         
 「健康家族」社によると亡くなったという発表が公になる直前に高倉健事務所の社員が健康家族本社に直接訪れ、健さんが亡くなったことを報告したという。その席で健さんの意向を伝えたところ、「健康家族」社でも、健さんのお言葉に甘えさせてもらうことにして、CMのページに「高倉健さん所属事務所の意向もあり、哀悼の意を込めて広告を続けております」と事情を説明する文章をつけて引き続き流すことにしたということである。                                
 「健康家族」社の総務部長の村田悟氏は「筋を通すため、公になる前に伝えたいということで弊社までわざわざ来られた。とても悲しいが、こうした地方企業のCMに出演していただき、感謝の気持ちでいっぱいです」と語っている。              
 「健康家族」の公式サイドのトップページを見ると「高倉健さまのご訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します。弊社広告にご出演いただきましたことに心から感謝してご冥福をお祈り申し上げます」というメッセージを掲載していた。
 「健康家族」社は1993年に徹底したこだわりで手間はかかるものの無農薬のにんにく入りの健康商品を『にんにく卵黄』というブランド名で生産・販売するようになった。 この製品をもっと多くの人に知ってもらいたいということでテレビCMを流すことにした。「健康家族」の企業理念は「不器用でも信頼の置ける会社」ということであり、日頃から「自分は不器用ですから」と自称している健さんと共通点がある。  泥臭く、手間も人手もかけて自社生産する商品や企業イメージと、健さんのイメージと一致するということで、同社の社長の藤裕己さんは健さんに直筆の手紙をしたためて、ダメ元で出演を依頼した。ところが同社の企業理念や商品に共感した健さんから「お引き受けしましょう」という返事が来たという。                      
健さんと打ち合わせしている中で、健さん自身がファンだという井上陽水さんの音楽をBGMに使おうということになり、陽水さんに話すと健さんからのお話であれば喜んで協力しましょうということになり、陽水さんの名曲『少年時代』がバックで流れるという豪華なCMとなった。さらに第1回目のCMに夜汽車に乗っている健さんが出てくるが、この撮影にはJR九州が協力してくれて、未明に列車を臨時に走らせてくれたという。
 CMの中で健さん自身の声で「農薬は使わない、その分 汗を流せばいい、この一年どれだけ頑張ったかは取れたにんにくが教えてくれる」という力強いナレーションがある。 恐らく、この声は私共一般の者が耳にする、生前の健さんの最後の声だと思う。
 健さんはこのCMの撮影前に事前の連絡をすることなくサプライズで「健康家族」社を訪問して、職場やコールセンターの雰囲気を見学したという。事前に伝えると会社に準備の手間を煩わせてしまうので、それを避けたのだということだが、いかにも健さんらしい。

 このCMは健さんに出演していただき、陽水さんに音楽を提供していただき、JR九州さんに列車を運行してもらったので製作費用は相当かかったのではないかと他人事ながら心配になった。
 でも、ひょっとしたらそれほど支出しなくて済んだのかもしれないとも思う。
 そう思うのは、前述した文芸春秋2015年新年号に出ていた沢木耕太郎さんが健さんにラジオ出演を依頼した時のエピソードを読んだからである。
 健さんに世界タイトルマッチのチケットを譲ってもらって以来親交を重ねるようになった沢木さんは東京のFM局から沢木さんの会いたい人に、その人が行きたい場所で会い、お話をするという番組に出演を依頼されて、それを受諾した。沢木さんは第1回目のゲストとして健さんに出てもらいたいと思った。番組のディレクターは「とても無理だろうが、お願いだけでもしてみましょう」ということで、お願いしたら、何と健さんからオーケーの返事が来たという。そして話をするなら北海道の牧場に泊まりがけで行かないかと言ってくれたという。お言葉に甘えて北海道で2日間過ごして、番組は無事できたという。                             

番組が出来てからディレクターは大変なことを忘れていたことに気がついた。健さんの出演料を決めていなかったことを。デイレクターは恐る恐る健さんの事務所に電話して 「今回の出演料はいくらお支払いしたらよろしいでしょうか」と。すると健さんの事務所の女性が「ラジオの予算ではとてもお支払いになることはできない額だと思います」と言う。 ディレクターは蒼くなったが、事務所の女性は続けて次のように言った。「だから、一銭もいただかなくてもよいと(高倉健は)申しております」と。
 この沢木さんの番組には健さんが出たということもあって、この後、吉永小百合さん、中島みゆきさん、井上陽水さん、さらには美空ひばりさんまで出演してくれることになったという。健さんが出演料を辞退したのだから、他の人達も辞退するか、あるいは交通費だけ結構ですということになったのではないかと思う。               

 健さんは本当に多くの人に好かれていたと思う。それは偏に健さんの人間性にあるかと思う。私のブログ「多くの人に好かれる人 高倉健さん」で健さんのエピソードを取り上げてあるが、この人は心から人を思いやる優しい人であった。健さんは「いい出会いがあったから人を思いやることができるようになった」と語っている。
 そして健さんはご自身の書かれた本の中で「誰それがよろしくと言っていましたという人がいるが、僕は違うと思う。本当によろしくと思っているなら、どんな形でも自分で伝えるべきだと思う」と言っているが、正しくその通りだと思い、私もそれを実践しようと心掛けている。

 しかし、その健さんは帰らない人になり、すでに5年が過ぎだ。
 健さんが亡くなった直後、私が健さんを敬愛していることを知っている友人から「お力落としをされたことでしょう」と慰められた。確かに悲しくて、脱力感に襲われたが、そこから立ち直って今日まで来ている。
 時折、健さんが出演された「君よ憤怒の河を渉れ」を始め「幸福の黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」等がテレビで放送されるので、それらをしばしば見る。また健さんが執筆された『旅の途中で』を始めいくつかの本は残っているので、それらの中にあった言葉を書き留めておき、時々それを見て、生きていく糧にしている。
 健さんの年齢に達するまでまだまだ時間はあるので、これまで以上に「いい出会い」を求めて頑張って生きて行こうと思う。        そして、いつの日か、黄泉の世界に行って、もし健さんにお会いすることができたら、健さんに「男の生き方を教示していただきありがとうございました」とお礼を言いたい。   
posted by 今井繁之 at 13:44| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

私の敬愛する作家 藤沢周平さんのこと


私は友人の紹介でフェイスブックの「ブックカバーチャレンジ」というコーナー?に私の好きな作家・作品を紹介しました。2020年の6月初から掲載して、第1回が高倉健さん、第2回目が中嶋 敦さん、第3回目が柚月裕子さん、第4回目に紹介したのが藤沢周平さんの作品『又蔵の火』です。
作品の中身を紹介していると長くなるので、それは割愛しますが、藤沢周平さんという方は奥ゆかしい人柄の人で、その人柄を「ブックカバーチャレンジ」でほんの僅か紹介させてもらいましたが、それでは物足りず、改めてここに載せることにしました。
ご存じの方も多いかと思いますが、藤沢周平さんは映画・テレビドラマ化された「たそがれ清兵衛」、「蝉しぐれ」、「三屋清左衛門残日録」など数々の名作品を書かれています。多くの作品の舞台になっているのは藤沢さんの郷里である山形県鶴岡市であり、藤沢作品に傾倒している私は一度はこの鶴岡市に行きたいと思っていました。
今から数年前、たまたま、東北6県の自治体の課長クラスを集めての研修会があり、その席で私は藤沢さんのファンであり、「一度、鶴岡市に行きたいと思っている」という話をしたら、たまたま参加者の中に鶴岡市の隣町の三川町から参加されていた成田さんという方がおられて、その方は研修会が終わったら、私を鶴岡市まで案内するという嬉しい申し出がありました。そして、藤沢さんが作品を執筆される際に、時々利用した鶴岡市湯田川にある九兵ヱ旅館に宿泊できるように手配したと言われます。それも藤沢さんが執筆する時に使用していた部屋に泊まれると言う。
藤沢さんは作家になる前は中学の先生をしていたが、その当時の教え子の大滝澄子さんが九兵ヱ旅館を経営しており、湯田川温泉の旅館でも格が上の旅館だという。
成田さんの案内でその九兵ヱ旅館に着くと、藤沢さんが執筆時に利用していたという部屋に通された。私は相当立派な部屋に通されると思っていたが、通された部屋は8畳?の普通の部屋であり、日当たりはあまり良くなく、外の景色もあまり見えない。本当にこの部屋を藤沢さんは利用していたのかな?と疑問に思ったが、宿の人が言うのだから信用するしかなく、そこに一泊した。

翌年、今度は庄内振興センターというところから研修を依頼されたので、再び鶴岡市に行くことになった。今度は自分で九兵ヱ旅館に電話して、部屋を確保した。 その際、昨年、藤沢さんゆかりの部屋に泊まったことは話さなかった。
研修会の前日に九兵ヱ旅館に着き、部屋に通された。今度は昨年と違って日当たりもよく、外の景色もよく見える立派な部屋であった。
そこで、案内してくれた宿の人に「実は私は昨年もこちらにお世話になったが、昨年は藤沢先生がご愛用の部屋に通されたが、どうみても今回のこの部屋の方が立派で、昨年の藤沢先生ご愛用の部屋は一段落ちるような気がしますが・・・」と遠慮がちに言うと、「その通りです。藤沢先生は自分はどんな部屋でも構わないと言われてあの部屋を使われたのです。この部屋のようないい部屋は自分にはもったいないと言われて固辞されるので、やむを得ずあの部屋を利用していただいたのです」と言う。
藤沢さんにお目にかかったことはないが、藤沢さんの作品を通じてお人柄に感服していた私はやはりそうだったのかと納得した。
藤沢さんは最初はこの旅館の一番いい部屋に通されたと思う。この旅館の大滝さんに確認したわけではないが、大滝さんは宿代のお支払のところで「先生から頂戴するわけにはいかない」と利用料金の支払いは遠慮したのではないかと思う。「そうはいかない。支払います」と藤沢さんは強く言われたと思う。「分かりました。どうしてもということであればいただきます」ということになったものの、大滝さんの請求金額は非常に低い金額だったのではないかと思う。
そこで、旅館側にご迷惑はかけまいということで二度目からは私が昨年お世話になった粗末な部屋?を選択したのではないかと勝手に想像する。当たらずといえども遠からずで、藤沢さんだったらそういった振る舞いをすると思う。
このエピソードを通じて、藤沢さんへの畏敬の念をさらに深くした。
藤沢さんの作品を読むと、藤沢さんのお人柄をほうふつさせるような主人公が登場して心が温かくなるので、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思う
posted by 今井繁之 at 13:27| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年05月30日

失うものを恐れない

 
 私達は仕事の上でも、私生活の上でも、どうしたらよいかと決心を迫られる場面がある。
そのような時、あれも満たしたい、これも満たしたいということがあっても、そこでは、あれもこれもと欲張ることなく、どれかに絞って決心するとスムーズに決めることができる。その際、失うものがあっても、それを恐れないことが必要である。

 失うものを恐れなかった事例を具体的人物の例を借りて紹介する。
 2020年3月、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組で欽ちゃんこと萩本欽一さんが若い後継者に笑いの神髄を伝えようと頑張っている姿が紹介された。
 私は萩本欽一を知ったのは昭和42年頃であった。知ったと言っても直接お会いしたわけではなく、テレビの画面を通じて萩本欽一さんの存在を知ったということである。
 当時の萩本欽一さんは25歳、私もまったく同じ年齢の25歳であった。同年齢の誼で、萩本欽一さんを以下は「欽ちゃん」と呼ばせていただくがご寛恕いただきたい。
欽ちゃんは故坂上二郎さんと組んでコント55号と称して、舞台狭しと飛び回ってお客さんを楽しませていた。私はその姿を見て腹がよじれるほど笑った。同時代に、関西には西川きよし、横山やすしという人気者がいたが、コント55号はそれを凌いでいたのではないかと思う。
その当時のエピソードが、10数年前になるが、NHK衛星の番組で「欽ちゃんの初恋」というタイトルで放送された。
 その番組の中で欽ちゃんは人気者になる前は浅草の劇場でほんの端役で働いていたが、そこで知り合った澄子さんという踊り子とお付き合いしていたことが紹介されていた。澄子さんは欽ちゃんより年上であり、収入も欽ちゃんよりはるかに多くあり、欽ちゃんは澄子さんからお小遣いをもらうような関係だった。欽ちゃんにとって澄子さんは初恋の人であったという。
 欽ちゃんの思いが通じて、澄子さんと一緒にひっそりと生活するようになったが、一部週刊誌に「コント55号として活躍している欽ちゃんには恋人がいる」と取り上げられた。 澄子さんはその週刊誌を見て、将来のある欽ちゃんに迷惑をかけていけないと考えて、黙って二人の住まいから出て行った。彼女を忘れられない欽ちゃんは必死になって探し出して、マスコミにばれないようにしたお付き合いが始まる。澄子さんから「結婚は望まないが、あなたの子供は欲しい」と言われて、二人の間に子供ができた。しかし、彼女は今や国民的スターになった欽ちゃんに妻子がいては人気に障ると考えて、またもや黙って欽ちゃんの前から姿を消す。今度もあきらめずに探し当てて再会する。そして、欽ちゃんはこの澄子さんと子供がいることを隠すことなく、オープンにするべきであると決心した。
 欽ちゃんは「自分には妻子がいます」と発表したら、自分を独身だと思っていたファンが離れていくのではないか、そしてせっかく築いた地位が崩れてしまうのではないかと悩んだ。悩んだ欽ちゃんは雑誌社の知り合いにも相談したが、最後は自分で決めた。
 決めるに当たって、欽ちゃんは(自分は人より抜きんでた特殊な才能があるわけではない、たまたま人気者になって芸能界にいるが、妻子持ちということで人気がなくなり芸能界を去らなければならないことになったところでどうということはない。人気者という地位を捨てても澄子さんと子供を守ることが大事だ)と考えて、記者会見をして、「自分には奥さんがいます。子供もいます」と事実を包み隠さず淡々と話したという。
 発表した後、心配そうな表情を浮かべている欽ちゃんに記者の一人が「私達は仕事を一生懸命やっている人をつぶさないよ」と言ってくれたと言う。
 翌日の新聞には全紙とも妻子のある欽ちゃんを祝福する記事であったそうである。
 欽ちゃんの初恋を貫いた純情に拍手する人が多く、人気が落ちるどころか、さらに人気者になり、失ったものより得たもののほうが大きかったという。
 欽ちゃんがそうであったように、人は今持っているものを失ってもスタート地点に戻ればよいと覚悟を決めれば、自分の気持ちに素直になることができて、強くなれると思う。

 欽ちゃんと並べて語るのはおこがましいが、失うことを恐れない、築いたものは捨てても構わないと考えると決心がつくということを私も経験したことがある。
 今の研修講師の仕事に就いたのも、得ていたものを潔く捨てる決心をした結果である。
 長年勤めた会社を辞めて、研修講師として独立しようと考えたのは44歳の時であった。
 辞めることはイコール安定した収入を約束してくれる勤務先を失うことになるが、本当にそれでいいのかと自問自答した。答えは何とかなるのではないか、ならなかったとしても自分のスタート点は中学を卒業して町工場に勤務したところにある、そこに戻ればいいのではないかと考えた。現実問題、44歳の何の技術もない人間を町工場が雇用してくれることはないだろうし、事務関係の仕事に大学卒業以来従事してきたが、今現在、得ているのと同じぐらいの給与で雇用してくれるところはないかもしれない、でも、まだ44歳、何とか生きてはいけるのではないかと楽観的に考えた。
 カミさんにも相談したところ、彼女の実家は房総で農業をしており、「ダメだったら田舎に帰って農業をやれば何とか生きていけるでしょう」と気軽な調子で言う。
 腰痛持ちの私には農業は無理だと思ったが気が楽になったのは確かである。
 結果的には支援してくれるお客様に恵まれて今日まで講師業を続けることができた。

 欽ちゃんもそうであったように、捨てたからといってもすべてを失うことはないと思う。
 失うことを恐れない、得ていたものを捨てることになってもよいという覚悟があれば何とか道は拓けるものであると私は思っている。
posted by 今井繁之 at 14:40| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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