2018年08月09日

これも一局


 『聖の青春』いう名作を書かれた私の好きな作家の一人である大崎善生さんが、将棋の世界では「これも一局」という言葉がよく使われると語っている。
この言葉は対局が終了した後で、戦っていた棋士同士が、「ここでこうすればどうだったか」とか、「こう指していたらあなたはどう指されましたか」といった話し合いをする時に使われる慣用句だという。
 「ここで、銀が上がっていますと?」
 「ああ、まあそれも一局でしょう」というふうに。
 つまり、ある時点で、ある手を選択すると、今日二人で指した将棋とまったく別の将棋になってしまうので、それを検討するということは、もう一局、別の将棋を指すのと同じことになってしまうことである。
 そして、そのようにすでに終わってしまったことをこまかく突き詰めることはあまり意味のあることではなく、終わってしまったことをあれこれいまさら蒸し返すのはやめましょうということである。

 私達の人生においても現実にはそのように歩まなかったが、あり得たかも知れない人生は「これも一局」ということで振り返ることがあるのではないかと思う。過ぎたことであり、元に戻ることは絶対できないのでいまさらあれこれ考えるのは無駄といえば無駄かもしれない。
 そうはいっても凡人の悲しさで、人は自分が現実に歩んできた道以外に別の道を歩んでいたら果たしてどうなっていただろうかと、ふと考えることがあるのではないかと思う。
 私もその一人で、私があり得たかもしれない人生を考えた場合、エポックメイキングともいうべき分岐点がいくつかあるが、その中でも一番大きいのは大学卒業後に入社した会社を思い切りよく辞めるという決断をしたことである。
 私は昭和40年に大学を卒業、勇躍して入社したのは事務機やカメラを生産していたリコーという会社であるが、折からの不況でこの会社には一日も出社することなく、リコー時計というこの会社の子会社に出向になった。そもそもリコーに入社しようと思ったのは、当時、この会社の社長をしていた市村清さんに惹かれたからである。この人の書かれた本を読んで、どうせ働くなら尊敬できる経営者の元で働こうと考えて、市村さんに入社志望の手紙を送付した。その手紙だけで採用が決まったようなもので、私は大学卒業時は就職の苦労というものはまったくしなかった。
 ところが、東京オリンピックの終わった翌年、このリコーの業績不振が表面化して、株価も50円を下回った。そこでリコー本体では採用内定者を全員受け入れるのは困難なのでしばらくの間、子会社で働いてほしいということで大部分の内定者がリコー時計に出向となった。私はリコー時計の富山営業所に配属になり、時計を販売する仕事に従事することになった。朝、腕時計が一杯詰まった大きなバッグを右手に持って営業所を出るが、帰りは左手にも返品となった時計を持って帰るという日々を続けた。なぜ、そうなったかというと、当時のこの会社の製品の品質がよくなかった。私は訪問した時計店のご主人から「オタクの時計はすぐ止まったり、時刻が狂ったりするという不良品が多く、安心してお客様に販売できないので扱いたくない」と言われてしまった。私以外の営業マンも同様だった。そこで、営業所では、まともな営業をしても引き取ってもらえないので、月末になると時計店に商品を勝手に送って売上数字だけは挙げるという信じられないことを行なうことになった。翌月、時計店を訪問して、返品伝票を書いて私達がそれを持ち帰るということを繰り返していた。
 リコー時計に勤務するようになって2ヶ月位経過した時、名古屋で中部地区の営業マン全員を集めての販売会議があった。中部地区のトップである支店長が「この販売不振を脱却するために何でもいいから意見があったら言え」というので、手を挙げて、「こんな販売を続けていたらダメです。本社に品質の安定した製品を早急に作るよう意見具申するべきです。それまでの間は品質が安定している旧高野精密の柱時計中心に営業するべきだと思います」と述べた。支店長は真っ赤になって怒り、「貴様はいつ入社したんだ?」と言う。「今年の春、入社した者です」と答えると「生意気なことを言うな。商売の何たるかを分かってないくせにそんなことを言うのは10年早い!」と言う。「あなたが何でもいいから言えというから日頃考えていることを言ったまでです」と言い返した。「分かった。君の意見は聞きたくない」ということで私の提言は受け入れてもらえなかった。
 (この会社はダメだ。先はない。早いところサヨナラした方がよさそうだ)と考えて、辞表を出して辞めることにした。
 その後、リコーの業績は回復して、私と同様にリコー時計に出向になった人達は短い人は1年後、長い人でも3年以内にリコー本社に戻ることになった。

 リコーの業績が悪くなく、出向にならなかったらどうなったか?
 出向先のリコー時計でも生意気なことを言わずひたすら忍の一字で耐えていたらリコー本社に戻ることができて、本社でそれなりの仕事を任されて、まずまずのポジションを得られたかもしれない。同社はその後、優良会社に生まれ変わり、私と同期入社した人の中には取締役まで昇進した人もいるので私もその程度まで行けたかもしれない。
それもあり得たかもしれない人生である。
 早い段階で見切りをつけて、この会社を辞めたことを悔いた時期もあったが、私の尊敬していた市村さんは会社が立ち直ったのを見届けて、私が辞めた数年後にこの世を去っており、この会社にいたとしても、あまり意味のあるものでなかったような気がするので、早い時期に辞めたことは間違いではなかったのではないかと思っている。

 作家沢木耕太郎さんの書かれた作品に『世界は使われなかった人生であふれている』があるが、「使われなかった」というのは、選択いかんによってはありえたかもしれない人生という意味で使用されているものと解釈している。その作品で人生のある段階で別の決断をしていたらどうなったのだろうかと想像するというものだが、私も大学卒業後勤めたリコーだけでなく、その後勤めたいくつかの会社を辞め、40代の半ばでサラリーマン人生に別れを告げて、研修講師として独立するという決断をしているが、そういう道を歩まなかったら果たしてどうなっただろうかと考えることがある。
 あり得たかもしれない人生、現実にはその人生を歩まなかったから、果たして本当にどのような結果になったかは誰にも分からない。
 あり得たかもしれない人生が果たしてどのようなものになったかは想像の世界になってしまい、それと現実に歩んだ人生とを比較するのは大変難しいが、つらいこと、苦しいことも多少はあったものの、現実に歩んだ人生は今のところ総じてハッピーなので、結果よければすべてよしということで、この生き方でよかったのではないかと思っている。          
posted by 今井繁之 at 13:05| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年07月24日

有難いお叱りの言葉

 
 先般、私がかつて勤務していたソニーの子会社で一緒に仕事をしていた石田秀一(仮名)さんという方が亡くなったという訃報が届いた。仕事の関係で葬儀には顔を出すことができなかったが石田さんのいた木更津の方向に向かって深く頭を垂れて黙祷を捧げた。
 石田さんは私より5歳ほど年上で、生産技術部の部長をしていた。年下の私を可愛がってくれて、私が議長役を務めていた週一回の部長会議の席上でも何度も助けていただいたことがある。                                   
 その石田さんから「今井さんがそんなことをいったら駄目だよ・・・」と注意されたことがある。何のきっかけであったかは忘れてしまったが、石田さんを含めて何人かの人達と歩きながらおしゃべりしていた時に、私が深く考えずに軽口を叩いた時に石田さんの口から出た叱責の言葉であった。私はどのようなことをいったか覚えていないが、言った自分もまずいことを言ってしまったなぁと悔やんでいた時に、石田さんが私だけに聞こえる声で私をたしなめた時に言われた言葉であった。                   
 石田さんは日頃から私のようないい加減な男を大変買ってくれていた。買ってくれたというのも変な表現だが、石田さんは何かあると「今井さんはいい」と言って褒めてくださり、「今井さんはもっと偉くなるのを皆、期待しているよ」と言って励ましてくれた。
 その私が不用意に石田さんを失望させるようなことを言ってしまったのである。
 自分でも恥ずかしく思っていたが、石田さんの口から「今井さんがそんなことを言っては駄目だよ」という言葉は、私のその後の言動にも大いに影響を与えて、周りの人を失望させるような軽口を利いてはいけないという戒めになった。
 私がこの会社を去った数年後、研修講師の仕事をするようになったことを知らせた時、「今井さんはたいしたものだ。いつかは今井さんがそんな風になるかもしれないと思っていたが、その通りになってくれた。ありがとう」というお褒めのお手紙をいただいた。
 ここ数年、石田さんと親しくお会いする機会はほとんどなくなったが、年賀状のやりとりをしており、年賀状にはいつも励ましの言葉があった。何年経っても、「今井さんがそんなことを・・・」と言って、私をたしなめてくれた石田さんの言葉は忘れない。

 二つ目は「人を責める前に自分の無知を責めなさい」という言葉である。
 この言葉は私が30代の後半、ヒューマンアセスメントのアセッサー養成コースという社外研修に参加した時、一緒に参加していた高橋さんという方に言われた一言である。
 講師がやたらと横文字を使うのに閉口した私が、このコース終了後の懇親会の席で隣り合わせた私よりはるか年配、50代の後半と見受けた高橋さんに「いやぁ、あの講師の横文字の乱発には参りましたねぇ。横文字をわざわざ使わないで日本語でお願いしたいものですねぇ」と話しかけた。私より年配者だからこの人も講師の横文字の多さに閉口して 「まったくその通りですねぇ」という返事が返ってくると思ったら、高橋さんは「あなたは私よりはるかに若い。そのあなたが横文字が多いといって講師を責めるのはおかしいよ。その横文字の意味を知らない自分の無知を責めなければいけません。分からなかったら辞書で確認すればよいではないですか」と言う。  その言い方に一瞬、反発を感じたが、確かに高橋さんの言われる通りである。
 高橋さんは「分からない言葉が出てきたら書き留めておいて後で辞書で引けばよいのです」と言う。そう言われる高橋さんの傍らに国語辞典と英和辞典があった。
 後日、高橋さんからこの時の立派な講義録が送られてきた。そこには私が分からなかった横文字に日本語の意味が付してあった。素晴らしい講義録を前にして私は恥ずかしくなった。
 「己が無知であることを恥ずかしいことだと思いなさい」という高橋さんの言葉は私のその後の生き方に大きな影響を与えた。
 自分が理解できない言葉を使われたからといって、使った相手を責めるのではなく、分からないのは己がよくないのであると自分に言い聞かせて、何らかの手段で自分で分かろうとする努力を惜しまないようにした。辞書を必ず持ち歩くようになった。       分からないことの大半は辞書を引けばどこかに出ているものである。         
 高橋さんが言われた「分からないことがあったら分かるように自ら努力しなさい」という教えがなかったら、私は自分の勉強不足を棚に上げて他人を非難していただろうから私にとっては大変有り難い言葉であった。
 高橋さんからいただいた名刺の肩書きはNTT、当時は電々公社であったかと思うが都内にある支店長というものであった。       講義録をいただいた時はお電話でお礼を申し上げたが、その後は疎遠にしており、今現在、どこにおられて、そもそも存命かどうかも分からないので、お会いして「高橋さんの教えのお陰で少しは利口になることができました。ありがとうございました」とご挨拶できないのは大変残念である。

 三つ目は「本当に偉い人は偉ぶらないものだ」という言葉である。
 私がこの言葉で誰かに叱られたということでなく、周りの人がこのようなことを言うのを聞いて、自分も意識して偉ぶるような言動はしないようにしなければいけないと自分に言い聞かせた言葉である。
 この言葉を実感させていただくきっかけになったのは、今は故人となったが、発想法の権威であった保坂栄之介さんという方を私の主催する問題解決・意思決定力強化研修の公開セミナーに迎えた時である。この人は今から20年近く前に若くして亡くなられたので知る人ぞ知るという存在になってしまったが、創造的発想法として定評のあった『イメージコントロール法』を開発した人で、創造力開発の分野では第一人者であった。沢山の著書を出しており、私などは及びもつかない人であった。
 その人が私の開催したセミナーに一受講者として参加されたのでびっくりした。
 セミナーがスタートする前に私が「保坂先生に受講していただくなんて恐れ多いことです」と挨拶すると「今日は私は今井さんの一生徒ですから決して遠慮しないで下さい」と言われる。
 保坂さんのその後の言動はその通りで、私の説明を素直に聞き、疑問点があれば率直に質問する。グループ討議では自己主張はあまりせず、メンバーの意見に耳を傾ける。
 どこにも自分のキャリアをひけらかすようなところはなく、メンバーの一員に徹している。たまたま、保坂さんのグループに栃木県庁から参加されていた私の知り合いでもあった高久さんという若い人がいて、この人が保坂さんに「保坂さん、そんなこと言っちゃダメだよ。何もわかっていないなぁ」と私がハラハラするようなことを遠慮容赦なく言う。 保坂さんはニコニコしながら「いやぁ、高久さんの言う通りです。いい勉強になりました。ありがとうございます」と頭を下げる。
 セミナー終了直前に、私がこの高久さんに「保坂さんは本当は凄い人で、発想法に関する日本の第一人者だよ」と話したら「本当ですか、私は保坂さんに大変失礼なことを言ってしまった。謝らなければいけない。それにしても保坂さんは凄い人ですね。ウチのグループメンバーは皆、保坂さんに好意を持ってますよ。だけどもあの人は一言も『発想法』のことはお話にならなかったですよ。本当に偉い人は偉ぶらないものなんですね」と言う。 この言葉を聞いて、自分の日頃の振る舞いはどうであったかを考えた。
 私はどちらかといえば受講生に侮られないように権威者ぶるような言動をしていたような気がする。
 この一件があって以降、保坂さんをお手本にしなければいけないと自分に言い聞かせて、偉ぶるような言動は厳に慎むように心掛けている。
 そのお陰かと思うが、受講生とフランクに話し合えるようになり、必然的に良好な人間関係を作ることができるようになった。

 この三つ以外にもいくつもお叱りを受けたり、指導を受けたりしたことがある。そのように叱ってくれる人、お手本を示してくれる人に恵まれたお陰で今日まで研修講師としての仕事を続けることができたので感謝、感謝、感謝である。














posted by 今井繁之 at 16:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

最後の晩餐にあんドーナツを

         
 大阪に本社があるTという会社で研修を終えて、「今回も大変お世話になりました」と挨拶をして辞去しようとしたら、事務局を務めた植田さんが「先生、お帰りの新幹線の中で食べてください」と言って渡してくれるものがあった。開けるとその中にはあんドーナツが2ヶ入っている。「お気遣いいただいてどうもありがとうございます」とお礼を言って、有り難くいただいて来た。
 なぜ、そのようなことがあったのかというと、以前、植田さんに下記の「最後の晩餐に食べたいもの」という文章を上げたことがあり、それを覚えておいてくれたからである。 長い文章で恐縮だが以下をお読みいただければ幸いです。

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 [最後の晩餐に食べたいもの]
 以前、久米宏さんがキャスターを務めていたニュースステーションという番組の中で 「最後の晩餐」というコーナーがあった。有名人であるゲストにこの世にサヨナラする最後の日が来た時、あなたは何を食べたいかを聞くというものである。          
 番組の中でゲストがその好物を食べながら「なぜそれを食べたかったのか」とその食べ物に関する思い出を語るというものであった。大体のゲストは子供の頃、感激して食べたものを挙げていた。それを見ながら自分がそのように問われたら何と答えるかを考えた。  私の答えは「あんドーナツ」である。                       
 なぜ「あんドーナツ」かと問われても、これは「好きだから」としか言いようがない。
 「なぜ好きなのか?」と聞かれたら、理由はひとこと、「美味しいからだ」である。  
 「あんドーナツ」に関する思い出で、今でも私の脳裏に鮮やかに残っているのは「あんドーナツ」を一番最初に食べた時のことである。
 中学1年、13歳の時、私は家計を助けるため長崎市内浦上地区で新聞配達をしていた。 
 ある時、新聞の購読を勧誘するおじさんを私が配達している地域に案内したことがあった。その地域に私が配達している新聞を購読していなかったパン屋さんがあった。勧誘員のおじさんは店の主人に購読を勧める前に、私に「好きなパンを食べてもいいよ」と言う。  私は以前から一度でいいから食べてみたいと思っていた「あんドーナツ」を迷わず手にしてむさぼるようにして食べた。涙が出るほど美味しかった。食べ終えたが、おじさんの交渉は成立していない。一つだけという制限はなかったのでもう一つ、「あんドーナツ」に手を出して猛スピードで食べた。まだ交渉は成立してない。この機会を逃したらこんな美味しいものを食べるチャンスは永久に来ないだろうと思えた。いささか無理して三つ目の「あんドーナツ」を食べた。さすがにこれ以上食べる気はしなかった。店の主人は私が「あんドーナツ」を食べるのをちらちらと見ていた。私が「あんドーナツ」を三つ食べたのが功を奏したのか、勧誘交渉はうまくいったようである。勧誘のおじさんはパン代を支払う時、私に「好きなパンを食べろといったが好きなだけ食べてもいいとは言わなかったぞ。これでは赤字だ」と文句を言うが後の祭りである。
 「あんドーナツ」を食べたのはこの時が生まれて初めてであった。本当に美味しかった。 こんな美味しいものがこの世にあるのかと感動した。そしていつの日にかお給料をもらう身分になったら、自分のお金で「あんドーナツ」をお腹いっぱい食べたいと思うようになった。

 中学生時代の大半を長崎市内で過ごし、新聞配達でなにがしかのお金をいただいていたので「あんドーナツ」を購入できないことはなかったと思う。しかし、当時のわが家は経済的に苦しかったので、新聞配達で得たお金は家計を助けるため母親に全額渡していたので、それは叶わなかった。だから新聞勧誘のおじさんの好意で「あんドーナツ」を腹いっぱい口にして以降、中学を卒業するまで食べることはなかった。            
 昭和30年代の前半くらいまでは現代では考えられない位、食料事情は悪かった。   
 アイスキャンデーはあったがアイスクリームなんてものは庶民の口には入らなかった。 いちごショートケーキのようなケーキがあったかもしれないが、わが家の経済的事情ではそのような高価なものは口にするチャンスは絶無であった。             
 食べ物としてバナナがあったが、当時のバナナは高級品であり、私にとっては高嶺の花であった。今、わが家で子供が少し黒ずんでいるバナナを見て「これは傷んでいるから食べるのはやめとこう」なんてことを言うのを聞くと、私は頭にきて、「バナナを何と心得ているのだ。こんな高価なものは多少傷んでいても全部食べなければダメだ」と言う。  
 子供はこのおっさんには付き合いきれないという表情を浮かべている。この連中はものの価値を知らない、実に嘆かわしいと思うものの、世の中は変化して今やバナナは庶民の食べ物になってしまっており、時代錯誤なのは私かもしれない。
 でも、食糧事情の悪かった時期に食べ盛りの少年時代を過ごした私にとっては多少黒ずんでいてもバナナはバナナであり、食べないで捨てるなんて罰当たり?な行為は許されないことである。                                  
 私の少年時代は道端にある野いちごを食べたり、蜂の巣を落としてその中の卵を食べたり、イナゴやバッタを焼いて食べたりするのが当たり前だった。            
 何かの集まりがあって、そこで少年時代に何を食べたかという話になった時、食べたものが一致すると、同世代であったことが確認できたりすることがあるが、私の同世代の人達の食べ物はおしなべて貧しかった。                       

 昭和32年に中学を卒業して、初めてもらった給与で念願の「あんドーナツ」を購入した。この時、自分が稼いだお金で大好きな食べ物を好きなだけ食することができる幸せを味わった。                                    
 昭和40年代の後半だと思うがミスタードーナツとかダンキンドーナツといったドーナツ専門のお店が出現するようになった。色々なドーナツが出現したが、私にとって、昔からある「あんドーナツ」が一番である。                       
 中年になってから、どういうわけか「あんドーナツ」をより食べるようになってきた。 私のお腹が出て来たのと「あんドーナツ」は相関関係があるような感じがする。娘から「『あんドーナツ』は太るから食するのは少し控えるように」とアドバイスされているが娘の目の届かないところで食べている。
 疲れた時には「あんドーナツ」が特に美味しく感じられる。研修や講演を終えて帰京する際の新幹線の中でコーヒーを飲みながらパン屋さんで求めた「あんドーナツ」を食べるのが無上の喜びとなっている。

 なぜ「あんドーナツ」をこんなに好んで食べるのかと考えると貧しかった少年時代に腹いっぱい食べれなかった反動からかもしれない。
 「あんドーナツ」をこの上もないご馳走と思えるということは決して悪いことではないと思っている。何でもかんでも口にすることができるという恵まれた生活をしてきた人にとっては「あんドーナツ」のようなものに渇望感を感じることはあまりないだろう。
 私は「あんドーナツ」に限らず、いつかは美味しいものを沢山食べれるようになりたいという夢を持って歩んできたが、貧しい時代があったから、そういう夢を持てたのであって、私にとって貧しかったということは必ずしも悪いことではないと思っている。
 最後の晩餐がいつ訪れるか分からないが、もし許されるのであればコーヒーをかたわらに置いて、「あんドーナツ」を2ヶ、味を噛み締めながら食したいと思っている。
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 この文章を植田さんに差し上げ、それを読んでいただいたお陰で、あんドーナツをいただくようになったが、私の母校である明治大学から依頼されている社会人向けの講座の受講生にも「私はあんドーナツが好物です」と言ったことがあり、時々お会いする受講生であった女性から「これ、プレゼントです」ということで、あんドーナツをいただく機会があり、お腹は当分の間、ひっこみそうもない。

posted by 今井繁之 at 15:58| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする