2017年11月27日

戦慄の記録『インパール』を見て


 毎年、夏になると、NHKは『戦争』を特集した番組を放送してくれる。特にここ数年は戦争を体験した人が高齢化によりどんどん少なくなってきているので、今のうちに戦争の実態を知らしめておきたいということで戦争特集番組に力を入れているような気がする。 本年度もいくつかの特集があったが、その中でも8月に放送されたNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」には大変な衝撃を受けた。
 なぜこんな悲惨な戦いを強行したのかという驚きと、さらにこの戦いの指導者が誰1人として責任を問われなかったことに慨嘆した。
 そもそも「インパール作戦」とは何かというと、太平洋戦争で戦況が悪化して来た、1944年3月、イギリス軍が主要拠点としたインドのインパールを攻略するために、ビルマ方面軍・15軍麾下の3個師団(31師団、15師団、33師団)約9万人を進撃させた作戦である。ところが、食料や弾薬の補給は不十分、敵の戦力を軽視した作戦は、数多くの兵士が命を落とし、大失敗に終わった。
今回の放送では太平洋戦争で最も無謀な作戦と言われるインパールでの戦いを関係者の証言で明らかにした。
 山岳地帯の行軍を兵站の専門家である小畑参謀長は「現地で牛を調達し、食料や弾薬、兵器を運ばせた後に食料として利用するという作戦には無理がある。牛は急峻な山道を越えられないのでこの作戦は実施すべきでない」と反対した。この無謀な作戦の最高責任者である牟田口廉也司令官以下の上官は「卑怯者、貴様には大和魂はあるのか」とどなりつけたと言う。大和魂でどうこうなるというものではなく、実際、牛はインパール山中で餌にするべき草がなく次々と倒れていった。
 短期決戦をもくろみ、兵士には3週間分の食料しか持たせなかった。
 戦闘開始2週間目、イギリス軍と遭遇、1000名以上の死傷者を出した。33師団の柳田元三師団長は「インパールを予定の3週間で攻略するのは不可能です」と牟田口廉也最高司令官に作戦変更を強く進言したという。他の師団長からも意見具申があったが、牟田口司令官は「善処しろとは何事か!バカヤロウ!」と言って無視したという。
 補給が途絶し、戦闘以前にマラリアなどの熱帯性伝染病や飢え・激しいスコールで地獄絵図と化し、前線の指揮官、第31師団長佐藤幸徳中将は何度も撤退を進言するも聞き入れてもらえなかったため、独断で部隊を退却させるという前代未聞の事態に発展した。
 イギリス軍は航空機による物資の補給を展開、1日250トンの補給物資を投下、日本軍は補給ゼロで途中のコヒマというところに到着した時は食料はほとんどなかった。突撃すれば死ぬことは分かっていても、イギリス軍の戦車に爆弾を抱えて肉弾攻撃を繰り返して、死亡した兵士は3000人を越えたという。
 牟田口司令官は作戦がうまくいかないのは師団長に責任ありということで、31師団の佐藤師団長以下を更迭し、武器弾薬もなく腹を空かせた兵士に「前へ前へ」と無茶苦茶な指示を出すばかりであった。作戦の中止を決めたのは開始してから4か月後であった。豪雨の中の撤退の途中で兵士は飢えや疫病で倒れた。
 死者の6割は作戦中止後の撤退途中であり、インパールからビルマに帰る道は日本人兵士の白骨死体で埋め尽くされ『白骨街道』と呼ばれたという。
 辛うじて生き残って撤退してきた兵士に向かって牟田口司令官は驚くような説教をしたと言う。
 「食うものがないからといって戦争はできないといって諸君は勝手に退却してきた。これが皇軍か。皇軍は食うものがなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食うものがないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛み付いて行け。日本男子には大和魂があることを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守ってくださる」
 こんな非科学的な説教を聞かされた兵士はたまったものでない。
 インパール作戦の投入兵士は約9万人に対して、帰還時の兵士はわずか1万2千人という悲惨な結果になった。
 「知性なき勇気は蛮勇である」と言われた方がいるが、インパール作戦は正しく蛮勇であった。
 最高責任者である牟田口司令官は戦後、連合国から戦犯として一応は逮捕されたものの、あっさり不起訴処分になり、戦時中の責任は問われることなく、天寿をまっとうしたということである。
 東京裁判は連合国に対する罪を問うものであり、日本国兵士をどんなに死なせようが、そのこと自体の責任は問われなかったということである。
 牟田口司令官は戦後、「作戦は上司の指示」と主張し、大本営の参謀は「現地軍の責任範囲の拡大」と責任を回避した。
 番組の最後に、奇跡的に生き長らえて、現在96歳になっている司令部の動向を克明に記録した斉藤博圀少尉本人が涙ながら次のように語っている。
 「司令部では何千人殺せばどこそこが取れるという会話が飛び交っていました。最初は敵を何千人殺せばと思ったが、そうではなく味方の兵士を何千人犠牲にすればということでした。まるで虫けらでも殺すみたいに部隊の損害を表現していました。兵隊に対する上層部の考えはそんなものです」

 当時の軍人がすべて牟田口司令官のような無能な人達ではないと思うが、それでもひどい話である。
 そもそもは勝てるはずのない無謀な戦争をしたことが大間違いである。
 戦争は絶対するべきではない。犠牲になるのはおおむね第一線の兵士である。もちろん、その兵士を送り出した家族も犠牲者であり、空襲を受けて死傷した人達も犠牲者である。 伊藤忠商事の社長・会長を勤め、中国大使もされた丹羽宇一郎さんがお書きになった 『戦争の大問題』(東洋経済新報社)という本がある。戦争は二度と起こしてはならないという思いからお書きになったということだが、その本の中に、元総理大臣の田中角栄氏の言葉が紹介されている。
 「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢になったときはとても危ない」

 まさに今である。戦争を知らない安倍晋三氏が日本国の最高権力者になり、A級戦犯であった祖父から薫陶を受けたのであろう、「積極的平和主義」と称して再び、日本国を戦争のできる国にしようとしているように私には思えて仕方がない。
 そうではないと思いたいが、ここ数年の安倍氏が推し進めている施策を考えるとそう思わざるを得ない。
 「平和のために戦争をする」と息巻いているのはアメリカのあの暗愚な大統領と日本国の総理大臣ぐらいではないかと思う。
 「戦争で平和を」としきりに唱えたのはナチスのヒットラーであり、その結果がどうなったかを歴史が示している。
 何としても戦争に歯止めをかけなければいつか来た道をたどることになってしまう。
 丹羽さんの本を多くの人に読んでもらいたいと思う。それと共にNHKを始めとするマスコミも日本国の最高権力者が嫌がるような良心的な番組を製作して戦争の悲惨さを多くの国民に知らせて欲しいと願う。
 私が仕事場にしているマンションの目の前に小学校があり、グラウンドでは子供たちが歓声をあげて楽しそうに走り回っている。
 この子供たちが戦争に巻き込まれることのないようにするのは私達大人の責任であり、インパール作戦のような愚かな戦争を二度としない、そういった戦争のできない国にしなければいけないと痛切に思う。










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2017年10月10日

借りは返せても恩は返せない      

 
 私の好きな作家の一人、袖木裕子さんが書いた『検事の本懐』という本の中で現在、検事を務めている主人公が高校時代に起こした同級生との乱闘騒動時に自分にも累が及ぶことを厭わず主人公を救ってくれた級友の天野弥生さんが恐喝されて困っているとの相談を受け、解決してあげた時に「お前には返さなければならない借りがある」と語り、そして「借りを返せば、恩が返せるわけじゃない」と亡くなった父親の口癖を言おうとして、その言葉は飲み込むという場面があった。
 この「借りを返せば、恩が返せるわけじゃない」という言葉は、本当にその通りだと私の心を強く打った。
 金銭はもちろん、借りたもの、お世話になったことに対して、後日、それ相応のお返しをしたら、それですむかというと、それではすまないことがあるかと思う。
 例えば、苦境に陥り、下手すれば奈落の底に落ちたかもしれないといった時に救ってもらった際の恩は返さなければいけないが、それがなかなか難しい。なぜならば救ってもらったその瞬間は過ぎ去っており、その状況をそっくりそのまま再現することはできないからである。

 人には忘れられない恩義というものが多かれ少なかれ、あるのではないかと思う。
 私にもいくつかそのようなことがあるが、その中でも最大のものが大学生の時、私が大変御世話になった家庭教師先の関さんご夫婦への恩義である。
 大学に入学するべく信州から上京して来た私には経済的裏付けはまったくなかった。
 貯金はないし、親からの仕送りはまったく期待できない。東京に行けば何とかなるという実にいい加減な気持ちで大学に入学した。
 一番先にしたことは駿河台にある本校の学生課に行き、奨学金の申請であった。日本育英会の奨学金は月額3000円でちょうど授業料と同額であった。
 持参したお金はほんの少しあったが教科書代と下宿の借り賃で大半は消えてしまった。
 とにかくアルバイトで生活費を稼ぐしかない。
 学生課のボードで「家庭教師を求む」という案内を見て、それに応募した。学生課の職員に「入学したばかりの一年生にはアルバイトを紹介しない」と言われたが、そこは強引にお願いして応募させてもらった。
 10人ほど応募者がいたが、私が最後で、面接に来ていた奥さんはあまりに沢山の人に会ったので最初の人の印象はどこかに行ってしまったということで、「最後の人でいいです」ということで幸運なことに私は採用された。
 奥さんに連れられて浅草橋にあるご自宅にお伺いした。奥さんのご主人である関 守さんは自宅兼工場で従業員10数名と共に製本業を営んでおり、オヤジさんと呼んだほうがふさわしいイガグリ頭のいかにも職人という感じの人だった。私が中学卒業後、町工場で働きながら夜間高校で勉強して大学に入学したと話すと、「それは素晴らしい。息子の指導をぜひお願いしたい」と言われる。そして、「高校1年生の息子は大学に行かせようとは思っていない。学校の授業についていける程度の指導で結構です。私は仕事で忙しいので息子の面倒を見るのは難しいので、息子の兄貴になったような気持ちで接していただけると有り難い」と言う。
 さらに「この人だったら娘の面倒も見てもらってもいいのではないか?」と奥さんに話す。奥さんは「私もそう思う。実は中学2年生の娘がいますが、女の子なので女子大生を家庭教師に迎えようと思っていたが、あなただったら大丈夫みたいなので娘の面倒もお願いしたい」と言われる。私は大変まじめな青年と受け止めてもらったようである。
 最初の条件は息子さん一人、週2回で月額4000円の家庭教師代だったが、二人ということなので、週4回、家庭教師代は倍の8000円をいただけることになった。
 奨学金の3000円と家庭教師代の8000円を合わせると11000円ということになり、何とか生活していける目途がついた。
 関さん宅に家庭教師としてお伺いするのは夕食時の18時、私の夕食は用意されているので、毎週4回、夕食代は不要ということになった。さらに最初のうちは家庭教師が終わると夜食が用意されていたが、2,3時間前に食べたばかりなので、そうは食べれない。 そこで奥さんが夜食用にということで300円の小遣いを毎回くれる。一週で300円×4回=1200円、4週となると合計4800円、結構なお金をいただくことになった。
 さらにオヤジさんが月に一回ぐらい、奥さんがいない時を見計らって、胴巻からお金を出して、「今井さん、たまには遊びに行っているかい? 男は少し遊びに行った方がいいよ」と言って3~4000円くれる。
関さん宅の家庭教師の仕事は途中で息子さんが高校を卒業したので、教えるのは娘さん一人となったが、家庭教師代8000円は変わらなかった。
 家族のように扱ってくれて、「今日はお風呂に入っていきなさい」と言われて、お風呂から上がると新しい下着が用意されている。
 オヤジさんはプロボクシングが大好きな方で、当時はファイテイング原田や海老原博幸という素晴らしい日本人ボクサーがいて、テレビで世界タイトル戦が頻繁に放送されていた。一人で見ていてもつまらないということで、オヤジさんは私が息子さんや娘さんを教えている部屋に来て、「今井さん、何をしているのだ? 試合が始まるぞ!」と言う。「僕は今、教えている最中です」と言うと、「そんなの子供たちに勝手にやらせておけばいい。タイトルマッチの方が大事だ。すぐこっちに来なさい」と言われ、お言葉に甘えて、オヤジさんと一緒にビールを飲みながら世界タイトルマッチ戦を見るということがしばしばあった。そもそも家庭教師として、息子さんや娘さんに教えるだけの技量が私にあったかというと怪しいもので、二人に私の苦手としている数学はまったく頼りにならないということを見抜かれてしまい、数学以外の教科を教えるということになった。
 教えているのか、おしゃべりしているのか分からないような2時間を過ごすのがいつもだった。
 関さんは私には親、いや親以上の存在であった。いくら感謝しても感謝しきれない。
 「ありがとうございました」を何百回繰り返しても罰は当たらない。
 「有難い」という言葉があるが、これはめったに受けることのできない恩恵、好意、配慮に接することから来ているというが、関さん宅の家庭教師は正しく「有難い」であった。 
私は関さんご夫婦にお世話にならなかったら私の大学生活は破綻を来して途中で大学を中退することになったのではないかと思う。

 私にとっては関さんご夫婦は恩人、それも大恩人である。その大恩人に私が恩返しをしたかというとまったくそのようなことをしていない。
 年賀状の一通も出すこともなく、ご無沙汰のまま30年以上が過ぎた。
 少しは生活に余裕ができていた頃に、お世話になったお礼に年末にお歳暮を贈ることを考えてもおかしくないのにそのようなことに気付かなかった。
 ところが、今から20年前の1997年に日本実業出版社から「意思決定の思考法」というタイトルの本を出したが、ある日、突然、この本を関さんに見ていただこうと考えた。 なぜ、そんなことを考えたのか、よく覚えていないが、この本を持参して浅草橋の関さん宅を訪問した。一別以来、30数年が過ぎていた。ご健在だと思っていたオヤジさんは亡くなっていたが、奥様は健在であった。家業を継いだ息子さんもお元気だった。研修講師の仕事をしていることを話して、この本にあるようなことを講義していると話すと、奥様は「やはり今井さんは私達が見込んだとおりの人だった。お父さんは、今井さんはいつかきっと立派な人になると言っていた。仏壇にこの本を供えて、お父さんに『今井さんは私達が思ったとおりの立派な人になりました』と報告しなければいけない」と言われる。「私はそんな立派な人間ではありません」と言うものの、「こんな難しい本を書くのだからたいしたものです」と褒めていただいた。
 奥様が仏壇に本を供えると言われた時に、「お線香を上げさせてください」と言うべきだったのにそういったことを思い付かないまま辞去してしまった。
 それから3年後にも自分史ともいうべき「人生やってみなきゃわからない」を書いた時にも関さんにお世話になったことを書いたこともあり、その本を持参してお伺いしたが、この時も奥様に褒めていただいたが、仏壇にお線香をあげるのを失念してしまった。
 それから7年後、浅草橋に行く用事があり、お家があった近くまで行ったが、懐かしい建物はなくなっており、近所の方に聞くと、製本業は廃業して、奥様は数年前に亡くなられたと言われた。もっと早くお伺いするべきであったと反省したが手遅れであった。

 大恩人である関さん、それも御霊前にお線香をあげることさえしないで今日まで能天気で生きて来た私は、「恩知らず」と謗られても仕方がない。
 借りはまったく返してなく、恩返しだってまったくしていない。
 恩返ししたくても関さんご夫婦はすでにこの世におられないのでその術がない。
 「恩返し」ができない以上「恩送り」をするしかない。「恩送り」は以前、友人から聞いた言葉だが、自分と同じような苦しみ、迷っている人に自分が助けてもらったようなことをしてあげれば、う回して恩返ししたことになるということである。
よって、自分のできる範囲で、私を頼って来た人に関さんご夫婦同様、親切な振る舞いをしてあげれば、関さんご夫婦に恩返しをしたことになると考えて、それを心掛けることにしている。もちろん、経済的にそれほど余裕はないので、関さんご夫婦のような多額な援助はできないが100分の1でもよいから自分のできる範囲でしたいと思っている。








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2017年09月22日

映画「最高の人生の見つけ方」を見て


 先日、NHKBSプレミアムで放送された、名優のジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの二人が共演した映画「最高の人生の見つけ方」を見た。
 死期を告げられた初老の男性二人が入院していた病院を抜け出して、亡くなる前にやっておきたいこと、行っておきたいところへと共に旅行して、忌憚なく本音を言い合うという映画だった。
 映画の中で、モーガン・フリーマン扮する自動車整備の仕事一筋の男 カーターは、ジャック・ニコルソン扮する企業人として大成功を収めた男 エドワードに、「天国の入り口で神様から『人生の喜びを見つけたか?』と聞かれたら何と答えるか?」と聞く。さらに続けて、「神様から『人に喜びを与えたか?』と聞かれたら何と答えるか?」と問われる。
 エドワードは前者の質問には「ないことはない」と言うものの、具体的に答えず、後者の質問には「そんなことは考えたことはない」と言って返事を濁す。
 私はこの映画を見ながら自分がそのように問い掛けられたら、何と答えるかと考えた。 前者の質問にはいくつか挙げることはできたが、後者の質問にはエドワード同様、答えに窮した。
 カーターとエドワードという利害関係のまったくない二人は前述の会話以外にも人生について何の腹蔵もなく本音を話し合うという楽しい旅を3か月続ける。
 カーターが体調を崩して二人の旅は終わり、カーターは妻に見守られながら亡くなる。 カーターの葬儀の席でエドワードは次のような弔辞を読む。
 「3か月前までお互いに何も知らない間柄であったが、一緒に旅行した彼(カーター)との3か月は私(エドワード)には最高の時間でした。気付かぬうちに彼に救われたのです。彼が残された時間を私と過ごしてくれたことを心から誇りに思います。私達は互いの人生に喜びをもたらし合いました。だからいつの日にか私が人生に終わりを告げ、天国の入り口の門にたどりついたらカーターに(そこに)いてほしい。証人となって私を迎え入れてほしい」 

 この弔辞から「最高の人生の見つけ方」というタイトルに納得がいった。
 私には「最高の人生」とはこのカーターとエドワードのように期間の多寡はともかく、心の通う人と充実した時間を過ごし、生きる喜びを共にすることであると思えた。
 この映画の二人がそうであったように自分の思いを無理やり抑え込むことなく、それを受け止めてくれる人に率直に話す。聞いた方は賛成できるものには賛意を示し、受け入れられないものには、なぜそうなのかを率直に話す。必ずしも一致点が得られなくとも、互いの思いをキャッチボールできたらそれは大変幸せなことであると思う。
 映画の中でカーターとエドワードは生き方について考えが異なる場面があったが、両者共、自分の考えを相手に強引に押しつけようとしなかった。そういう考えもあるかもしれない、それはそれでいいのではないかと自分と異なる考えを尊重している。
 そして、この映画の中で、エドワードはカーターに「君を相棒カーターと呼んでもいいか?」と聞いている。カーターは微笑みで返事をする。相互の信頼関係ができた証拠であると思った。
 この映画は、信頼できる人イコール心の通い合う人とも言えるが、そのような人とゆったりとした時間を過ごすことが人生の最大の喜びであり、エドワードの弔辞の中にある 『互いの人生に喜びをもたらし合いました』という言葉がそれを物語っている。

 「最高の人生の見つけ方」を見終わった後で、私の畏敬する故高倉健さんが「人生で大事なものはたったひとつ、心です」と語っていたのを思い出した。
 高倉健さんは「心です」と短く言っているが、地位とかお金とかではなく、相手を思いやる心が一番大事で、さらに自分と心の通い合う人が傍らにいて、腹蔵なく話し合うことができたら、それが一番幸せなことであると言いたかったのではないかと思う。
 毎日新聞客員編集委員の近藤勝重さんは個人的に高倉健さんと手紙のやりとりしたり、電話をしたり、時にはお会いしたりする仲であった。健さんとの手紙のやりとりを紹介している著書「健さんからの手紙」の中で、次のような記述がある。
 「生きるって、切ないですねぇ」
 健さんはよくそう言っていました。切ないという言葉には、とりわけ感慨が籠るようでした。
 私自身もそう思います。生きていれば、いろいろ様々なことが身の上に起こります。でも、何とか顔を上げて生きていこう。そういうときに本当に信じられる人がいるかどうか。これは結構大きいんです。生きていくとは、ある意味、他者が信じられるということでもあるからです。
 家族でも、親でもない、他人。身内じゃないんです。特別な他者と言えばいいのでしょうか。他者であることに意味があるんです。
 私にとっては健さんはそんな一人でした。

 近藤さんが健さんをそう思ったように、健さんにとっても近藤さんは心の許せる他者であったと思う。

 近藤さんの言うように、人生を語り合う相手は親・兄弟ではなく、他人がよいのかもしれない。
 私には二つ違いの弟がいる。私は弟を信頼している。弟に確認したわけではないが、弟も私を信頼してくれているみたいだ。弟とは子供の頃もそうだったが、大人になった今でも、何でも話せる仲である。一緒に旅行しても飽きることはない。しかし、人生を語り合う場面があったかというとそれはなかった。
 人生を語り合うには確かに他人の方がよいかもしれないと思う。
 人生、それも晩年の人生において、お互いが心を許して、虚心坦懐に語れる人に恵まれたら、それは一番幸せなことであると思う。

 そういった人に出会えるのも、またお互いに飽きずに話ができるのも、双方がそれ相応のものがあるからだろう。
 自分自身の人間性を高めるようなそれなりの努力を積んで来ていれば、会って話をしていても楽しく、相手から信頼されるのではないかと思う。一言でいえば教養がないといけないと思う。
 映画の中でカーターとエドワードが3か月間、一緒に旅して、話がはずんだのは双方に教養があったからだと思う。
 そもそも「教養」とは何かということになるが、最近読んだ伊藤忠商事の元社長の丹羽宇一郎さんが書かれた「死ぬほど読書」(幻冬舎文庫)の中で教養に関して次のような記述をしている。
 教養の条件は、一つは「自分が知らないということを知っていること」、もう一つは 「相手の立場に立ってものごとが考えられること」である。
 なるほどと思った。
 ただ、最初の条件は少し分かりづらいかと思うので注釈すると、自分は世の中のことは何でも知っているという奢りを持たず、ほんの一部は知っているが、大部分のことは知らないという謙虚な気持ちを持っているということである。
 映画の中のジャック・ニコルソン扮する大実業家エドワードは丹羽さんの教養の条件に正しくぴったりであり、だからモーガン・フリーマン扮する博識のカーターと会話が弾み、3か月間、仲良く、楽しい旅が続けられたのだと思う。
 映画「最高の人生の見つけ方」を多くの人が見て、見終わったら、しばし、己のことを考えてみると、私がそうであったように、感じるものが沢山あるのではないかと思っている。
                                                                         

posted by 今井繁之 at 14:52| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする