2017年06月14日

 秘すことの恥ずかしさ

 

最近、「テロ防止法案」とかいって、戦前の治安維持法を復活させようという動きがあるが、わざわざそのようなことをしなくても、今だって少しでも政府に物申す人には警察の警備課の皆さんが隠れて見張りをしていると思うので、何故強引に法案を通そうとしているかよく分からない。
今度は白昼堂々と見張りができるようにしたいと思っているのかもしれない。しかし、思想・信条の自由を侵す憲法違反のこのような行為は止めるべきではないかと思う。
何故、警察が私達一般人を見張っていると思うかというと、私には次のような経験があるからである。
 私のサラリーマン時代の最後の勤務先は埼玉県坂戸市にあった「ソニーボンソン」という会社であった。この会社はそれ以前に私が勤務していた千葉県木更津市にあった「ソニー木更津」同様、ソニーが100%出資している会社であった。
 「ソニーボンソン」という会社は今は消滅?してしまったが、当時大ヒットしていた「ウォークマン」を生産していた。
 この会社に赴任してしばらくしたら、前任地の木更津市ではなかったことだが、坂戸市のこの会社には近くにあった警察署の警備課の課長や係長が、月に1回ぐらいの割合で、人事・労務の責任者である私のところに「おたくの社員の○○が民青の集会に参加しています。彼は要注意人物です」などと言って来た。
「どうしてそんなことが分かるのですか」と聞くと、自分たちは民青の事務所を四六時中見張っていると言う。
 この話を聞いて、びっくりした。戦後しばらくの期間ならそのような警戒も必要だったかもしれないが、この当時の日本共産党は合法政党として堂々と活動しているのだから、そのように監視する必要性はないのではないかと思ったからである。
 今でもそのような行為は行なわれているのではないかと思う。

 それはともかく、警察の方から「はい、わかりました。わざわざお知らせ下さってありがとうございました」ともっともらしく聞いている自分にも嫌悪感を抱いた。なぜかといえば、この当時、私の弟は警察の敵?である日本共産党の党員、それも長野県委員会の委員長を務めていたからである。
 人間誰しも、隠し事の一つや二つあるものである。しかし、そこに自分のエゴが見えて嫌になることがある。弟が日本共産党の党員であり、幹部として活躍しているという事柄はその一つであった。
 正直言って、サラリーマンをしている間は、弟のことを堂々と公にすることを避けていた。何故かというと、今でこそ共産党をアカ呼ばわりして、あからさまに排除しようとする傾向は少なくなってはいるものの、でもまだ、共産党の党員を危険思想の持ち主として近寄らない方がよいと考える人がいる。
 私自身は共産主義に賛同していないし、日本共産党に対してもそれほど親近感を持っていない。しかし弟については、子供のころから助け合って生きてきた血を分けた兄弟であり、共産主義者であろうとなかろうと、そんなことに関係なく親しくしている。
 弟は自分の信念に従って生きているのだから、彼の人生について批判をする気もない
 彼は彼、私は私である。弟のことを隠す必要などないということは理屈ではわかっていたが、心のどこかに共産主義賛同者と見られて不都合なことが起きるのではないか、自分の会社人生にマイナスに作用するのではないかと危惧をしている自分がいた。
 共産党員や民青加入者を見張っていて、「注意した方がよい」と忠告して来た警備課の方に、「私の弟は共産党に入っていて、県の委員長をしています」と言ったら、びっくりして腰を抜かすまではいかないにしても、すぐにソニー本社に連絡をして、「あのような危険な人物を会社の人事・労務の責任者にしておくのはよろしくありません。しかるべき処置をしてください」と言ったに違いない。
 今思えば、たとえ、どのような処置を受けようと、正々堂々と胸を張って弟のことを語ってもよかったのではないかと胸が痛む。
 なぜ、正々堂々と弟のことを語れなかったのかというと、自分自身に自信がなかったからである。弟のことを正直に語ることによってすでに得ているものを失うかもしれないという姑息な考えがあったからである。

 サラリーマン生活に別れを告げて、誰からもあれこれ言われることのない研修講師の仕事をするようになった今の私には、何も秘する必要はなく、問われれば隠すことなく「私の弟は日本共産党の専従で、日本共産党長野県委員会の委員長をしています」と堂々と言える。これは精神衛生上、非常によい。
 面白いことに、弟のことを正直に言うことによって、私の評価が高くなるようなことがあった。
 私の大学時代の級友であるI君は大学卒業後、郷里の宮崎県に戻り、地元の放送局に勤めていたが、周囲の人に推されて組合の委員長となった。そんな関係もあり、共産党との接点もあったのだと思うが、私が弟のことを話すと「弟さんが共産党員とはびっくりだ。今井君は凄い人間だったのだ。自分は人を見る目がなくて申し訳なかった」と言われて面映ゆく感じたことがある。
 さらに私は大学時代に社会福祉研究会というクラブに所属していたが、その研究会の一年後輩で、大学卒業後、印刷会社に入社したM君と何十年振りかで会った時、彼の会社が共産党の機関紙を印刷しているということから、彼に弟の話をすると、彼は「本当ですか?今井さんも共産党ですか?」と言う。「俺は違う」と言ったが、M君は「今井さんは凄い人だったのですね、いやぁ失礼しました」と言って、私に対する態度が大変丁重なものに変わった。
 もう一人、私を高評価してくれた人に、私が15年間勤務していた「ソニー木更津」という会社で私の直属上司をしていて、同社を退職後、税理士事務所を開設して税理士の仕事をするようになった伊藤さんという方がいる。その伊藤さんに、何のきっかけだったか忘れてしまったが、弟のことを話したことがある。すると伊藤さんは「それは知らなかった。実は私は日本共産党の党員だ。弟さんが共産党の長野県委員会の委員長をしているなんて、君はたいしたものだ。そうだったのか。それは大変お見それいたしました」と感服したように私に頭を下げる。
 弟は自分の思想・信条に忠実に生きており、私は単にその弟の兄であるというだけで「あなたは凄い!」ということになってしまった。
 私が何か凄いことをしたわけではなく、弟が世の中を変えようと必死に頑張っているだけである。
限られた一部の人だけだが、弟の日本共産党長野県委員会の委員長という肩書きはテレビドラマの水戸黄門の印籠のような効果があったというわけである。
                 
 私と弟は貧乏だった少年時代、共に新聞配達をしたり、納豆売りをしたり、鉄クズ拾いをしたりして家計を支えた。
 弟は中学を卒業してオリンパス光学という会社に入社、職場の先輩に勧められて、日本共産党に入党、若くして日本共産党の専従職員となり、それ以来共産党一筋で70歳近くまで長野県委員会の委員長を勤めた。
 功利の世に、名誉も金も求めず、私たちが少年時代に味わったような貧しさを追放するべく、日本共産党がそれを実現してくれると信じて、ドンキホーテのように生きている。
 私は彼の生き方を素晴らしいと思っており、それは私だけでなく、昨年亡くなった兄も私とまったく同じような思いで彼を見守って来た。
弟と私は二つ違いで、弟の下に妹が二人いるが、二人共、弟の純な生き方を誇らしく思っている。
 私は日本共産党の綱領を読んだこともなく、思想的にも共鳴しているわけではないが、弟を全面的に信頼しており、変な言い方かもしれないが彼をこの世で一番尊敬している。
 選挙権を得て以来、衆・参議員の選挙で共産党以外の党に投票したことは一度もない。
 これは私の弟に対するせめてものエールである。
 人を殺めるようなことをしない限り、本人が信念を持って生きているのであれば、それはそれで結構なことであり、その生き方は尊重されるべきである。
 そして、私の弟のように当人が信念に持って生きているのであれば、身内の人間はそれを恥じることもなく、秘する必要など、まったくないことは言うまでもない。
 一時期、そのようなことがあったことを今では大変恥ずかしく思っている。
それと冒頭に触れたように、今、「テロ防止法案」という名称で、個人の思想・信条を監視して、少しでも政府の意向に逆らう人間は逮捕するという戦前の暗い時代に戻そうという動きに歯止めをかけなければならないと強く思っている。
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2017年03月23日

「李下に冠を正さず」を怠った人


 「李下に冠を正さず」という教えがある。
 これは、中国の古事から来たというが、李(すもも)の成っている木の下で手を挙げて頭に被っている冠(かんむり)の曲がっているのを直すと、李の実を盗むのかと疑われることもあるから他人の嫌疑を受けやすい行為は避けるようにせよとの教えである。
 2017年2月、内閣総理大臣安倍晋三氏を直撃した、妻である昭恵夫人が大阪府豊中市に4月開校予定の私立小学校「瑞穂の国小学院」の名誉校長に就任するという行為は正しくそれであった。
 この行為は念願の安保関連法制を成立させて日本国を戦争のできる国にして、今年は米国の新大統領トランプ氏にすっかり気に入れられて仲良しとなり、さらに戦前の治安維持法の復活ともいうべき共謀罪の成立を目の前にした得意絶頂の安倍晋三氏が政権の座を失いかねない状況に陥いらせた。
 安倍晋三氏は大阪府の豊中市にある国有地を幼稚園児に教育勅語を読ませるという信じられないことをしている私立幼稚園の理事長籠池泰典氏に時価の10分の1で払い下げることにも関係したのではないかという疑いを持たれて苦境に陥った。
 安倍晋三氏当人がどうこうしたのではなく、愛妻である昭恵夫人の軽率な振る舞いに原因があると言えるが、そうはいってもその軽率な行動を許した亭主である安倍晋三氏に責任があるといえばあると言える。
 もっとも、国有地の価格を不当に安くしたのは財務省の役人が内閣総理大臣の奥様が新設する予定の小学校の名誉校長になるということを忖度したところに原因があると言える。
 財務省の役人と幼稚園の理事長との間に政治家が介在したことも考えられるが、何と言っても今や日本国の独裁者といってもよい存在になった安倍氏が「李下に冠を正さず」という教えを実践しなかったことにある。
 昭恵さんには悪いが、夫が内閣総理大臣になったので自分も何か偉くなったように錯覚してしまったようである。
 昭恵さんは「講演をして欲しい」とか、「名誉校長になって欲しい」という話があった時、冷静に自分は一体何者なのかと自問自答したら、夫は内閣総理大臣という権力者だが、自分はその人の妻であるに過ぎない。教育者として何かがある訳ではない。普通の常識があれば、自分は利用されているに違いないということが分かったのではないかと思う。
 昭恵さんは国有財産を籠池泰典というユニークな人物に超格安の価格で払い下げるのに貢献したことは確かであり、今回の1件は総理大臣の犯罪と言われても仕方ない。

 都知事に小池百合子氏が登場して、築地市場の豊洲移転の是非がクローズアップされて、移転を決めた元都知事の石原慎太郎氏の責任が問われるようになったが、この人こそ「李下に冠を正さず」を詰問されてもおかしくない人物である。
 自分は専門家ではないから下から上がって来た案件に目を通すことなく、適当に都知事印を押すように指示していたという話であるが、「李下に冠を正さず」という教えに背く行為をいくつもしているが、代表的なものは慎太郎氏本人が「トップダウンだ。俺が考えついた」と明言している、東京都の行っている文化事業「トーキョーワンダーサイト(TWS)」である。
 TWSは若手芸術家の育成を掲げた東京都の文化事業であった。慎太郎氏は都知事に就任以来、都現代美術館など文化施設の補助金を軒並み3~4割カットしたが、TWSだけは2002年度は4400万円だった補助金を4年後には10倍の4億4000万円にした。慎太郎氏はTWSの館長に慎太郎氏の4男で画家の延啓氏が米国留学時代に知り合ったという建築家の今村有策氏を起用し、副館長に今村氏夫人を据えた。そして4男の延啓氏を都の職員扱いにして渡航費を公費から支出させて海外に何度も出張させている。延啓氏に画家としての実績がどの程度あるかわからないが、このTWSは四男のための事業と評されている。
 JRお茶の水駅の近くにあるTWS本郷の建物の中にあるステンドグラスに延啓氏の絵が飾られている。複数ある原画の中から延啓氏の絵を選んだのは今村氏であった。
 今村氏は延啓氏に「報酬は払っていない」というが公費から制作費として300万円が支出されている。経営破綻に追い込まれた新銀行東京にも慎太郎氏側から「殺風景だから買ったらどうだ」と勧められて延啓氏の絵画3点が納められている。
 都政の私物化と批判する声に「余人をもって代え難かったら使いますよ。当たり前じゃないですか。どこに違法性があるのですか。息子は立派な芸術家です」とのたまわれた。
 自分の子供を「余人をもって代え難い」と評する親バカぶりにあきれるしかない。
 小池都知事は「石原さんから『四男のイベントに予算を付けたが、猪瀬さんが知事になって減らされた。都知事になったら予算を復活してほしい』と頼まれた」と暴露している。
 慎太郎氏の振る舞いは「李下に冠を正さず」なんてものではなく、公私混同の最たるものであり、犯罪行為といっても差し支えないと思う。
 恐らく自分が指示したわけではない、自分の知らないところで行われたと弁明するだろうが、部下が勝手に気を利かせることのないように戒めるのも上位者の責任である。

 上位者があまりに偉くなるとご当人が気遣かないうちに、下位者が勝手に気を利かせてしまう、いわゆる忖度(そんたく)することがある。
 このことは政治家だけでなく、経済人でも同様なことがいえる。
 エレクトロニクス部品メーカー『K』の創業者であるI氏は著名な経営者であるが、I氏の創業した『K』の本社は以前はK市Y区にあって「Y駅」から歩いて行けるところにあったが、現在は同市F区Tというところにある。一度お伺いしたことがあるが、最寄りの「T駅」から同社まで相当な距離があり、仕方がないのでタクシーを利用してお伺いした。今はどうか分からないが私がお伺いした10数年前は同社の周りには倉庫がいくつかあるぐらいで、どう考えても交通の便はよろしくないような気がした。従業員はどのような手段で通勤しているのかなと思い、案内してくれた知り合いに「社員の皆さんはマイカー通勤ですか?」と聞いたら、「幹部用には駐車場が地下にありますが、一般従業員用の駐車場はありません。よってバスないし自転車で通勤しています」と言われる。
 これだけ辺鄙なところに移動したら駐車場を用意するのは当然と思っていただけに、これには信じられない思いがした。
 「なぜこんな交通の便がよろしくないところに本社を移したのですか?」と聞くと、知り合いは苦笑を浮かべながら「I会長のご自宅があちらにあります」とその方向を指差す。
 「なるほど」と納得した。
 私がお伺いした時はI氏はすでに会長職を退いていたが、Y区の本社が手狭になって、どこかに本社を移転させなければいけないと考えた時に、役員の皆さんが1月に一度姿を表すかどうか分からない創業者のI氏の気持ちを忖度して、I氏が歩いても来れるこの地に本社を移したのだろうと勝手に推測した。
 移転の話があった時にI氏は「李下に冠を正さず」を自問自答して、「確かに私には便利になるが、従業員の多くは不便になるのは自明のことだから再考しなさい」と言うべきであった。
 「親の心、子知らず」という言葉があるが、これは親は望んでいないのに子供の方でこのようにしたら親は喜ぶだろうと考えて勝手なことをしてしまい、その結果、親に迷惑をかけるというものだが、本社を交通の便の悪い場所へ移転したのは「親の心、子知らず」の行為ではなかったかと思う。
 もっともそれを許してしまったI氏の心にも隙があり、「李下に冠を正さず」という教えを失念してしまったのではないかと思う。
 I氏に限らず、このようなことはよくあるので、トップたるもの、常に自分の立場を自覚して行動するべきである。

 あまりにも偉くなってしまうと周りの人間が直言するのを遠慮するようになり、耳障りに感じることを言わなくなってしまうものである。忖度するということは必ずしも悪いことではないが、下位者にお追従ともいうべき言動があったら上位者は注意しなければいけない。
 とにかく「李下に冠を正さず」という教訓があるので、ちやほやされるような立場に身を置くようになったら、自分及び家族がいささかも疑いを持たれるようなことは避けるべきである。
                                   
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2017年02月28日

元気な人生を歩むのに必要なもの

                 
 ラクビーやサッカーの試合に前半と後半があるが、人生にも前半と後半がある。
 何歳を起点に後半というか、人によって異なると思うが、古希の年齢を超えた私は今、人生の後半にあることは確かであるが、その後半の人生をお陰様で元気に歩んでいる。
 古稀という年齢を越えても生き生きとしておれるのは、研修講師という仕事を現役で務めていることが一つの要因かと思う。
 以前、友人から「このたび長年勤めていた会社を定年退職したが、自分には『きょうよう』と『きょういく』があるから大丈夫です」というメールが来たことがある。
 友人の「きょうよう」は「教養」ではなく、「今日用事がある」ということで、「きょういく」は「教育」ではなく、「今日行くところがある」ということだという説明が付いていた。確かに、人は、毎日、用事があり、また行くところがあれば、退屈することはなく、生き生きとした日々を過ごせる。
 元気で生き生きと生きていくには、「きょうよう」と「きょういく」が必須だが、それを補完するものも必要かと思う。
 年齢的に人生の後半に達しても、毎日、元気で生き生きと生きていくには、当たり前のことだが「体力」が必要だと思う。体力だけでなく、まだまだ頑張ろうという「気力」も必要であると思う。それと、何か成し遂げたいもの、換言すれば「希望」があると、より生き生きと生きていけるのではないかと思う。
 それ以外にも必要なものは色々あると思うが、きりがないのでこの3つに限定して、以下に私の勝手な思いを述べさせていただく。

 必要なものの筆頭は「体力」である。活動的に生きたいという気持ちはあっても、体が元気に動かないとそれは難しい。
 私の敬愛する映画俳優 高倉 健さんが高齢になっても若い時同様、撮影時間中、用意された椅子に座ることはまったくなかったというエピソードがあるが、それはスタッフが立って仕事をしているのに自分だけが座っているわけにはいかないという高倉さん一流の考えがあったとは思うものの、そうはいっても、高倉さんには「体力」があったからだと思う。
 高倉健さんと比するのは恐れ多いことだが、私も研修講師を務めている間、8時間ぐらい立っている。そのぐらい立ち放しでも平気な体力がある。体力があるというのはイコール足腰が強いということである。
 高倉健さんはどうであったかは分からないが、私が今も元気で現役の講師として務まっているのは少年時代に来る日も来る日も海で泳いだ体験のお陰ではないかと思っている。
 私は小学3年生から4年間、長崎県五島列島の奈良尾岩瀬浦で生活していた。
 夏場の7月~8月の間、目の前に広がる海でひたすら泳いでいた。朝早く、夕方まで海に出て、泳いだり、貝をとったり、魚をとったり、疲れたら海面に顔だけ出して大の字になって寝ているという肉体を動かすという生活をしていた。
 夏は泳ぎが主であったが、それ以外の季節は網干場で隠れんぼしたり、山でチャンバラをしたりしていて、嵐の日でない限り、家の中でぐうたらしているということはなかった。
 勉強らしい勉強をした記憶はない。遊んでいても誰からも叱られることはないという実に健康的な生活をしていた。
 海で泳いだだけでなく、後述する中学1年から3年までの3年間の新聞配達も、私の足腰を丈夫なものにしてくれたと思う。
                       
 元気に生き生きと生きていく上で欠かせないものは「体力」に次いで「気力」である。
 『広辞苑』で「気力」を引くと、「活動に堪え得る精神力」と出ている。
 分かりやすくいえば、辛いこと、悲しいこと、困難なことがあってもそれに負けないで乗り切ろうとする、頑張り精神のことと言える。
 どうしたらそんな頑張り精神が身に付くかといえば、一つとして、少年時代に辛いこと、難しいことに遭遇し、それを乗り切ったという実際の成功体験があると、そういった精神が身に付くのではないかと思う。少年時代に限らず青年時代でも構わないが、とにかく若い時に逆境ともいうべき向かい風に当たり、それを乗り切ったということがあると人生の後半になっても元気に生きる素になるのではないかと思う。
 自分で言うのもおかしいが、私は頑張り精神「気力」は他の人に負けないと自負している。
 そのような頑張り精神がどのようにして培われたかというと、これは少年時代の新聞配達のアルバイトのお陰であると思う。
 私は中学1年から3年までの3年間、朝の4時に起きて、新聞販売店に行き、4時半頃、新聞を200部ぐらい抱えて販売店を出て7時半頃までの3時間、新聞を配るという生活をしていた。
 新聞配達員は大雨が降ろうが、台風が来ようが、天候には関係無しに配達に出なければいけない。配達員に余裕がないから、体調が悪かろうと休むことは許されなかった。
 3年間、新聞休刊日の1月2日を除いて、一日も休まず新聞配達したという体験は社会人になってからの人生で活きた。中学を卒業して入社した会社、大学を卒業してから勤めたいくつかの会社でも、仕事を休んでご迷惑をかけることはほとんどなかった。
 研修講師の仕事をするようになり、引き受けた研修講師の仕事はどんなことがあっても、こなさなければならないが、今まで一度も穴をあけたことはない。
 人間なので風邪を引いたりして、体調を崩しかけたことはあるものの、迷惑はかけられないということで意地を張って今日まで無事故・無欠勤で来た。
 研修講師を長年続ける上で顧客を獲得しなければならないが、これまでも相当な回数の公開講座を企画したが、参加者が集まらなかったために開催を断念するということは一度もなかった。もちろん友人・知人に助けてもらうことは何度もあったが、私の心の中にはいつも「無依是真人」という言葉があり、キブ・アップしてなるものかという気概がいつもあり、これは少年時代に培われた頑張り精神のお陰であると思っている。
 研修講師の仕事を丸30年続けることができ、この後ももう少し頑張ろうという気持ちがあるのは、やはり頑張り精神「気力」がなくなっていないからである。

 元気に生き生きと生きていく上で、三番目に必要なものは「希望」である。
 「希望」は何かというと、広辞苑には「あることを成就させようと願い望むこと。また、その事柄。ねがい。のぞみ」と出ている。
 人は誰もが何らかの願い、望むことがあり、それを実現しようと努力している。
 人生の後半になっても生き生きとしている人は、そのような願い、望むことがあるから元気にしているのであって、願い、望むことがなくなって来ると元気を失って来ると思う。
 サムエル・ウルマンの「青春」という詩の中に次のような文章がある。
 青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。(中略)
 年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときにはじめて老いがくる。(中略)
 頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり、80歳であろうと人は青春の中にいる。

 私も「希望」は人の精神を老いさせないと思っている。
 願い、望みがあると明日というか、未来を見据えての活動ができるが、それがないと人は過去の思い出の中にのみ入ってしまうかと思う。
 「希望=願い、望み」には色々あると思うが、自分が生きている間に何らかの形で地域社会、あるいは周りの人達のお役に立ちたいという願望が必要だと思う。
 幸い、私は問題解決・意思決定力の強化の研修、ホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)の研修を通じて、多くの人にお会いしてお話をする機会があり、何らかの形でお役に立っているという実感がある。それが生きがいとなっている。
 この研修講師の仕事をいつまで続けるべきかで迷った時期があったが、命ある限りというのは少しオーバーだが、それでも「生涯現役」の気持ちで講師としての体力・気力がある間は続けたいと思っている。
   
 幸い、私には少年時代培った「体力」と「気力」があり、この世に生を受けた以上、少しでもよい社会にするのにお役に立ちたい、自分が生きたことで、たとえわずかでもいいから、私を信頼してくれている人達の人生を生きやすいものにしたいという「希望」があるので、残された人生の日々を元気に過ごせるのではないと思っている。
 私に限らず、他の人も「体力」「気力」「希望」を持っていれば、古希の年齢を超えた後半の人生でも、生き生きとして毎日を送れるはずだから、「お互いに頑張ろうよ」とエールを送りたい。


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