2018年08月20日

私は実社会という大学で学んだ


 いささか旧聞に属する話で恐縮だが、英国の元首相メージャー氏が首相在任中にテレビインタビューで次のようなことを語って物議をかもしたことがある。
 インタビューで「私は実社会という大学で学んだ」と語り、「知性と常識こそ大学教育より重要である。(中略)高等教育の証明書を山のように持っている人を多数知っているが、そんな証明書はほとんど何の役にも立たない」とも語った。
 サーカス芸人の子に生まれたメージャー氏は16歳で事務員や建設労働者として働き始め、大学には進まなかった。
 このメージャー氏の発言に英国の野党は「教育を軽視している」と攻撃したというが、メージャー氏と似たような経験を持つ私はメージャー氏に同感する。
 私は一応、大学卒業の証明書を持っているが、大学で学んだことが現実の仕事にどの程度、役に立ったのかと言われるとそれはほとんどなく、実社会で学んだことの方がはるかに役に立っている。
 私は中学を卒業して長野県岡谷市にあるマルヤス機械という会社に就職、その会社に勤務しながら夜間高校に通い、さらに上京して明治大学に進むという普通一般の人と少し変わった道を歩んできた。
 そんな私が研修の合間に受講生と歓談した時、ひとりの受講生から「学校はどちらを出られたのですか?」と聞かれたことがある。出身大学を聞いているのだろうとは思ったが、意地悪をしようとしたわけではないが「長野県にある中学校です。私は中学を卒業してすぐ就職したのです」と答えたことがある。その方は驚きの表情を浮かべて「本当ですか?」と言われる。「ええ、本当です。ただ、その後、定時制高校に進み、さらに明治大学の商学部に入学、そこを卒業しています」と答えたら、心なしかほっとした顔をしている。
 高校、大学を卒業していることは確かであるが、「高校、大学で何を学んだのか?」と問われると答えに窮する。
 定時制高校の時は大学受験という目標を得てからは、授業は適当に受けて、あとはひたすら大学入学のための勉強に勤しんだ。
 頑張って入学した明治大学では生活費を捻出するため、アルバイトには励んだものの、これといって熱中して勉強したという教科はゼロである。
 卒業後、大学で学んだことで生きたことはほとんどない。
 その責任は指導する学校側にあったかというと、受講する私の姿勢にあったと言える。
 その証拠に私は3年生の時、マーケティングの権威である三上富三郎教授の指導する三上ゼミに所属していたものの、何を教えていただいたかをまったくといって覚えていないが、同じゼミ生で、盛岡で『ジョイス』というスーパーを経営していた小苅米淳一君は「三
上先生の教えは大変役に立った」と言うからである。
 自分を標準にして、大学では実社会に出て役に立つ学問はまったく教えていないようなことを言ってしまったが、皆が皆、私のように不勉強な学生ばかりではないので、小苅米君のように熱心に勉強して、実社会に出て、それを生かしている人の方が多いかと思う。
 ただ、私に限っていえば大学4年間は無為に過ごしたといっていい。
 皮肉なことに、大学を卒業後、実社会に出て、役に立ったことは、中学を卒業して入社したマルヤス機械で体験した事柄である。
 どんな体験が具体的に役に立ったかと問われると次のようなことがあった。
 私が所属した検査係を含む製造課の課長であった山田寅雄さんという人は映画俳優にしてもよい位、ハンサムな人であったが、仕事面では大変やり手であり、この人が来ると職場には緊張感が漂った。私はこの人が苦手で、直接声を掛けられて震え上がったことがある位、私には怖い存在であり、入社した当初はできるだけ顔を会わせないようにしていた。
 私にはこの人がなぜ若くして製造課の課長になったのかが分からなかったが、ある日の出来事でそれが分かった。その日は、外は雪が降っていて大変寒かった。私達検査係のメンバーは出来上がった製品に不具合がないかをチェックするという作業をしていた。
 非常に大きな鋳物製品であり、それを水槽の中に入れて空洞がないかをチェックして、空洞があると水の中に手を突っ込んでその箇所をマークするのが私の役目であった。
 信州の冬は寒く、水槽の中の水は手が切れるような冷水であり、水槽の中に何度も手を入れるというのは非常につらかった。周りにはストーブもなく、手を暖める暇なく、再度手を入れなくてはいけないのだが、あまりにも冷たい水なので、つい躊躇したことがある。
 一緒に作業していた主任も係長も水が冷たいのが分かっているから手を出さない。そこに通り掛かったのが山田課長である。「繁之、チョークを寄越せ」と言って、私の手からチョークを取って、ワイシャツの腕を素早くまくり上げ、冷水の中に手を突っ込む。
 この人はこの苛酷な作業を涼しい顔で行う。これにはびっくりし、そして感動した。
 その日以降、私は山田課長を尊敬の眼で見るようになった。
 人の上に立つ人は部下の嫌がるつらい仕事を進んでやらなければならない、自分にとって嫌な仕事、つらい仕事を上位者の権威を借りてただ指示するだけでは、部下は付いてこないということをこの山田課長の行動から学んだ。
 後年、私が組織のリーダーになって部下にきつい仕事をやってほしいとお願いするような場面では、この時の山田課長の姿を思い起こし、リーダーというものは部下と一緒に汗を流してこそ真のリーダーであると自分に言い聞かせてきた。
 仮に大学の授業でリーダーは率先垂範しなければならない存在であるということを学んだとしても、目の当たりにそのような場面がリアルに思い浮かばなければ、そうかもしれないと思う程度で、後年、実践するまでには至らなかったのではないかと思う。
この会社では働くとはどういうことなのか、下積みで働いている人の上位者に対する思い、現場で汗と油にまみれて働いている人達がきれいな事務服を着て事務所で働いている人に対して、どんな思いを持っているかなどを学んだが、これが大学卒業して人事部門で働き、課長、部長というリーダー職を務めるようになったところで、大変役に立った。
 そういった意味で、私にとっての『大学』は中学を卒業後、4年間お世話になったマルヤス機械という会社であるといってもよいかもしれない。

 また、明治大学を卒業してから今日の研修講師になるまでの間、10数年に渡って勤務していたソニーの子会社である桜電気(現ソニーイーエムシーエス木更津テック)という会社で体験したこと、上司から教えていただいたことがその後の私の人生で大変役に立った。
 特にこの会社の社長であった鳥山寛恕さんには貴重な『常識』を教わった。
 もうかれこれ40年ほど前になるが、鳥山さんと一緒に「トヨタかんばん方式」について教えを乞いにトヨタ自動車の元町工場を見学に行った。私は工場を見学した際、いつもの癖で片手をスボンのポケットに突っ込んでいた。さらにあちらの応接室でトヨタの総組立部長の松永さんという方から懇切丁寧な説明を受けていた際、私は無意識であったが足を組んで聞いていた。
 この工場見学の終わった翌日、私は鳥山さんに社長室に呼ばれてこっぴどく叱られた。
 「お前は常識を知らない。俺は、昨日は恥ずかしくて仕方がなかった。工場見学している時、俺がお前さんの腕を何度か引っ張ったことがあるだろう。何で俺があんなことをしたかお前に分かるか?」ときつい調子で言う。「さあ、何か変だなあと思ったのですが分かりません」と脳天気なことを言った途端、「馬鹿もん!人様の会社に行って、相手の方が案内してくださっているのにポケットに手を突っ込んでいるとは何事だ。それと人の話を聞くのに足を組んで聞くというのはどういう了見だ。俺は勿論だが、説明してくれた方だって足を組んでいなかったのに一番若造であるお前が足を組んでいた。あんな生意気な態度は許せない。外国ならいざ知らず、この日本では目下の人間が目上の人から話を聴く際には足を組まないのが常識だ。俺に二度と恥をかかせるな!」と。
 「分かりました。申し訳ありません」と平謝りに謝ってなんとか勘弁してもらったことがある。この厳しい叱責があるまで、私はそれまでポケットに手を突っ込んで歩くことも足を組んで人の話を聞くのも、それほど失礼なことではないとは思っていた。苦々しく思っている人は沢山いたと思うが、面と向かって注意されたことはなかった。
 鳥山さんに、きつい調子で『常識』を教えられ、それ以来、そのような生意気な態度を取ることは極力なくそうと努めて今日まで来ている。
 もし、あの時、鳥山さんから叱責されることなく、『常識』を教えられなかったら、私はその後の人生でさらに沢山の恥をかき、謗りを受けたと思われる。
 本来なら男親が教えるべきことなのかもしれないが、たまたま私は成人してから父親と接することは少なかったこともありそのような『常識』を教わらなかったし、また大学でもそのような『常識学』という講座はなかった。
 このような失敗も含めて、この桜電気という会社で数々のトラブルに遭遇し、その都度悩み苦しみ、意思決定の難しさを味わい、また十分なリスク検討もせずに実行に移して、上司からきついお叱りをうけるという体験を通じて、貴重な教訓を得たが、それらは現在の研修講師の仕事にズバリ生きている。

 マルヤス機械を始めいくつかの会社での数々の苦い体験がなかったら、一通りの講釈はできても、講義は実に薄っぺらなものになり、受講者を納得させることはできなかっただろう。学校で知識を学ぶことは決して悪いことではないが、その知識は現場に身を置いて初めて分かることが多く、知識を生きた知恵にするのは現場である。
 実務に生きる本当の学問は現場にあるといって差し支えない。
 私もメージャー氏同様、多くのことは実社会という大学で学んだと実感している。
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2018年08月09日

禍福はあざなえる縄の如し


 「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉がある。
 この言葉の意味として「この世の幸、不幸は寄り合わせた縄のように、常に入れ替わりながら変転すること」と広辞苑に出ている。
 その通りだと思うが、私はこの言葉を勝手に、「人生のある時点では一見不幸に見えても、本当に不幸かというとそうでもなく、その不幸がバネになって後年の幸せに繋がることがある」という意味に解している。

 なぜ、そのように解釈するかというと、私には次のような体験があったからである
 私は中学1年から3年(昭和29年から32年)までの間、長崎市内で生活をしていた。 数年前、仕事の関係で長崎市に行った時、原爆の落ちた浦上天主堂の少し先にある赤迫地区で昔、大変お世話になった駄菓子屋さんを探した。
 お世話になったというのは、その駄菓子屋さんで「芋飴」を購入させてもらったからである。駄菓子屋さんはおばあちゃんが一人でやっている小さなお店だった。あれから半世紀も過ぎているので当然だが、そのお店はどこを探してもなかった。
 「芋飴」はこのお店にあるお菓子で一番価格が安かった。1円で3ケもらえた。ただ、1円では買いづらかった。3円あれば堂々と買えた。しかし、その3円だって、ポケットにない日が多かった。貨幣価値が今とまったく違うが、当時の3円は今に直すと50~60円前後ではなかったかと思う。
 「芋飴」はどのようにして作ったものか分からないが、まずまず美味しかった。
 私の好物は今も昔も「あんドーナツ」には変わりはないが、この当時、「あんドーナツ」はいくらしたか分からないが、私にとっては高嶺の花であり、「芋飴」で満足していた。
 この時期、新聞配達をして、月850円の収入を得ていたが、それは全額、母親に渡して、生活費の足しにしてもらったので、金欠病が通常であった。
 お金があったら口惜しい思いをしなくて済んだと思ったことがいくつもあるが、今でもよく覚えているのは紙芝居を堂々と見れなかったことである。
 まだテレビが一般家庭に普及していない時代であり、当時は紙芝居が全盛であった。
 紙芝居のおじさんが来ると群がって紙芝居を見に行った。だけど紙芝居を見るには5円の水飴を買わないといけない。5円あれば紙芝居を一等席で堂々と見ることができたが、水飴を買わない子供はおじさんに追い払われた。5円はなかったので、私達兄弟は紙芝居のおじさんに見つからないように木の陰に隠れてこっそり見ていた。

 口惜しい思いをしていたのは私と弟だけではなかった。
 私には妹が2人いるが、上の妹が小学校に入学する日のつらかったことを今でも覚えている。
 ランドセルを買うお金がなかったので、妹は母親の手作りのズックの物入れを手に下げて入学式に出かけた。母に手を引かれて妹は嬉しそうな表情を浮かべていたが、それを見ていた私の心は辛かった。
 とにかくお金がなかったので、お金になることであれば泥棒以外のことは何でもやった。 その中でも一番稼げたのは電線拾いだった。今は見掛けなくなったが、以前は電柱が道路沿いに立っており、電線の取り換え工事をよくしていた。工事をしている現場に行くと切った電線が下に落ちている。銅線である。長い銅線ではなく、もう使いようのない10センチ前後の短い銅線である。これを鉄くずやさんに持って行くと結構な金額で買ってくれる。
 結構な金額といっても20~30円だったと思うが、これはいい収入になった。
 子供同士で銅線の熾烈な争奪戦になったが、工事に従事しているおじさん達は笑みを浮かながら私達子供が拾うのを許可してくれた。
 全体的には貧しい時代だったが、心優しいおじさんのいる時代でもあった。

 わが家の貧乏物語を語るのが趣旨ではなく、今回は貧乏であったことが必ずしも不幸でなかったということを言いたいのである。
 貧乏といえば確かに貧乏だったが、だからといって卑屈になることはなかった。
 何故かといえば、周りを見渡せば私達と同様の貧乏な家庭が多かったせいだ。
 昭和31年に経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたことを後年知ったが、私の実感では当時はまだまだ貧しい人の方が多かったような気がする。
 最近よく言われる「格差社会」は当時は存在しなかったのではないかと思う。
 お洒落な服装をしている同級生もいたが、それはわずかで多数派はお粗末といえば語弊があるが似たような質素な服装であった。格差がなければ羨むことも少なくてすむ。
 貧乏が理由で学校でいじめに遭うようなこともなかった。
 私達兄弟は仲良しだったような気がする。兄弟喧嘩をしたような覚えがまったくない。 食べ物で争い事があってもおかしくないがそのようなことはなかった気がする。
 今、考えてみると、貧乏だったからお互いを思いやる気持ちが芽生えて、争うことなく、仲良く過ごせたのではないかと思う。
 私より2歳年上の兄は親父の故郷である長野県の伯父の家に預けられていたので、子供は私と弟、妹二人の4人だった。その4人共すでに60歳を超えたが、今でも時折会って昔の貧乏だった時代にあったことを笑い話にしている。貧乏な時代を共有したからこそ、今日まで仲良しの状態が続いているのではないかと思う。

 私自身、貧乏は自分に与えられた運命と受け止めて、他の人を羨むとか、誰かを恨むということはなかった。
 貧乏から抜け出すには子供である自分達が働くしかないと自然に考えるようになり、朝4時に起きての新聞配達を何ら厭わなかった。
 私は中学1年生だからいいとしても、弟はまだ小学校5年生だった。その弟が愚痴の一つも言わず私と一緒に早起きして、私より遠い地域に配達に出かけたのだから、兄として泣き言を言うわけにはいかなかった。
 もし、私達が経済的に恵まれていたら、新聞配達をしようなんてことは思いもよらなかったと思う。貧乏であったからこそ、それを克服するには働かなければならないという気持ちにさせてくれた。働くと決めた以上は多少つらいことがあっても我慢して努めなければいけないという克己心が養われた。
 よく考えてみると、中学1年生で新聞配達して以来、今日まで一貫して働いている。
 遊んでいるという時期はまったくなかった。もちろん、高校、大学と行ったが、高校の時は昼間、工場で働いていたし、大学の時は各種アルバイトで生活費を稼いでいた。
 働くことを何ら厭わないのは少年時代に働くことが当たり前だという生活をしたお陰である。

 不遇であったりすると、自分の努力が足りないことを棚に上げて、親が良くなかった、育った環境がよくなかった、世の中がよくない、自分は運が悪いとか、何かと他に責任転嫁する人が結構いるが、私はそれが大嫌いである。 
 私の少年時代にはそれほど見掛けなかったが、昭和50年代に、自分たちのことを親や先生は分かってくれないと言って、「夜の校舎、窓ガラス壊してまわった」とか「盗んだバイクで走り出す」といった歌詞の唄をもてはやす若者がいたが、自分達を理解してくれないからという理由で他に八つ当たりするなんて行為は甘ったれているだけで、卑怯な行為だと思う。
 年号が昭和から平成になり、すでに30年が経とうとしている今日、そういった若者がより増えてきているように思うが、そんな甘ったれたことを言っても自分を貶めるだけで、何の役にも立たない。
 私はこれまでの人生で沢山の人にお世話になっているが、自分が努力しないでいて、最初から人の助けに縋るということはなかった。
 他人に縋ることはよくないことで、自分の力で生きていくのが当然であると思って今日まで歩んで来た。
 「自助努力の精神」が養われたのは子供の頃の貧乏体験があったお陰である。

 貧乏な少年時代は不幸であったといえば確かにそうだが、兄弟がお互いに助け合うようになったこと、克己心が養われて逞しさが身に付いたこと、そのお陰で自力で進路を切り開くことができたのは、偏に少年時代に貧乏な生活を送ったからであり、冒頭の「禍福はあざなえる縄の如し」の私の解釈はご理解いただけるかと思う。
                                 
posted by 今井繁之 at 13:13| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

これも一局


 『聖の青春』いう名作を書かれた私の好きな作家の一人である大崎善生さんが、将棋の世界では「これも一局」という言葉がよく使われると語っている。
この言葉は対局が終了した後で、戦っていた棋士同士が、「ここでこうすればどうだったか」とか、「こう指していたらあなたはどう指されましたか」といった話し合いをする時に使われる慣用句だという。
 「ここで、銀が上がっていますと?」
 「ああ、まあそれも一局でしょう」というふうに。
 つまり、ある時点で、ある手を選択すると、今日二人で指した将棋とまったく別の将棋になってしまうので、それを検討するということは、もう一局、別の将棋を指すのと同じことになってしまうことである。
 そして、そのようにすでに終わってしまったことをこまかく突き詰めることはあまり意味のあることではなく、終わってしまったことをあれこれいまさら蒸し返すのはやめましょうということである。

 私達の人生においても現実にはそのように歩まなかったが、あり得たかも知れない人生は「これも一局」ということで振り返ることがあるのではないかと思う。過ぎたことであり、元に戻ることは絶対できないのでいまさらあれこれ考えるのは無駄といえば無駄かもしれない。
 そうはいっても凡人の悲しさで、人は自分が現実に歩んできた道以外に別の道を歩んでいたら果たしてどうなっていただろうかと、ふと考えることがあるのではないかと思う。
 私もその一人で、私があり得たかもしれない人生を考えた場合、エポックメイキングともいうべき分岐点がいくつかあるが、その中でも一番大きいのは大学卒業後に入社した会社を思い切りよく辞めるという決断をしたことである。
 私は昭和40年に大学を卒業、勇躍して入社したのは事務機やカメラを生産していたリコーという会社であるが、折からの不況でこの会社には一日も出社することなく、リコー時計というこの会社の子会社に出向になった。そもそもリコーに入社しようと思ったのは、当時、この会社の社長をしていた市村清さんに惹かれたからである。この人の書かれた本を読んで、どうせ働くなら尊敬できる経営者の元で働こうと考えて、市村さんに入社志望の手紙を送付した。その手紙だけで採用が決まったようなもので、私は大学卒業時は就職の苦労というものはまったくしなかった。
 ところが、東京オリンピックの終わった翌年、このリコーの業績不振が表面化して、株価も50円を下回った。そこでリコー本体では採用内定者を全員受け入れるのは困難なのでしばらくの間、子会社で働いてほしいということで大部分の内定者がリコー時計に出向となった。私はリコー時計の富山営業所に配属になり、時計を販売する仕事に従事することになった。朝、腕時計が一杯詰まった大きなバッグを右手に持って営業所を出るが、帰りは左手にも返品となった時計を持って帰るという日々を続けた。なぜ、そうなったかというと、当時のこの会社の製品の品質がよくなかった。私は訪問した時計店のご主人から「オタクの時計はすぐ止まったり、時刻が狂ったりするという不良品が多く、安心してお客様に販売できないので扱いたくない」と言われてしまった。私以外の営業マンも同様だった。そこで、営業所では、まともな営業をしても引き取ってもらえないので、月末になると時計店に商品を勝手に送って売上数字だけは挙げるという信じられないことを行なうことになった。翌月、時計店を訪問して、返品伝票を書いて私達がそれを持ち帰るということを繰り返していた。
 リコー時計に勤務するようになって2ヶ月位経過した時、名古屋で中部地区の営業マン全員を集めての販売会議があった。中部地区のトップである支店長が「この販売不振を脱却するために何でもいいから意見があったら言え」というので、手を挙げて、「こんな販売を続けていたらダメです。本社に品質の安定した製品を早急に作るよう意見具申するべきです。それまでの間は品質が安定している旧高野精密の柱時計中心に営業するべきだと思います」と述べた。支店長は真っ赤になって怒り、「貴様はいつ入社したんだ?」と言う。「今年の春、入社した者です」と答えると「生意気なことを言うな。商売の何たるかを分かってないくせにそんなことを言うのは10年早い!」と言う。「あなたが何でもいいから言えというから日頃考えていることを言ったまでです」と言い返した。「分かった。君の意見は聞きたくない」ということで私の提言は受け入れてもらえなかった。
 (この会社はダメだ。先はない。早いところサヨナラした方がよさそうだ)と考えて、辞表を出して辞めることにした。
 その後、リコーの業績は回復して、私と同様にリコー時計に出向になった人達は短い人は1年後、長い人でも3年以内にリコー本社に戻ることになった。

 リコーの業績が悪くなく、出向にならなかったらどうなったか?
 出向先のリコー時計でも生意気なことを言わずひたすら忍の一字で耐えていたらリコー本社に戻ることができて、本社でそれなりの仕事を任されて、まずまずのポジションを得られたかもしれない。同社はその後、優良会社に生まれ変わり、私と同期入社した人の中には取締役まで昇進した人もいるので私もその程度まで行けたかもしれない。
それもあり得たかもしれない人生である。
 早い段階で見切りをつけて、この会社を辞めたことを悔いた時期もあったが、私の尊敬していた市村さんは会社が立ち直ったのを見届けて、私が辞めた数年後にこの世を去っており、この会社にいたとしても、あまり意味のあるものでなかったような気がするので、早い時期に辞めたことは間違いではなかったのではないかと思っている。

 作家沢木耕太郎さんの書かれた作品に『世界は使われなかった人生であふれている』があるが、「使われなかった」というのは、選択いかんによってはありえたかもしれない人生という意味で使用されているものと解釈している。その作品で人生のある段階で別の決断をしていたらどうなったのだろうかと想像するというものだが、私も大学卒業後勤めたリコーだけでなく、その後勤めたいくつかの会社を辞め、40代の半ばでサラリーマン人生に別れを告げて、研修講師として独立するという決断をしているが、そういう道を歩まなかったら果たしてどうなっただろうかと考えることがある。
 あり得たかもしれない人生、現実にはその人生を歩まなかったから、果たして本当にどのような結果になったかは誰にも分からない。
 あり得たかもしれない人生が果たしてどのようなものになったかは想像の世界になってしまい、それと現実に歩んだ人生とを比較するのは大変難しいが、つらいこと、苦しいことも多少はあったものの、現実に歩んだ人生は今のところ総じてハッピーなので、結果よければすべてよしということで、この生き方でよかったのではないかと思っている。          
posted by 今井繁之 at 13:05| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする